memo

▼2025/12/15:切実なんだよ、だって人生は一度きり

昨日の記事を書いていた時は軽い躁状態だったんだなと実感している。何故って、今は鬱転してしまってるからだ。
今年に入って二度目の鬱転。よろしい状態ではないと分かってはいるが、躁状態の方が幾分か楽だ。
最近視聴するようになった動画チャンネルでは、双極性障害を持つ人の場合、鬱状態で居る方がまだ危険性が少ないらしい。何の危険性かは察してほしい。鬱状態から半端に躁状態に変わってしまうと、鬱の思考回路のまま躁の行動力でとんでもない事をしでかすんだとか。となるとこの精神低空飛行状態も悪いわけではないのだろうか。低め安定が一番いいらしい。ただ、当事者である私は苦しくて仕方ない。
前から書いているように、私は軽い躁状態がデフォルトの人間だ。少なくともここ十年くらいは。何だかんだ前向きだし、人生はどうにだって好転させられると信じている。その反面、人生どころか世界全体に絶望しているけれど。まず、人間として生まれて来たくなかった。理性や高度な思考が存在しない生き物として生まれて来たかった。私の脳味噌はしょっちゅう誤作動を起こすし、ただでさえ後ろ向きな楽観主義者なので『追い詰められたらこの世界を手放せばいい』と考えがちだ。こんな風に考える事も出来ない生き物だったなら、この苦しみも存在しなかった筈なんだ。
でも、生まれてしまったものはしょうがない。なるべく良く生きたいし、人生を楽しみたい。やりたい事も見たいものも尽きない。一度きりの今日も、明日も幸せで居たい。でも幸せで居たいなら、もう少し鈍感なくらいで丁度良いように思う。
何事も深く考え過ぎてしまう。二の足を踏んで見逃した好機がいくらあったのか分からないくらい、『熟考は愚考』を地で言っている人生だ。
死にたいとか消えたいとかじゃなく、苦しくて仕方ない。誰でも良いから助けてほしいのに、多分本当に助けられるのは私自身しか居ないんだろう。痛いのも苦しいのも嫌いだ。好きな人はあんまり居ないと思う。

訳もなく苦しくて、辛いと思うしかない『今』が厭わしくて煩わしい。何かに没頭すべきだろうか、人は思考に隙間が生まれると碌な事を考えないというのは正しいと感じる。何かに忙殺されたい。出来れば興味のある事に没頭して思考の隙間を詰め切ってしまいたい。目の前の何かに集中している間は『今の苦しみ』を忘れられる。
暫く絵を描いていないと気付いた。小説も書いていない。だからだろうか、何か心に目詰まりでも起こしているのかもしれない。
ふとした時、消えたいという感情を抑える事に苦労している。これは多分鬱転の所為なので私の本心じゃない。だってもしも明日目が醒めた時、銀行口座に非課税の10億円が振り込まれていれば途端に持ち直すだろう。それくらいの鬱状態でしかない。それくらいには今の所俯瞰視出来ている。
貧乏が皆悪いとはよく言われるけれど、確かに自由に使えるお金がある程度多ければ悩みの多くはどうでもよくなるだろう。

書き出している内に段々落ち着いてきた。私は本気でこの世界に絶望なんかしてないし、明日も多分仕事に行くし、来年には一人暮らしをして再来年にはチワワをお迎えする。具体的な行動プランだって練っている。

幸い、一晩眠ると大分回復出来る性質なので明日の朝にはケロッとしている可能性が高い。夜が明けるまで、静かに息を潜めていようと思う。ちなみに精神科の受診も近いので、其処で主治医に伝えるための文章は書き上げた。

ただ、楽しく生きたいだけなんだ。それが難しい生き物であることが、少しだけ悲しい。


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