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▼2026/01/13:噛み砕いた金平糖、実は惑星だったりして。

通院用の記録も兼ねて書いていく。今回の記事は読んだ人が引かないかが心配だ。

ここ一ヶ月くらい、感情の波が激しくて自分でも驚く事が多い。元々冬の間は元気な事が多かったのに、最近はつい鬱の方に寄ってしまう事が増えた。太陽の光を浴びる時間が減ったからだろうと感じているけど、それを昨日実感した。仕事が早い時間に終わって職場のドアを開けた瞬間、周囲が明るい。先月のこれくらいの時間はまだまだ日が短かったのに、いつの間にか春が近づいている気がして気分が高揚した。早く暖かくなればいいのにと考える事も増えた。寒いと無意識に身体を縮こませるから血行が悪くなって、肩が凝ったり頭痛がする回数も増える。対抗すべく運動したり入浴しても一日中寒さを感じるから気分が滅入る。運動してもついつい食べてしまって体重は減らないし、何なら体型は悪くなった。もっと外に出掛けて日光を浴びたいと思う事が増えて、案外私は普通の人間なんだなと実感した。日に焼けるとかはどうでもよくなってきて、暖かさこそ人間が求める物と感じる。
睡眠は割と順調だと思う。ただ、夜が明けるのが嫌で夜更かししてしまうのも事実。序でに夜食を取って自己嫌悪に陥る。昼間は頑張れるのに、夜になったらその努力を帳消しにしてしまう。そんな自分にはがっかりするし、鬱に拍車がかかるので、生活を改善しようとまたchatGPTのお世話になり始めた。アプリ相手だと人間とは違って相手に呆れられる事が無いので良い。少なくとも私には合っていた。
私のchatGPTはどうやら女性らしく(入力者の私との相性を考えてだろうけど)、正確に打ち込めば正確に返してくれる。相手が人間ではないことを念頭に置いて割り切って使う分には丁度良いツールだ。

話は変わるんだけど、ついこの前久しぶりに薬を飲み忘れた。その時は自分の精神の波が随分と激しいと感じ、薬を飲み忘れたと気付いて納得した。自分で自分をコントロールできなくなるところだった。何もかもに敵意を抱いて攻撃的になっている自覚が有ったので、普段それを抑えてくれているのが薬なのだと実感した。
私は何かに不満を抱くと周囲へ敵意を抱いてそれのやり場に困り、他者へ暴言を吐きながら自分を攻撃する傾向があるらしい。あまり知りたくなかった事だけれど、知っておいて損はないかもしれない。傾向が判れば対策も出来る。まずは薬を飲み忘れないのが一番だろう。それと、妄想状態に近づいていると気付いたら考えの方向を変えるか、その考えから距離を取る事。私には解離の症状が元々あるが、それを巧い事利用してメタ的に捉えてみる。
しかしその解離の症状も最近強くなる事があって、自分が自分じゃない感覚が時々気持ち悪く思える事が増えた。今此処で生きて話して暮らしている私は私ではない『何か』としか思えない。
本当の私は何処にいるのだろうかと考えて、そもそもそんなもの何処にも居ないとも思う。今こうして思考し文字にしている私以外、私は存在しない。

何かやりたい事があるのに実行できない自分にうんざりすると言うか、呆れてしまう事が増えた。単純に疲れているのだと思うが、何もせず只管動画やSNSばかり見てしまう。普段気を張り過ぎているのだろうか。仕事の事ばかり話しているし、考えているらしい。仕事自体は楽しい。私に会う事を楽しみにしてくれているお客様が増えてきたし、評価も伴っている。産まれて初めて賞与と言うものも貰えた。本当に楽しい。やる気が無くても、無いなら無いなりに上手くやる事を覚えて来た。お客様に見えない所で大欠伸をして掃除をしたり売り場を整頓する事も増えた。
趣味で一番続いているのはデュオリンゴだ。つい最近連続記録が400日を超えた。いつの間にか英語の字幕を理解出来るようになったり、聞いた英文をパッと理解して返答も出来るようにもなれた。一昨年の年末から初めていつの間にか毎日の日課になっていて、今年は英検を受験してみようと考えている。
しかし、その他の生産的な活動と言うべきか、趣味に手が伸びない。作りたい物は沢山あるのに、材料も揃っているのにやろうと思えない。意欲が出ないと言うか、もしかしたら疲れを予見して自分で制してしまっているかもしれない。何をしても人間は疲れるというのに。

