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▼2026/05/06:矢車草の青を食む、甘けりゃいいってものでもない。

ここ最近、忙しさ故なのか巧くいかない私生活故なのか、夜中になると夜食を貪ってしまう日が続いている。それでも如何にか体重が減っていくか現状維持なのは、純粋に運動量が一般よりも多いからなのだろう。減っていくとは言ってもゆっくりとしたペースではあるけど。体重計に乗る頻度も恐怖故に減少傾向にあるし。
動かないから増えるのではなく、動く以上に食べるから増えるのだ、食事による摂取カロリーと運動による消費カロリーのバランスで体重は変動するし、ただ食べ過ぎれば体重も体脂肪も増える。当然の話なのだが、食べる事ってどうしてこんなに気持ちが良いのだろうか、食べている瞬間だけは何もかもから解放されているような錯覚(明確に錯覚だ)に陥る。こんな毎日を送っているから、この前の体調不良の際若干に糖代謝異常の疑いに怖くなってしまった。急性膵炎は乱れた食生活でも起こりうる病気である。
ちなみに痛みはもう無いので、心配してくださった皆さんには安心してほしい。抗生物質で一発で治った。
しかしこのままだと心安らかに夏を迎えられないので、ここらで自分に喝を入れようと思う。

少し前まで『夜食を摂らない方が調子がいい』『甘い物はたまにで良い』『食べるより運動する方が楽しい』などと宣っていたのにこのざまは何だ。夜食を摂らないとなんとなく満たされないし、甘い物はやっぱり毎日食べたいし、運動するのは確かに楽しいけど食べるのはもっともっと好きだとなれば当たり前の結果と言うべきか。
でも甘い物って本当に美味しいんだよなぁ…暫く忙しくてダイエットおやつの材料を買いに行けてなかったので、明日スーパーマーケットの食品コーナーへ走ろうと思う。
それと、職場の方にお菓子を貰う機会が多いのも困っている。節約も兼ねて自分ではお菓子を買わないようにしていても職場の休憩室には常に袋菓子があるし、連休をとった人からのお土産もあるし、こういう時に限って親がお菓子を買って持って来るのだ。親に関しては『あんたがダイエットしろっていつも言ってんだろ!?』と思ってしまうが(おまけに「食べすぎるなよ?」とも言われる。だったら買って来るな)、結局、『これを食べたら間違いなく体重が増えます!』とされる食べ物は存在しない。極論を言っている自覚はあるが、摂取カロリーを消費カロリーが上回れば体脂肪がエネルギー源として使用され全体量は減少するのだ。これは間違いないし、現に一日かそこら食べ過ぎたところで体脂肪がダイレクトに増えるわけじゃない。食べ過ぎた翌日の体重増加はほとんどは塩分や糖分過多による浮腫みだ。
とは言えこのまま放って置くのは悪手以外の何者でもない。体脂肪が1kg増えるのに必要なカロリーは7200㎉。逆算すると一日に240㎉余計に摂取すれば、1ヶ月で1kg、体脂肪が増える事になる。240㎉ってどのくらいだろうか、と考えると確かポテトチップス1袋分にも満たない量だ。どら焼きひとつ分でも200㎉は軽く超えるし、この前食べたスターバックスコーヒーのお菓子は一つあたり300㎉を優に超える。と思うとお菓子に使用される砂糖と油脂の量に慄いてしまうが、それを毎日食べて何の運動もしなかったら肥るし肌も荒れるだろう。しかもほんの少しの積み重ねと云えてしまいそうな量なのが怖い。ちなみにスタバで食べたのは餡バターを挟んだスコーンだ(美味しかった)。たまに行く牛丼屋のチーズを載せた牛めし、マヨネーズの掛かった葱の牛めし、どれも美味しいがカロリーは並盛でも800㎉を超える。まだラーメンの方がカロリーが低くトッピング次第で栄養価も高いというのが恐ろしいようなそうでもないような。
人間は進化の過程で生き残るために調理の技術を身につけたが、肥る食べ物がおいしいのは、生き残るのに有利なものを食べると美味しいと感じるようになったからかもしれない。甘みも塩味も油脂も、そうそう簡単に手に入る味付けではなかったらしい。割りと長い時期人間は甘味や塩味や油脂を求め続けてきたのだ。だからそれらを口にすると本能的に安心してしまうらしい。加えて『栄養がある上に美味しいんだから、もっと食べないと!』なんて恐ろしい事を考えて箸を進めてしまうのだ。

しかし、本能に抗う理性を持ったのが人間と言う生き物の側面でもあるので、此処はひとつ、理性に頑張って貰おうと思う。理性もそうだし、考える能力もフルに使う。たまに『自分は好きな事を好きなだけして、好きなものを好きなだけ食べて太く短く生きるんだ!』と宣言している人を見かけるが、現代日本で『太く短く生きる』はかなり難しい。行き過ぎた食習慣で病気になれば間違いなく皆保険のこの国では治療対象となるし、何より簡単にピンピンコロリなんて実現できない。本人が改めなかったとしても半端に苦しみながら生きる事になる時期が幾らかは続く。かと言ってそう言う生き方をし続けた人が早々自らの首を括れるのかと言うとそうでもないだろう。
改めて言っておくけれど、私は現在『死に急ぎ』なんて真似はしたいと思わない。生き急いでもいない。なるべく健康に或る程度長く生きて、幸せを味わい人生を楽しみ切って、見送りたい人たちを全員見送ってから安らかに旅立ちたい。多分後数十年は先だと思う。
なので、『楽しく幸せに生きる為』にも健康で自分の理想とする体にならないといけない。いけないって言うより、そうで在りたい。努力する自分が一番好きなんだから。

と、言う事で、此処に宣言する。今日の夜は何も夜食を摂らずに眠る。明日も明後日もその後も、きちんと味わえる時にだけ美味しい物を少しづつ頂くんだ。やりたい事も味わいたい体験も尽きないので、まずは今夜、歯磨きの後は何も味わない様にしたい。

▼2026/05/01:過重の嘘、払い清めぬは誰の間違い?