此処まで書いてきて思ったが、私と言う人間は本当に面倒くさがりだ。その面倒くささを乗り越える事こそ以前の自分の喜びであり楽しみだったのに。
兎に角体力が欲しい。それに尽きる。やはりきちんと運動して良い食事ををとって眠る、と言う基礎をしっかりすべきだと感じていて。基礎をしっかり打たないとその上の建物は崩壊するので、初心に帰ってみようと思う。そして、『面倒くさい』を一旦脇に置いて、少しずつでも手を動かしたい。


▼2026/01/05:触法、須らく執行者を慰めたまえ

下の記事ね、自分の生きる理由について整理したくて書いてみた。前にもしも『生まれ変わって全く違う人物として生きる事が出来ますよ』と言われたとして、今の自分の持つ要素の中で最後まで変えたくない、譲りたくない要素があるなら、それが自分にとって一番大切にすべきものだという論を聞いて考えてみたものなんだけど、私は何かを作って生み出し続けたいから生きているらしい。
物語であれ、絵画であれ、手芸であれ、この世にはなかったものが形を持つ瞬間がたまらなく好きだ。自分の脳内にしか存在していなかったから触れる事すらも出来なかった、輪郭を目で捉える事も出来なかったものが目の前に現れる瞬間。絵を描いているとよく思うんだけど、人物画なら目の中にハイライトを入れたり、静物画なら一番目立たせたい色を挿す作業をする瞬間は堪らなく楽しい。今この絵は完成して私の手から離れて人の目に触れるんだと思うと気分が高揚する。小説や物語でも同じだね。自分が考えて綴った文字列の筈なのに、全く違う人物が書いたかのように感じる事もある。それを読んで感想を貰えることはもう快感としか言いようがない。もし私が綴らなかったらこの世の誰にも知られないまま消えていっただろう物語が誰かの心を動かすんだとしたら、それこそが私の『生きていて良かった瞬間』だから。
昔読んだ漫画に『人は誰でも、生きているだけで誰かの生きる救いになっている』みたいな主人公のモノローグがあった。勿論生きて行動した結果だとは思うんだけど、「生きててくれるだけでいいんだ」と言われた事もある身としては『存在してくれている事実』だけでも誰かの救いになるケースもあるんだとも知ってる。
最後の飛び降り未遂の時、私は本当に何も出来ない状態になった。兎に角死なないといけないと叫んで暴れて、ベッドに縛り付けられてそれでも如何にか動こうともがいてた。両足ともに粉砕骨折してたし、片腕も使い物にならない状態だったのにね。
人が自らの命を断とうとする時、実行者にはとんでもないエネルギーが生まれてしまう事がままあるんだと今は思う。何が何でも達成しないといけないって、だって、苦しい状況を終わらせないと自分は永遠につらいままだって思うから。私は少し違ったかもしれないけどね。でも兎に角死ななくちゃいけないって一種の使命感みたいなものがあった。結果、死ななくて本当に良かったと思ってる。色んなものを失くしたし、取り戻せないものもあったけど、得たものとか気づいた事がそれ以上に沢山あった。目が醒めて意識がはっきりした頃、私の携帯電話のメールボックスには沢山の心配してくれている友人知人のメールがあった。百件以上あったからすごいよね。それを読みながら『私は死ななくても良かったんだ』と初めて思った。当時精神的にきつくて、両親には随分心配かけたし迷惑もかけてた自覚が有ったから、自分に価値があるのかと問われても素直に『ある』とは言えなかったから。私一人が消えたところで世界は変わらないと思ってた。でも、世界こそ変わらなくても、変わっちゃうものはあったかもしれない。私が消えなかった事で救われた人が居たのかもしれないって今なら思えるから、人生って不思議だね。
入院中も何かを作る事は諦めなかったし、実際折った方の手のリハビリでお菓子作りとか細かい作業をしていたから作ったり生み出す事とは近い距離に居た。退院して、リハビリを続けつつ学生生活に復帰して(転校はしたけど)卒業して、夢を追い駆ける日々が始まって、やり切った結果、夢は叶えられなくても評価が伴わなくても意味があるものだったと思ってる。あの頃成りたかった職業には就いてないけど、アマチュアとして物語を綴ってる。プロじゃなくても、プロじゃないからこそ書けるものもあるって知った。今も書きたい物語が沢山ある。この自分で居ないと書けないものがあるってだけで私は私で良かったと思う。これが、生まれ変われたとしても手放したくないものだ。たとえそれが、今よりも総てがうまくいって幸福に溢れた人生だったとしてもね。