日本に国民皆保険があって本当に良かったと痛感する出来事があった。
一昨日の仕事中に下腹部痛と排尿時痛があって、これ完全に膀胱炎(しょっちゅうなってる)だわ病院行かないとと思って、仕事を早退した。しかしその日は祝日、故にかかりつけの泌尿器科が急伸なので当番病院を探す事になって、さらに痛みが腰背部の左側にもあるとうっかり素直に伝えたら検尿だけでなく血液検査とCTスキャンも受けるように言われるという始末。私は腰の後ろをトンと叩いたら痛みがあったので『もしかして腎盂腎炎?』と思ったから言っただけだったんだけど、医師に疑われたのは急性膵炎だった。結果CTスキャンを数年ぶりに取る事になった。
で、休日加算もあったけど皆保険制度のお陰で負担額は渋沢栄一一人よりは少なく済んだんだよね。以前から付き合いのある海外の友人曰く、日本の医療制度は本当に素晴らしいらしい。技術も含めだけど、国民全員が少額ずつ負担してその代わりに自分の医療費は軽く済むとか、海外では考えられないもんね。
検査結果は予想通り膀胱炎だったのはまあ良かったんだろうし、膵臓や諸々の臓器も序でに見てもらえたし軽めの健康診断と思っておくことにした。
この前此処に書いた甲状腺機能低下症の恐れもそんなに無いらしい。これが分かったのは一昨日のことではなくて、その前日にたまたま婦人科での定期検診があって質問してみたらそう言われた。私の検査結果だと甲状腺に異常がある場合本来あがってるのが自然な数値が平常値だし、その他の数値の異常もそこまでひどくない。寧ろ去年より悪玉コレステロールが下がってるから良かったみたいだ。コレステロール値って善玉と悪玉があるけど、私は両方が平均より高いから体の中をそれらが滅茶苦茶行き来してるんだと思う。一回善玉コレステロールが100を超えた事あって、悪玉は平常値だったから、末梢からコレステロールを回収する運び屋が沢山居た事になる。

そう言えば、ダイエットはまあまあ順調らしい。コレステロール値が下がった一因でもあるし、ぶっちゃけ身体を動かすのが良い感じにストレス発散だから割と毎日続いてる。でも職場の休憩室でスクワットとかストレッチとかやってるのはぶっちゃけその場から浮いてると思う。座ったままできる腹筋とか、キックバックとかやってると周囲の視線が若干痛い。たまに「頑張ってるね〜」とか褒められる事もあるけど。
基本自宅トレか職場トレだけど、大分暖かい時期になったから外でも運動したい。日焼け対策をしっかりやってウォーキングとかかな。今年独り暮らししたいと思ってる物件がいまの家から十分くらい離れたところに在って、其処に引っ越せたら通勤時のウォーキングが長く出来そうなんだ。人間、日光に当たるのは心の安定にも大切らしい。前は夜が長い方が調子が良い事が多かったけど、歳を取ったら日向ぼっこも悪くないなと感じるようになった。今の時期くらいが一番運動するのに適してる気がする。秋に入ると札幌は直ぐ寒くなるし。
ただ、痩せてはきたけどまだそこまで大きく見た目が変わったとは思ってない。特に洋服を着てる状態だと誤魔化せちゃう肥り方をしてたから、もう少し見える場所も絞りたい。

スマホに入れたあすけんとチャッピーの指導だと、やっぱり私には米飯を主食にした献立の方がいいみたいだ。パンとか小麦粉製品って美味しいんだけどね、やっぱり資質も多く摂ることになっちゃうからたまにご褒美みたいに食べる方が良い。
そう言えばパスタとパンならどっちが肥りやすいんだろうね? うちだとパンは買ってくることしかしないけど、パスタは外食で食べるパターンと自分で作って食べるパターンがある。その時選んだソースにもよると思うけど、基本自宅で作る場合はほとんど和風の味付けばかりになって来た。それかブロッコリーを丸ごと粗目の微塵切りにしてオリーブオイルとベーコンとニンニクとで炒めて粉チーズとお塩で味付けするか、アボカドとベーコンとしめじと卵でカルボナーラ風にするか。
ここ数年、市販のパスタソースはほとんど買った事が無いって今気づいた。自分の好きなように味付けできる方が美味しいから、本当に数えるほどしか買ってない。昔はキユーピーのバジルソースとか買ってたんだけどな。
個人的に、一番簡単に作れるのは納豆パスタだと勝手に思ってる。麵に味付けしたらかき混ぜた後の納豆を載せて葱と刻みのりをあしらうだけだから5分もあれば作れるのでお勧め。納豆にはカラシを多めに入れるとなお美味しい。
料理する時、特にお野菜は辛味を利かせるのが好き。ワサビ和えとか辛し和えもそうだし、ぬたとか豆腐に餡掛けをかける時もちょっとワサビを入れたくなる。前に此処に書いた小松菜の山葵醤油マヨネーズ和えは、ざく切りにした小松菜をさっとゆでて、熱い内にワサビと醤油、出汁の素を入れて混ぜてから少し冷まして、マヨネーズを入れてあえたら完成。簡単で栄養も取れて美味しい。この時期なら同じ味付けでアスパラを和えても美味しい。寒い時期ならほうれん草でもいける。
最近、旨味の強い料理が本当に好きだし、これも日本人で良かったなぁと感じる要素の一つだ。
ちなみに我が家だと使ってるだしの素はあごだし。これでお味噌汁作ると本当に美味しいから是非やってみて欲しい。

▼2026/04/26:九番目の聴覚情報。奪い取られるくらいなら、

今日、Youtubeのお勧めでタイムラインに上がった曲がかなり良くて、ついアマゾンで購入してしまった。書き始めた小説がなかなかうまくいかなかったんだけど、これを聴いたらいい感じに妄想が熟成して構想が見えてきた。やっぱり私は聴覚優位の人間なのかな。
前に就労移行支援で人間の知覚の仕方には『視覚優位』『聴覚優位』などの種類があると知ったんだけど、元々の私は『視覚優位』だった。でも今は(恐らく嗅覚を失った頃くらいから)聴覚の方が強くなってる。もしくは嗅覚以外の感覚が研ぎ澄まされたか。不快な音があると基本的に集中できないし、逆にごちゃごちゃの視覚情報は其処まで不快に思わない。特定の音を聴くと直ぐに耳を塞ぎたくなる。急に鳴る大きな音も苦手だし、人混みの中で怒号が聞こえたりすると本当に怖くなる。たまに、特性持ちの人なのか、大きな声で独り言を言いながら地下鉄に乗っている人が居ると怖くてイヤホンが手放せなくなることがある。不審な人物を警戒するのもあるけど、純粋に自分が望んでいない音が耳に入るのが嫌。だからテレビもニュース番組や天気予報以外見られなくなった。好きな俳優の出ているドラマも見るのが辛い時があるから、最近はあまり作品数を見なくなった。

何だろうね、音と言うより『言葉』なのかもしれない。音が続いて言葉として意味を持った時に私のなかに何らかの連想反応が起こって、それが不快だと耳を塞ぎたくなる感じなんだよね。
だから『苦手な言葉が多い』って言うのも付け加えてもいいかもしれない。誰かの話を聞く時は特に不便に感じる事は無いんだけど(だから仕事でお客様と話すのは得意)、テレビからの恣意的に整えられてしまった言葉やストーリー性を持った話が苦手なのかもしれない。私は自己と他者の境界が結構曖昧な方だから、自分の中に侵入されているような気がして、それから過去の嫌だった経験を思い出して嫌な感情をもう一度味わうから避けたくなるんだろう。
これが好きな音楽や言葉だと耳にするたびに良い気持ちになるんだ。もう一度味わいたいと繰り返し聴いてしまう。
人間が嫌な記憶や恥ずかしかった過去を思い出してまた嫌な気持ちになる事を『反芻思考』と呼ぶらしい。私はきっと、この機能が大多数の人より強くて蘇る記憶や感情の再現性が高いんだ。音楽を聴いている時は基本的に空想をして過ごす事が多いから、これを利用して『良い気持ちになれる記憶』を反芻する為に音楽を聴く。

日本語は基本的に表音文字と表意文字を組み合わせて文章を作るから、語彙があればあるほど聴覚優位になったっりもするんだろうか。同音異義語が沢山あるから文脈から意味を推測するスキルも居るんだけどさ。

とは言え仕事の時にはメモを欠かさないで視覚でも指示内容を確認できるようにしてる。
こうやって自分の扱い方が分かってきたのは割りと最近だから、これまでの私は訳も分からないまま不快な気持ちになったり、その対象から距離を取る事も出来ていなかった。
年々悩みは増えるんだけど、生きやすくはなっても居るという矛盾めいた感覚の使い方、もう少しブラッシュアップしたいな。

▼2026/04/18:クロマトグラフィー、虹色を総て混ぜれば真っ黒

職場の人員異動で新しい人がもうすぐ入ってくる。私の障害についてはまだ聞いていないらしい。ただ、別店舗で勤務していた時にも障害雇用枠の人が居たらしいので、全く理解が無い人ではないと思う。
今の職場に来てもう少しで一年。初めはまあまあ張り切り過ぎて空回りしがちだったけど、最近は割と力を抜ける場面も増えてきた。接客は変わらず得意だし好き。市内の幾つかの店舗に障害雇用枠の人が居るけど、皆さん私とは違うタイプの店員らしい。元々今の職場の求人では今私がやっているようながっつり接客やレジ業務があるっていう話ではなかった。本来は品出しや店内整備が主な仕事で、接客については一時対応が出来ればそれで良かったらしい。たまたま接客が大好きな私と仕事の内容がカチッと嵌ったから接客も任せられているという。
販売業って接客ばかりをやっていればいいって言うのでもないけど、得意分野を延ばすという会社の方針的に、私には店内に目を配りつつ接客に力を入れてもらいたいって感じみたいだ。商品の情報を覚えるのも、売り場を作るのも好きだ。与えられた指示通りにこなしていれば十分合格だし、明確な指示さえあれば動けるタイプなのも幸いして、大きく調子を崩すことなく此処まで来られた。

それでもまあまあ疲れるし、納品日や品出しの多い日は従業員で口を出た瞬間、安堵のため息が出る。遣り甲斐はあるし、楽しいけどこれが人生のすべてではないって言う感覚だ。前の職場は憧ればかりが先行した結果挫折してしまったから、今くらいの働き方が丁度良いんだろうか。
今の人生のリソースの割き方は趣味が5、家事とかの生活に必要な部分が2、仕事は3くらいの割合だと思ってる。仕事は趣味に使う為のお金を稼ぐ手段だと割り切っている。お金が無いと何もできないって言うほどではないけど、それなりの量なら有って困るものでは決してない。
実は今日4連勤の最終日で、明日は一日予定のある休みだ。予定とは言っても小説を書いて手芸をするって言う、趣味を満喫する日。もし余裕があれば近所の猫カフェに行きたいとも思ってる。最近、猫ちゃん達が寄って来てくれるようになって嬉しいし。

そう言えば話は変わるんだけど、最近物騒な事件の所為もあってか『シングルマザーの再婚』の話題を色々なところで見かける。主にSNSだけど、うちも再婚で新しい父親がやってきたタイプの家族なんだよね。皆が皆ステップファミリーを批判しているわけじゃないし、まともなステップファミリーもあればその逆もある。うちはたまたま、結構奇跡的な確率で巧く行っただけなのかな、と前からよく考えている。
このサイトを立ち上げる前の『斜陽』の頃にはもう今の義父と同居していたんだけど、この同居って私から言いだしたんだよね。初めはお金の為だった。お母さんは離婚した当初『しばらくは男友達を何人か作って遊ぶ事にするわ!』と宣言してたんだけど、男友達じゃなくて彼氏が出来てたと知ったのは割とすぐだった。
会ってみて貰えないかと打診されて『良いよ』と返して、顔を合わせたら割りと良い人っぽかったし経済的にも良さそうだったから、両親の離婚で進路を悩んでいた私から「一緒に暮らして良いよ」と言う事にしてみた。そうしたらとんとん拍子に同居できる物件も見つかって、高校一年生の夏に引っ越した。今考えると私もお母さんも少しぶっ飛び気味の親子だったと思う。多分お母さんも義父と私の関係を心配してただろうし、母方のおばあちゃんからすれば青天の霹靂どころじゃなかったと思う。
今でも同居にゴーサインを出した理由が『経済面で楽になれそうだから』って言う利己主義の極みみたいだったなんて言えてないけど、何となく気取られては居そうな気がする。
引っ越しを終えて私の家に遊びに来た同じくシングルマザー家庭の友達には『嫌じゃないの?気持ち悪くないの?』って訊かれたのを覚えてる。彼女は自分の母親が父親じゃない男の人とお付き合い自体が嫌だったらしい。私はたまたま割り切った関係だから気にしてなかったんだけど、何でだろうね。生理的に受け付けないとかも無かったし。一応思春期真っただ中だったんだけどな。
うちの場合、実父の方がよっぽど私の人生に毒だったのもあるけど。あまり大きな声では言えないタイプの人だったし、もし私が結婚して子供を産むなんてことがあったら、その子供の職業選択の幅が狭まるタイプの人だったから。多分、結婚だけでも反対してくる人は出てきそう。今のところ予定は無いけど、経歴を辿られたら言い訳が出来ない。
そう言うのもあって『あの男よりずっとマシ!』と言い切れる義父と家族になったわけだけど、畢竟これはケースバイケースであって、どの家族にも当て嵌まる正しい答えって無いんじゃないかな。
京都のあの事件の加害者はどんな人だったのか、亡くなった男の子がどういう扱いだったのかは分からない。母親含む他の家族の立ち位置とか込み入った事情とかを知る術はないから、あまりこの話題には近づかないようにしてる。ただ、殺すくらいなら手放せばよかったのにな、とは思う。私みたいになんでもはっきり言えるタイプの人ばかりじゃない。子供のサインを態と見ないフリしていたのかもしれない。でもこれら全部が憶測だ。
偶然うまくいくパターンと、そうでないパターンがあるって思うしかないんだろうね。巻き込まれる方は堪ったもんじゃないんだけどさ。
学生の頃、再婚した母親と苗字が違った時期がある。理由を説明すると皆『聞いちゃいけない事を聞いてしまった』みたいな顔をしてたけど、私にとっては当然の選択だったし、結局社会人になって苗字は揃えた。今は一見すると『普通の家族』なんだと思う。けど結局『普通』ってそう感じるその人自身の中にしかないから、本当にケースバイケースだ。
憶測だけで語る事はしたくない。でも、亡くなったあの子が報われるくらいの何かがあってほしいな、と思った。