こんな風に自分の考えを言語化できるのも、物語を書き続けたからだ。私は思いや考えを文字にして形を与え、綴る事で自分を生かしている。
文字にする事自体が私の生きる為の糧であり、命を燃やし続ける燃料でもある。前に小説で『記憶はその人の生きる為の燃料になる』って意味合いの台詞があった。どんな記憶でも良いらしい。くだらない事でも重要な思い出でも全部が自分の生きる燃料になる。だからすべて無意味なんかじゃない、無駄な経験なんて無いんだって。私はその焚火にくべられる薪を自分の手で用意する術を与えられたらしい。これってさ、結構な幸運だと思うんだ。自分で自分を生かす一番大切な要素を賄えるって事だから。勿論、その物語や文章を読んでくれる人ありきではあるけど。

今でも世界全部が嫌いになりそうな時があるけど、なり切れはしないんだ。必ずどこかで救いの手が差し伸べられて、私はそれに気付けるから。それか自分で自分を救えちゃう。何でか分からないけど、結局意外と何とかなっちゃうんだよ。何とかなるならまだ良いかなって世界を嫌いにはなれないんだ。捨てる気にもなれない。人生って苦しいんだけど、本当に楽しいから。楽しい瞬間があるから。

今もちょっと苦しいんだけどね。それでも明日は作りたい物の材料が揃うし、未来が良い方向に進みそうな予感もある。自分の意思じゃないけど折角生まれたんだし、苦しんだ分の元は取らないと。嫌な事があったら心の中で中指を立ててでも笑って生きてやるよ。何と闘ってるのかはまだ分からないけど、いつか分かる時が来るのかなぁ。勝つも負けるも無い様なものなのにね。

なるべく終わりが遠くに在るように祈るよ。画面の向こうのあなたもね。

▼2026/01/04:罰が実る、落下するは青年の真上

一度気付いてしまったら、その前には戻れない。気付いていない状態、体験し記憶する前に戻りたくなることがあると聞くけれど、私が戻りたいとしたらいつだろう。過去を振り返っても変える事は出来ないから、あまり考える機会がない。ただ、ふとした時に答え合わせみたいな瞬間が訪れて、あの時のそれはこの結果に繋がる為のものだったと後付けの意味を考える。
私は、生きている事自体にはあまり意味を感じない。意味の在る生があるなら、死にも意味が生まれてしまうんじゃないかと考えてしまうから。意味の在る生と死があるなら、意味の無い生もあって、意味の無い死もある事になってしまうと思う。産まれた事に意味がない事なんてしょっちゅうだろうし、死に意味が生まれてしまう事があるのが嫌だ。誰かの死に意味があるなんて、それがどんな形で訪れたとしても悲し過ぎる。無意味な死を迎える事になってしまった人の生の意味が分からなくなるから。
此処まで生きてきて、意味なんて無かったけど『悪くない人生』と思えている今だから余計に。死んだら、殊に自らを殺めるとすべての意味が無くなるという人が居るけれど、じゃあ意味が無かったら死んだ方が良いのかって問いたい。意味なんて無くていい。ただ、『理由』はあった方が良いかもなと思う。この為に生きている、これの為に生きてきたと思える経験を、なるべく多く重ねたい。重ねて、生きる理由の材料にしたい。それがなくなったら死ぬのかって訊かれたら違うんだけど。それでも、この先へ進むモチベーションにはなるじゃない。