▼2026/04/17:彼岸のパレードが咲く、香りも無いのに心には刺さった。

自分にしか分からないと思って綴った文字列の意味が、稀にきっちり通じてしまう人に出逢う事がある。人間の考えている事は本人以外に全容が知られる事は無い筈なのに、うっかり一言二言通じてしまったから総てを解かって貰えると思い込む。
恋は美しい誤解から始まるらしい。と或る人の一面だけを見て『なんて素敵な人だ!』などと想いが芽生えるから早めに摘み取らないといけない。双葉だけならば千切れるけれど、さらに伸びてしまったら最早、刈り取る刃も持てない。

なんて書き出しの小説を考えている。少し前に此処に書いた短歌からイメージを膨らませた小説ね。今のジャンルに来てから新たな取り組みを繰り返してきたけど、苦手だと思っていた短歌を詠む事も出来るようになるとは思わなかったよ。
主要な登場人物全員分の短歌は考えてあるし、次の休みには手をつけよう。三万文字超えは厳しそうだけど、少し長めに書いてみたい。最近は一万五千文字前後の短めの話が多いから、ここらで思い切り情景描写にも力を入れた長編を書いておきたい。
タイトル候補は幾つかある。実ははじめ短歌の文字数を数え間違えてそれに由来するタイトルを仮題にしちゃってた。でもそれもネタにしてみようかと思ってる。やっぱりさ、転んだらタダでは起き上がりたくないじゃない。
こういうのも言葉遊びに入るんだろうか、日本語は面白いね。ダブルミーニングとか寓話とか暗喩とか、知ってる人にしかピンとこない笑いのポイントがあったりしてさ。これも教養かな。

そもそも教養って何なのかな、と最近たまに考える。教養の無い人と話すのはつまらない、と見掛けたのがきっかけなんだけど、そもそも教養には何通りも種類があるというか、ベクトルが違う気がする。本を読まない人や演劇に興味の無い人が決まって教養がないかと訊かれるとそうは限らないじゃない。
前に『フィクションやエンターテインメントの物語が苦手だけど、歴史書や実用書は大好きだしドキュメンタリーじも興味がある』って人と接する機会があったけど、あの人は私とは別のベクトルで教養ある人と感じた。教養って一言で言ってもどの分野なのかは人それぞれだよね。
スポーツとかアイドルとかお笑いにも教養があるとより楽しめる一面があるし、教養が無いと評される人も楽しめる物にして置けばファンの間口は広くなる。楽しむ事自体には教養のあるなしは関係ないと見える物の奥が思いの外深いと、こっちも面白くなってくるしさ。
何でも楽しんだもの勝ちなのかもしれないね。とっつきにくい物とか、たまたまその時肌に合わなかったものが時間の経過とともにフッと馴染む事もある。私にとってはそれが短歌だったわけだけど。
中学くらいから物語を書き始めて、それまで親しんでいた読書のお陰で教養の素が育っていたおかげで今はいろんな話を書き散らしている。ただ、文章を書く事への自信は初めの頃からあったわけじゃない。褒められる事もそんなに無かった。『ただ書きたいから』書き続けていたらいつの間にか評価されるようになってたってだけ。教養もそんな感じじゃないかな。教養の為に情報や知識を身に着けても良いんだろうけど、楽しんでいた方が『馴染み』は良くなると思う。

最近思い出した事があって、高校生の頃に或る古文の先生が苦手だったんだけど、彼女の教え方が今になって理解しやすい物だったと気付いた。何で古文の授業で英語を使うんだろうと不思議だった。でも別の言語(でも意味は理解している言葉)で解説されるとするっと頭に入って来ていた事に気付いたんだよね。
語学の勉強をする時に複数の言語を使って記された本(対訳本だったかな)を使うと勉強が捗る事があるらしいとは知ってたんだけど、彼女がやっていたのは『異国語にも似た嘗ての日本の言葉』と英語を対訳させることに似ていたような気がする。気付くのが大分遅いね。先生、お元気だと良いな。
病気になる前から物を覚える事は得意だったと思うけど、一回脳の情報を記憶する回路が組み替えられたような気がしていて、昔と同じ覚え方は出来なくなったと感じてる。きっと、思い出せないように処理された記憶が多いからだ。
昔からサブカルチャーに近い場所に居る感じは強いんだけど、敢えて流行から逸れた道へ行こうとしていた昔と違って、意識しなくても一般とは味付けの違う物を作る傾向が強くなっちゃった気もする。流行の物も一旦味わってみて自分風に味変しちゃうというべきか。わりと『普通である事』に重きを置きがちな生き方をしてるのにね。
とことん尖って生きようと思っていた学生が、角は取れたけど甘くて柔らかい中に針や釘や毒を仕込んだ物言いをする大人になっちゃったよ。言葉の攻撃力が上がり過ぎそうな時はなるべく柔らかくしようとしてるんだけど、それでも時々急性毒性を持った爆弾を放ってる時がある。せめて火消は自分でやらないとなぁ。
誰にでも使えて幾らでも研ぎ澄ませることができる武器を結構巧く使えちゃうことが怖くもあり、楽しくもあり。どうして目には見えないものの方が大切で強いんだろうね。不思議。

こうやって形を持たせることができるのが『言葉』の面白い所かな。蝶のように舞って、蜂のように刺す。多分、私はスズメバチ程強い毒は持てないけど。

▼2026/04/16:憂鬱を刻んで炒めてみよう、案外塩気が足りないなぁ。

風邪をひいてしまったようだ。結構最近にも罹患した記憶があるけど、あの時と同じ対処をしたら幾らか楽になっている。仕事以外で運動が出来ていないのは仕方ないと思いつつ、筋トレをやらないと身体が疼く気がする。そわそわして落ち着かないから後でストレッチとスクワットだけでもしておこう。

友人が、ブログの記事内で私の事を褒めてくれていた。嬉しい。『努力の人』とは嬉しい称号の一つだ。努力するのは好きだ。自分に価値があるように思えるしね。元々無価値観はあまりないんだけど。
この前職場の面談でも言われたんだけど、私は私のことをよく理解できているらしい。何故今私はこう思ったのか、感じたのか、理由を深堀する癖があるからだと思う。ブログを書くのもノートに記入するのもそれをしたいがためだ。全部を理解するのは難し過ぎる世界の中で、せめて理解しやすい自分だけでもクリアにしておきたい。自分自身を俯瞰視する癖は此処から来ているかもしれない。

努力と言えば、今日もデュオリンゴのデイリーノルマはクリアした。最近だと英語の歌を聴くと脳内で英語のまま理解できるようにもなった。前にも書いたね。勉強した表現が出てくると嬉しくて口遊みそうになる。とは言えスピーキングとライティングはまあまあボロボロなんだけど。でもこの前外国のファンの人からのメッセージを理解して英語で返信できたんだから、それなりに出来る方だと思いたい。
次のボーナスが出たら電子辞書を購入したい。多分7月かな。安いのでいいから英和と和英があればそれで。英検の準備も進めたいし。大人になってから自分の意思で取り組む勉強は楽しい。英語って出来たら格好いい事の一つだしさ。
通っているネイルサロンのネイリストさんが英会話が得意なんだけど、彼女は最近、飛び込みで来店したオーストラリアの女性のネイルを整えて彩りながら英語で会話して接客したらしい。純粋に尊敬。札幌のおすすめ観光スポットやレストランも紹介したらとても喜ばれて『もしオーストラリアに来ることがあったら教えて! うちに泊めてあげるから!』と言われたそうだ。
私が普段英語を使う場面は基本的に地下鉄駅での乗り換えやデパートで出逢った人を道案内する時と、ロリータを着ている時に『写真を撮りたい!』といわれる事が大半を占めている。でもその何倍も日本の方に道を訊かれるんだけどね。見た目はあまり親しみやすくなさそうだと思うのに、何でか知らない人から道を訊かれたり服装を褒められる(基本ロリータの時)。

話は変わるけど、今現在職場が大分大変な事になっている。人員が本当に足りない。何でこんなに忙しいんだと思うくらい毎日忙しい。暇よりはいいんだろうけど。売り上げも予算はクリアしてるからまあまあ良いんだろうけど、小売業っていつでも人が足りない気がする。人の生き方や暮らし方、働き方は現在進行形で多様になって来てるんだろうね。でも長時間働けない人(私含め)が多いから、遅くまで働ける人が割を食らってるのはどうなんだろうか。
実は明日職場の新しい上長と面談が組まれてるんだけど、さっき私の症状やこれまでにしてきてもらった合理的配慮何かをまとめた資料を印刷してきた。前の上長の時も同じようにしたらよかったのかもしれない。私の病気って十人いたら十通りの症状があるから調べるのも大変なのに。

理解してほしいなら、理解しやすい形で伝えるのが大切なんだよな。自分の事以外でもさ。きちんと伝えないと分かるものも分からなくなるんだから。
でもこの前下の記事で書いた事が当たっていた場合、病名や薬に変化はあるんだろうか。抑うつ症状が改善されてしまったら、今の薬の抗うつ剤は強すぎたりするのかもしれない。勿論当たらない可能性もあるけど。
個人的に、薬は必要であればきっちり用法容量を守って服用したいタイプだ。不要なのであればなるべく飲みたくない。半端に医薬品の知識があると勘繰る癖があっていけないね。登録販売者の試験、もう内容忘れたし知識も大分錆び付いてるのにさ。未だに医薬品を見ると成分に目が行くよ。ちなみに今回の風邪にも銀翹散を購入して服用中。ただこの前と違って鼻水が出るから、改善しなかったらググるかチャッピーに聞いて一緒に考えてもらおうと思う。
持病の薬を服用してるから下手に市販薬に頼れないと思うのは自然な事なんだろうか。
未だに薬局時代の癖と言うか、お客様から一緒に暮らしている動物さんの情報を引き出す時が問診っぽくなってしまう。うっかり『既往症はありますか』と訊きそうになってしまう。多分通じない。

今日もお客様が動物用の下痢止め(市販薬)を購入したそうだったからヒアリングしたら『これは市販薬に頼るのはあかんやつ』と思って『なるべく早く、動物さんを病院さんへ連れて行ってあげてください』と何度も言ってしまった。下痢ってさ、理由や原因によっては致死的な病気のこともあるし、シニアの子だったから余計に心配でね。
あ、動物さんには動物さん専用のお薬を使用してあげてください。自分(人間用)の薬を使うと洒落にならない事態に陥る事が多々あります。風邪薬とか頭痛薬とか、致死性がある成分が入ってる事が結構ありますのでご注意ください。
人間用の薬でも用法容量を守らなかったらあかん事になるのは何となくわかるかと思うんだけど、成人用のお薬を半分にして小児に与えるのも絶対にやめてください。と言うか処方薬を処方された人以外に投与したらマジであかん事になる恐れがあります。例えば、湿布薬の所為で日光に当たれなくなったりもする。剝がした後でもその部位を日光に当てると火傷みたいになる成分が入ってたりするんですよ。
後は訴求性分じゃなく添加剤にアレルギー反応起こしてアナフィラキシーとかもあり得る。案外何でもない成分でもなる時はなるので、お薬は慎重に的確に使いましょう。

薬害の歴史とか、調べているとエグイ記事もあるけど面白いからつい見てしまうのはなんでなんだろうね。薬害だけでなく医学の記事はついつい読み込んでしまう。高校の授業だと化学と生物が大好きだったのも多分影響してる。人体の構造とか勉強目的で色んな本を読んだし、母が医療系に興味の強い人だったのが遺伝したのかもしれない。それなら血液検査への強さも同じくらい遺伝して欲しかったなぁ。毎回「ラテックス、アルコールにアレルギーありません。注射だけ駄目なので横向いて目をつぶってます。右腕の内側が取りやすいと思います」とこの世の終わりみたいな気分で腕を差し出してるから。
よくよく考えなくても、下の記事の病気の疑いがあるなら確実に採血が待ってるんだけどね。本当に嫌なんだけどしかたないね。今年は乳がん検診も受けないとだから相変わらず病院に行きまくるね。そろそろ歯医者も行かなきゃだし。
でも頭痛の頻度や痛みの具合は大分改善されてきたな。一時は本当に酷かったけど、筋トレに力を入れるようになったくらいからかなり改善された。背中や首を鍛えたら肩凝りも減ったし。ストレッチを毎日すると本当に体が柔らかくなって、前屈で指の第二関節まで地面に着くようになった。
長年悩んでた便秘も解消されて久しい。毎日もち麦とイージーファイバーを摂ってたら寧ろ快便になった。多分、私は自分を健康にすることが好きなんだな。身体に良さそうなものがあるとつい手に取ったり調べたくなる。それが『努力』と呼ばれるなら、いい事尽くめかもしれない。


▼2026/04/11:遠浅の海に沈んでいく、浮上するより揺蕩う方がいい。

少し前に指摘された事がある。
精神科で急遽血液検査を受ける事になって、注射が大の苦手だから本当に嫌だったけど健康管理の為にと腕を差し出した。結果はまあまあ良好だった。中性脂肪がやや高くてクレアチンキナーゼも一般より少し高いくらいで、その他は甲状腺ホルモンが基準値より若干低い。この値が高すぎると所謂バセドウ病を疑う余地があって、逆に低すぎると橋本病の疑いがかかる。詳しい症状は気になった人がググってくれればいいけど、鬱病や適応障害に近い症状も出るらしい。そして、私の場合悪玉も善玉もコレステロール値が高いんだけど(総コレステロール値も高かった)、ついさっき視聴した動画で『適応障害が疑われた人が血液検査をしたら、実は甲状腺機能に問題があったケース』を知った。この動画では患者さんのコレステロール値が高く、念の為血液検査をしたら甲状腺ホルモンが低すぎると結果が出たらしい。