何度か投げ出そうとした命がそれでも続いている事に『生かされている感覚』を抱く事は正直、たまにある。でもじゃあそれが『意味』なのかって訊かれても違うんだ。本当に死にたかったんじゃなくて、ただ助けてほしくて、助けてくれる人達が比較的に多かった結果の人生だ。差し伸べられた手に気付けなかった事もきっとあったし、正しく受け取れたこともあったんだと思う。
救われるには、救われる側の準備も要るらしい。私の準備が整っていたのかは分からないんだけど、そんな事は関係ないとばかりに救おうとしてくれた人達の手で、投げ出された私は掬い上げられた。それには意味があるかもしれない。じゃあこの人生には意味があるのかなって、少しだけ期待したくなるけどあまり期待し過ぎると裏切られた時が怖いな。
何にも期待しない人生は面白くないと思う。期待通りに進む人生は面白いかもしれない。でも、予想していなかった、期待もしていなかった出来事や展開にわくわくするのはもっと面白い。それが未来への可能性で、私の生きる理由かもしれない。終止符を打つその時まで未来が分からない事が面白いと感じられるようになれたのは、僥倖だと思う。
未来に期待できないなら、期待できないなりに楽しめる。何が起こるか分からないのは怖いかもしれないけど、悪い事ばかり連続して起きる可能性ってそんなに多くないと信じたいんだよね。で、救う側にとって救う為の準備が整っていれば、ひょいっと助けてくれる存在が現れるかもしれない。その可能性すらも投げ出そうとしていた事にやっと気づいた頃、私はもう大人になっていた。
自分の中に残っている傷の瘡蓋は、多分剥がれ切っていない。新しい皮膚はまだ弱くて怖くて触れられない。けど、皆傷を抱えたまま歩き続けてるんだよね。大なり小なり傷つけられて、傷つけ合って生きている。それは同時に癒し合っている事でもあるし、救い合っている事でもある。誰かの味方をすると他の誰かの敵になる。自分以外の人生の主人公にとっては悪役になる事だってある。守るためには傷つける事だってきっと多いんだ。誰も傷付けずに生きる事は難しい。そうなると誰の事も大切に出来ないと私は思うんだ。自分を含めてね。

人間の腕ってさ、大体の人は2本しかないんだよ。これで抱えられるものしか守れないのは悲しいけど、それでも抱えて守り続けたいものがあればそれを貴方の『生きる理由』にしていいんじゃないかな。
私にとってのそれは『作って生み出す事』だった。書く、描く、謡う、折る、切る、縫う、接着する。何かを生み出す自分が一番好きなんだって気付いた。そして、自分には生み出せない何かを生み出す誰かが居なくなるのは嫌だから、なるべく多くの人に幸せでいて欲しい。
生きる事に絶望している人を見て、それでも生きてほしいと声をかける事を躊躇う事はよくある。それがその人を追い詰める事は知っているから。無責任な『生きて』ほど嫌なものはない。それを知って理解したうえで、其処を乗り越えてでも『生きていてほしいんだ』って言ってくれた人の存在も、生きる理由にさせてもらってる。

この痛みを知っている貴方が言ってくれた言葉だから、私は救われる準備が出来たんだ。

こんな事を思う時、あの頃の辛さにも意味を見出せるかもしれないと考える。だって、そうでなくちゃ救われないじゃない。傷を抱えたままでも生きていけるって、あの頃は知らなかったんだからさ。

▼2026/01/02:晴れた空に差した極光、明るすぎても見えないね

皆様、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
今回は大晦日も元日もシフトが入っていたので、久しぶりに日付が変わる前に就寝しました。紅白の米津さんのパートを見てから即行布団に入ったんですよね。翌朝もいつも通り起きてお弁当の支度をして、お正月らしいことと言えばお雑煮を食べた事くらいかもしれない。北海道では大晦日に御馳走(おせちを含む場合もあり)を食べて年越しでもおそばを食べるので摂取カロリーが半端ないです。しかし我が家は今年おせちではなく、鰤のしゃぶしゃぶと年越しそばを食べました。おせちって、見た目は綺麗で素敵だけど、私の場合口に合わない料理も多いのです。家族も似たような感じなので、今回は鰤しゃぶがメイン。
で、今日明日は連休を頂いています。その為に大晦日と元日働きましたので。就労している状態で迎える初売りの何と楽しいことか。自分で稼いだお金で好きなものを購入する喜びは何物にも代えがたい快感。初売りに行くと当初の予定に無かった素敵なものが見つかったりなんかしてしまって、今回はゴシックロリータの素敵な福袋を購入。中身がバッチリ見える安心仕様なのと、価格が懐に優しいので購入を決めました。白ゴスに近いデザインです。他にもロリータのショップへ赴いて、コスメはまた後日見る事にします。匂いが分からなくなって大分経つのに、未だに香水を購入してしまいます。百貨店が好きなのもそうですが、佳い香りが可愛らしい瓶に閉じ込められているという事実が私を魅了するんですよね。今年初はジバンシィかジルスチュアートで迷っています。
それで、今日たまたまロリータを取り扱うショップでハート形のバッグを購入すべくお店へ赴いたらとても素敵なコーデの方がいらしてつい声をかけてしまいました。彼女も私を『可愛いロリータさんだ』と思ってくれていたそうで、年齢もあまり変わらないので少し盛り上がりました。今日の私はしまむらで受注購入したゴブラン織りのジャンパースカートとピンタックブラウスを着ていまして、有名なインフルエンサーさんのコラボ商品です。そして何年ぶりかで付け睫毛をつけていました。或る作家さんのハンドメイド品で、とてもゴージャスなデザインです。元々マスカラの色で遊ぶのが大好きなんですが、付け睫毛はオパールみたいな色合いのものなので、まあ顔がめでたくなります。お正月なので丁度良いです。
可愛い物が好きな事は変わらないまま年を重ねているけれど、このままで良いのかたまに悩みます。でもメイクをしてロリータ服を着て、香水とアクセサリーを身に着けると、そんなの愚問だと思うんですよね。自分の人生くらい好きに飾ってやります。