少しドキッとした。私も甲状腺ホルモンが少し低くて、元々コレステロール値が高くなりやすい。未成年の頃からだ。全ての橋本病患者さんに甲状腺機能低下症が出るわけではない。でも具体的に橋本病の症状を調べると、若い頃の私にかなり当て嵌まる。体重が増加してしまうのも低体温だったのもそう。月経不順や月経過多、貧血気味でもあった。
甲状腺機能について指摘されたのは今回が初めてだ。これまでの主治医は皆腎機能や肝機能の方を気にしていたし、今の主治医になって初めて指摘された事はこのほかにも幾つかある。善玉コレステロール値が非常に高いのは以前の病院では問題視されなかったし、クレアチンキナーゼについても同じ。今の病院に来てからも今の主治医になる前は私の趣味が筋トレな事もあり、割とスルーされていた。
でも今の主治医は細かい所まできちんと診てくれていたらしい。感情的な態度はとらない人だけど、患者の為を思って色々なアドバイスをくれて、悩みがあったり不自然な様子があればなるべく時間を取って問診してくれる。
で、私が常にうすぼんやりとした希死念慮を持っていて、普段は軽い躁状態でも割とすぐに落ちたりあがったりすることに鑑みると、もしかして橋本病の症状が出ているのでは、なんて気がしてきたのだ。

何でもかんでも疑ってかかるのは良くない。でもこの奇妙な死にたさは本当に精神からくるものだけなのか、疑念が生じてしまった。
私の希死念慮の始まりは、以前書いたと思うが幼稚園の頃だ。いじめっ子に毎日虐められて、幼稚園に行くのが嫌で仕方なくて、自家中毒を起こすくらいだった。初めてはっきりとそれについて考えたきっかけはあまりよく覚えていないけれど、『自分を傷つけてくる存在から逃げきるには、この世から消えないといけない』と思ったのははっきりと覚えている。具体的な方法は勿論わからない。でも、はっきりと自分を終わらせるべきだという使命感めいたものを、あの頃からずっと抱えたままで居る。
成長していくにつれて理由は変容したけれど、常に隣にうすぼんやりとした希死念慮が居る(在るというより『居る』と言う表現の方が近い)。自分を甘やかせとか、周囲を許せとか、命を大切にしろとか、今ひとつピンとこない。
私のこの死にたがりは、一種のアイデンティティなのかもしれないと最近よく考える。実行には決して移さない、でも選択肢はいつでも直ぐ傍にあって、手を伸ばせば届く距離だ。生きていたいのは事実だし、未来を夢見る気持ちもある。でも何処かで『自分は今行き止まりに居て、嫌な事からは決して逃げられない。そして、私は世界に独りきりだ』みたいな閉塞感めいたものがある。時々呼吸が苦しくて、それを誤魔化すように溜め息を吐く癖がある。うまく息が吸えない時間が長すぎたんだろうか。

このモヤモヤとした疑念を払う為にも、次の診察ではこの話題を出してみようと思う。
繰り返すけれど、私は今死にたいわけじゃない。でも、何かずっと苦しいんだ。連合弛緩もあってか嫌な考えの飛躍が止まらないし、ふとした瞬間に道を踏み外しそうな恐怖感もある。今私が此処で消えれば良いのか、と内心問う事も少なくない。
この世界以外に私が生きられる場所はない。産まれてきた時点で始まってしまった物語は、私の手でピリオドを打つべきじゃないからこうして文字を綴っているのだけれど。
人の心は常に変わりゆくものなのに、この気持ちだけは消えないんだよな、と自分が嫌になる。じゃあ全部終わりにすれば良いのかと言うとそうではないし、何ならもっと幸せになりたいしそれを味わいたい。まだ出会えていないけど、出会いたい存在は数えきれない。

「じゃあ死ななければ良いし、そんな気持ち、消せばいいでしょ」
「私は何が辛いの? こんなに楽しくて幸せなのに」

昔抱える事になった傷は、やっぱり癒えていないんだろうか。傷が大き過ぎたんだろうか。それこそ飲み込まれてしまうくらいに大きいなら、沈む時くらいはせめて浅くあってほしい。
この気持ちが心以外の何かにも由来するなら、薬を飲んで改善するなら、苦しみが少しでも軽くなるなら。
あるかもわからない解決策を望んでしまう。やっぱり私は生きるのが苦手なんだろう。人間として生まれたからこうやって思いを文字に出来るのに、悩んでしまうのも止められない。初めから言葉も理性も持たない生き物だったなら、こんな苦しみは無かったんだろうか。
でもさ、意識とか心って結局脳と言う臓器の働いた結果であって、人間が考える能力を手に入れた要因は生物として生き残ろうとしたからでもあるんだよね。より良い種として生き残って、生き続ける為に様々な知識や知恵を身に着けていった。道具を生み出して、想いを伝える方法として言葉を作って、大きな群れを成してこの惑星に広がっていった。
誰かを好きになる気持ち、美しい物や重要なものを後世に伝える術、他者を助けるべきと言う正義感、その他にも色々な人間らしさがある。でもそれが私を苦しめるなら、いっそ別の何かに責任転嫁したい。

ピリオドを打つのはいつになるかな。なるべくなら冷静な時にしたいよ。

▼2026/04/07:この世はパーソナライズされた地獄、けれども所詮住めば都。

精神科の通院が迫っている。いつもの定期的な奴ね。ここ最近は、ダイエットがうまくいっても職場はまあまあ荒れてるし、電撃的に会社のトップが来店したり、人が足りなさ過ぎて割りと頭を抱える事態になってる。
出来る事が増えると同時にやらなくちゃいけない事が増えて、任される事も増えた。純粋に嬉しいしやる気は湧くんだけど、何処かで息抜きしないと何かが破裂しそうになることもたまにある。元々適切に他人を頼るのが苦手な性質なのもあってか、自分一人で頑張るべき領域と、人に助けを求めるべき領域の区別がつかない事がある。しかもそれって場面場面で変わるし、私の発達特性上複数の事を同時にこなすのが苦手な事も変わりない。そのくせお客様の要望には気が付いてしまうから如何にかやり切らないととも思ってしまう。

必要に応じて先輩にお願いするなり、役割を分担するなりしないと潰れるな、と感じる。

あまり自分をカテゴライズし過ぎるのは良くないんだろうけど、私は恐らく『HSP』で『HSS』と言う『繊細だけど同時に刺激も好む為、一人で新しい物に触れてはその毒に中てられるタイプ』だ。HSPはよく『繊細さん』と呼ばれるけど、私は繊細過ぎるんじゃなくて感受性が鋭すぎるタイプと感じる。何だろう、感性が豊かって言えば聞こえはいいんだけど、色んな情報を五感で受け取り過ぎてキャパシティーオーバーしやすい感じ。
普通に道を歩いていたり買い物したり仕事をしながら、色んな人やモノに目が行く。同時に脳が自動的に思考を始める。色んな刺激の一つ一つを拾ってしまって、脳を含む体は疲弊するし、色んなものを遮断する時間を作らないと何も出来なくなることが以前はよくあった。
いまでこそ自分の特性や考え方の癖みたいなものは掴めてきたけど、普通の人(取り敢えずここでは世間一般のマジョリティの人)はこんなに考えないんだってね。普通だった時期があまり長くないから、考えない人の気持ちはよく分からないし、向こうも私が分からないんだと思う。

この特性を活かしながら働けてる、とは思う。疲れるけど、お客様に声掛けするのは得意だ。寧ろ彼方から声を掛けられるのを待つ方が何を言われるのか分からなくて怖い。自分から行けば少なくとも覚悟はできる。疑問や質問に答えるのも要望を叶えるのも楽しい。それに、困ってる人や疑問を持つ人にきちんと答えればお給料がもらえる。今後昇給の見込みもあるし。

きっと知ってると思うんだけど、私はお金が好きだ。幸せに生きて暮らしていく為に、夢を叶える為にはお金が必要だ。相変わらず一緒に暮らしたいチワワの事を考えない日は無くて、あの子と暮らすためなら多少のことは我慢して頑張れる。もしもあの子と暮らせたら、一緒にいろんな場所へ行きたい。芝生の広がった公園、綺麗なお花が咲いてる場所、涼しい時期の海、雪の積もった原っぱ、お犬と入れるカフェやレストラン、ちょっと気取った通りを抱っこして歩いたり、お犬と一緒に乗れるフェリーで本州の方まで行ってみたり、いろいろ。
もちろん他の夢もある。ハンドメイドが楽しいから、それで副業をして生活の足しにする事。同人誌をもう一度頒布する事、描きたいイラストや試したい技法や画材も沢山ある。これらを楽しむ私はきっと、今よりも健康的な体型になってると思う。

話は戻るけど、ダイエットが良い感じに順調で、大体の人間は『程良く食べて』『程良く動いて』『きちんと眠る』が基本なんだと再認識した。本来の用法じゃない医薬品に頼りたいとは思わない。最近たまに聞く『マンジャロ』とかの痩せる薬とか外科的手術に頼るのは私には合わないと思う。
筋トレはやり過ぎない程度に留めてるけど、多分人間の身体は動いてる方が自然なんじゃないかな。まあ、これ以上臓器を痛めつけたくないのもあるけど。

でも家族から『痩せろ』『不健康だ』って言われ続けてる割りにはメンタルが強いかもしれない。何だかんだ食べちゃうよ。でも極端じゃなくなった。だから数字や見た目に現れてるんだろうし。この前、ダイエットする前は絶対入らなかったズボンがするっと穿けた時、本当に嬉しかったしさ。
家族からチクチク言われるのはもう気にしない事にした。気にするだけ無駄だし。あの人達も完璧じゃないからその言葉がどれだけ私を傷つけ続けてきたかは多分解らないでしょ。伝える気力も湧かないし。

ふとした時思う。私は親の事が好きだし愛されてるんだろうけど、それでもあの人達と全く縁もない、例えばただのクラスメイトなら絶対に友達になってないなって。それくらい生き方やタイプが違うんだよ。
育てて貰った恩は感じてる。でも親になる選択をした以上、ある程度までは育ててもらわないと困るし。私が他の子供より育てるのが大変だったとしても、家族を作ろうと思ったのはあの人達な訳じゃん。
こんな考え方してるから、子供は絶対に作らないと思っちゃうんだろうね。私が受けた苦しみを受け継ぐなんて可哀想すぎるからさ。この病気は多少なりとも遺伝するし。

この世界ってさ、生きている人達それぞれに適した地獄が用意されてるらしいよ。じゃあ、勝手に産み落とされたのは初めての地獄なのかな。

▼2026/04/02:なるべく鋭いと良いよね、短い音節に詰め込む情緒。

これから書こうと思ってる小説についてのお話。

去年頃、SNSで自作の短歌を発表している人を見かける事が多かった。主にXでだったんだけど、pixivでもたまに見かけた。五七五七七、の三十一文字に自分の感情や思いを載せて表現できるのが格好いいなと思って、真似しようと考えても当時はあまりうまい事書けなかったのを覚えている。タイプが少し変わると、小説作品の登場人物に短歌を詠ませてそれを章のタイトルにしたりタイトルへの伏線にしたりして、それも格好いい。

もともと私も古文は得意な方なんだけど、勉強するのとそれを活かした作品にするとでは少し違うらしい。

で、つい一昨日の話なんだけどさ、仕事しながら急に脳内に短いフレーズが過った。『それでも種蒔く冷え切った手』と流れた瞬間はよく分からなかったけど、何となく忘れられなかったので脳内のメモ帳に残しておいた。その日は割りと暇と言うか頭よりも身体を使う仕事が中心だったからか、脳内では別の事を同時に考える余裕もあってさっきのフレーズを脳内で広げてみる事にする。音を数えてみると14音。あれ? と思う。これは五七五七七の後半に当てられるのでは? と考えが至ったら止まらなくなった。
其処からは仕事しながら短歌の前半を考えて、登場人物を何人にするかとかタイトルはどうするとか考えた結果、退勤する頃には小説の概案も完成していた。これから書き始めるから文字にした時どうなるかはまだ分からないけど、結構いい感じの作品になる気がする。

今回登場人物は四人にした。いつも書いてる人たちだけど、着想元や書き始めがいつもとは違う形だから文章の言葉選びとか文体とかもいつもとは少し変えたいと考えてる。旧仮名遣いとか旧字体とか、使いこなせたら格好良さそうだと感じてたものを調べて使ってみたい。
文章の質感は滑らかだけどヒヤッとする感じにしたい。温度感が低めと言うか、暖かくは無くて、触れたら少し冷たい感じ。花冷えの時期は本州じゃあもうとっくに終わったんだろうけど、丁度それくらいの温度感。北海道はまだまだ肌寒いから今の内に書き上げた方が臨場感が出そう。もし文章に感触があるとしたら、理想のそれは百合や桜の花弁に触れた時と似ている。

普段から小説を書く時は、季節感が分かり易い物を書く傾向がある。情景描写を入れないと物語を巧く描けないと言うか、説明不足と感じる事が多い方だから。それに加えて倒置法もかなり使う(この日記もそんな感じだ)。文章を書くのが趣味になったおかげで色んなSNSで発言する時に文章を褒められるから、小説を書く事にした中学生の頃の自分を褒め讃えたい。
実は、海外にも私のファンがいるらしい。今のSNSで書き始めて少し経った頃、丁寧な日本語で感想文をくれた女性が居た。彼女はマレーシアに住んでいて、日本語を聞く事も読む事も出来るけど書く事には自信が無いと言って、翻訳機も使ってその文章を書いて送ってくれた。日本から大分遠い場所の彼女はその後もメッセージを送ってくれて私も日本語で返して、彼女はいつの間にか翻訳機が無くても日本語を書けるようになって、今では遠い場所に住む友人になった。
彼女は宗教の関係上自分の趣味を大っぴらには出来ないらしく、周囲には『日本語の勉強を兼ねて日本人女性の書いた文章を読んでいる』と話しているらしい。今はもう社会人だけど、初めの頃は大学で日本語を勉強していたのもあって家族や友人には『意識が高い』『勤勉な人』という印象を持たれていたらしいと話していた。

『嘘は全くついてないんだけど、その日本人女性が書いてるのはボーイズラブ小説で、それが面白いから読み込んでいたら日本語が出来るようになった、とはあまり言えない。でも面白いし勉強になるのも本当』

楽しそうで、かつネイティブに近い彼女のメッセージに、それはそう。と私は思い交流している。

で、この前も別の外国籍の女性からメッセージを貰った。彼女も翻訳機やAI(先述の彼女の頃にはあまり一般的じゃなかった技術だ)を駆使して作品を楽しみ、感想を送ってくれたらしい。所々に翻訳し切れなかったのであろう単語が混じっていたので調べてみると、恐らく彼女は台湾か中国出身の方ではないかと推測できた。漢字を使用しない文化圏では有り得ない単語だったのと、英語は流暢に使える辺りからの推測だ。私が返信する際『自分も外国語圏の作品を読みたいから外国語を勉強している』と書いたからなのか、彼女はその後日本語と英語両方の文章でメッセージを送って来た。先に自分の得意な英語で文章を考え、日本語に訳すという感じだと思う。

彼女は『自分の思いを正確に(少なくとも日本語よりは正確に)伝えられると考えたから、英語でメッセージを送っています』と書いていた。それを読んで理解した時、毎日デュオリンゴで英語を勉強している私のなかに火が付いたと言うか、この熱意に応えたくなってじゃあ私も英語で書いてみるかと発起しスマートフォンとパソコンを往ったり来たりしながら英作文をした。
割りと長い戦いになったけれど、良い感じの文章を自力で書けたのでchatGPTに添削して貰い、体裁を整えて送信している。返信はまだ無いけど、思いが伝わっていればそれでいい。

やっぱりさ、自分が時間をかけて頑張って書いた文章を褒めてもらえたらそれだけで嬉しいし、読みたいから頑張って外国語を勉強している人は素直に応援できるじゃない。私も英語圏の作品を読みたいが故に英語を勉強し始めたのが素地にあったから彼女たちと交流できている面もあるし。

学生時代の私は思っていたより勉強を頑張っていたのかもしれない、と今感じてる。学生だった頃に覚えた知識や触れた書籍の内容がいまの作品作りに活きている。それと同時に、昔の教科書やノートを取っておけばよかったなと少し後悔している。特に高校の頃の教科書とかノートって大分貴重な資料になってたんじゃないかと思うんだよね。記憶だけじゃ不明瞭なら調べればいいんだけど、当時考えてた事と現在の比較から面白いものが書けたかもしれないと思うから。

勉強の大切さを知るのは大人になってからとよく言うけど、何で子供の頃は自覚しにくいんだろう。強制されるのが嫌なんだろうけどさ。『勉強』って言葉自体、勉める事を強いているわけだし。でも本当、人生を楽しみたいなら勉強は大切。『人生』は主語が大きいか。

ただ、今回みたいに外国語圏のファンが出来たらより深い部分での交流と言うか、思いを分かち合うみたいなのに勉強が役立ったから、やっといて損はないなと感じた。
短歌を元にした小説を書きたい気持ちを強くしてくれた出来事でもあるんだよね。彼女たちがどんな風に受け取ってくれるのか楽しみだから。ネイティブじゃないからこその感想が彼女等の中に生まれる瞬間が訪れるなら、リアルタイムで立ち会えなくてもワクワクするの。

きっと、私は伝えたい事が多い人生を送ってる。それを文章に出来るようになった上に沢山褒められるようになったのが嬉しいからついつい書いちゃうんだろう。『読みたい』と『書きたい』のマッチングアプリみたいな話だ。


▼2026/03/31:広げる両腕、届かないなら延ばせたらいいのに

小説のアイディアが幾つか思い浮かんでいる。

暫くあまり書いていなかったと以前話したけど、あの後やっと一本書き上げられたんだよね。普段とは違う登場人物だったのもあって難しくて、でも納得の仕上がりには持って行けた。評価はあまり奮わなかったけど、書き上げて投稿できただけで十分満足。沢山いい評価をして貰えなくても楽しめるのは結構幸せな事だと思ってる。自分で書いた文章ってさ、何処までも自分の趣味嗜好に合ってるからやっぱり面白いんだよね。勿論評価されれば別のベクトルで面白いし嬉しいんだけど。

今のSNSに来てからの友人にはほとんど毎回感想文を書いてもらえてるから、彼女からの評価だけでも充分なのかもしれないと感じる事がある。でも無くてもやる気が削げるとか落ち込むとかじゃなくて、次に行こうと気持ちを切り替えるようにしている。

と言うか、自然と切り替わる。自分の作品への愛が薄いとかではないと思う。
ただ、書き終わったら次に行かないと思い付いた話を忘れちゃうかもしれないし書きたい衝動もおさまらないから次に行く。結局書きたいから書いてるだけなんだなと思うし、私はアマチュアだからそれで良いと思ってる

良い作品の種を拾うのは、創作をしようと意気込んで考えた時じゃない事が多い。歩いている時のふとした瞬間や見掛けた文字列からの連想、聴いている音楽のフレーズが耳に残ったり、別の作業に没頭している時に一瞬脳内を何かが掠める。言葉として思い浮かぶ時もあれば映像だけの時もあるし、それ等両方だったり、タイトルや印象的な台詞だけだったりもする。

『拾う』と書いたけど、流れてきたのを受け止める時や、降って来たものを抱える事もある。大きさ(情報量)は色々なんだけど、大体が『思い付こうと考えている時』じゃなくて『油断している瞬間』や『ふっと気の抜けた瞬間』がほとんどだ。
創作の何が難しいって、良いものを書こう、思い付こうとしたらあまり思い付けない事の方が多い事だと思う。初めに作品の種みたいなものがあれば別だけど、0から思い付こうとすると難しい。少なくとも私は0から創り出すよりも1を2とか3にする方が向いている。

けど、考えてみたらアイディアがふと湧き出している時点で0じゃないのか。そのアイディアはこれまで私が見て訊いて経験したものから生まれてるんだし、脳内にストックでもあるのかな。アイディアになる前のそれらが一つずつ成熟して、ぽこん、と生まれる。
もし自分の脳内のストックへ自由にアクセス出来たらどうなるのかな。アイディアが生まれる瞬間ってどんなんなんだろ。細胞分裂みたいなのかな。じゃあ幹細胞みたいなアイディアや分化前の小さなものたちが無数に出番を待ってるのかもしれない。
この国の人は平安時代から小さい物は皆可愛いって言ってるし、自分の作品が愛おしいのはそれが理由なんだろうか。愛着とは別でね。

今回の作品は、登場人物の気持ちを短歌として詠んで、それをそれぞれの章のタイトルとテーマにしたい。もう短歌は書き上げたから、肉付けをしていく段階。元々文章を短く纏めるのが苦手で難しいと思ってたけど、ワンフレーズ思いついたらどんどん書けた。
これも新しい試みに入るんだろうね。創作って言うのは変化し続けることが大切らしい。じゃあ、切り替えが良過ぎる特性も、思いの外、悪くないね。


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