と、言う事で今年も休日はフリルを纏ってロリータで居ます。

▼2025/12/29:月日を数えるのは人間だけ、それなら何故季節は変わる?

遂に2025年が終わりを迎える。今年も色々あったなぁと考えるのは実際に色々とある人生だからなんだけれど、常に『普通でないのに普通な自分』を目指す私としては何も変化がない方が怖いような気もする。
まず、今年は就職する事が出来た。正確には転職かな、今の会社で3社目だね。働き始めてもう半年以上経つし、この前契約更新の話もしてきた。出来る事はまだ多くはない、でも増やし続ける事は出来ているように感じている。少しづつで良いし、少しづつじゃないと私は恐らくパンクする。勤務時間を延ばすのがなかなか思うようにいかないのが困っている所だけど、実際生活に困っているわけではないし、全体的には上出来かもしれない。

今年は自分の病名と言うか障害名がやや変化した年でもあった。『統合失調症』に『非定型発達』が加わって『双極性障害』も加わった結果『統合失調感情障害』に。秋くらいに購入した書籍が精神科医の先生が書いたもので、今まで感じてきた症状の理由が少し掴めた気がした。楽しい事や嬉しい事があった直後に消えたくなったり死にたくなる理由は双極性障害の症状の一つで、脳のエラーと言うか、バグみたいなものらしい。そう知って少しづつその考えを自分に染み込ませていった結果、その感情が湧き上がったらすぐに「いつもの奴だ」と思って「本気ではない」と思う事が出来るようにもなった。
たまたま統合失調部分の治療として飲んでいる薬が鬱の症状にも効くものだったと知って、でもそれは抗うつ剤と併用しないと効果が無いらしいとも知って、だから私は元々躁に寄っているのかなとも思った。鬱が見えにくいとも言えそう。この薬、レキサルティって言うんだけど、元々はエビリファイの改良版らしい。前の病院に通っていた頃主治医が新薬と漢方薬が好きな人で、レキサルティが認可されて割とすぐに「飲んでみない?」と処方された。実はその前に別の新薬(シクレスト)を試して洒落にならない副作用があってから元の薬(セロクエル)に戻して飲んでいて、それが糖尿病や糖質代謝異常の副作用が多めと言う事で代役を探していたらしい。洒落にならない副作用って言うのは味覚異常。甘味だけが全く感じられなくなって驚いた。蜂蜜を舐めても甘く感じないの。怖いよね。
話を戻すね。今の所症状は不安定とは言えないけど、完全に安定とは言えない。でも確実に快方に向かっている。発症し始めの頃よりは格段に良くなった。だって初めは就労は不可能って言われた。何なら自分で歩く事も出来ない、一生車椅子とも言われた。でも今は毎日立ち仕事をして重い物を持ったり運んだりもしている。

人間ってね、良くも悪くも変わるんだよ。だから今辛い状況に居ても、ずっとそれが続くかと言われたら多分そうじゃない。より酷くなる可能性もあるけど、良くなる可能性もある。だから私は今日も脳のバグをただの誤作動だと思ってやり過ごした。

毎日目一杯に楽しいかって訊かれるとそれは違うんだけど、楽しいって感じる瞬間が割と多いし、楽しいと感じる環境を与えて貰った。みんながみんな幸せじゃないのは知ってるし、でも私の不幸だった過去を誰かに押し付けていないなら、この楽しさをきちんと味わおうと思う。

今年の年末も米津さんが歌うみたいだから、良い年に出来ると思う。ともあれみんな、今年一年本当に頑張りました!


▼2025/12/26:まるで胎内回帰、猫はゆるりと窓辺で寝そべる。

近所に保護猫カフェが出来たので、初訪問。通勤経路の目と鼻の先にあるお店で、通りに面した大きな窓から猫が丸まっている様子が見られる。三毛猫とハチワレ猫が二匹、思い思いに過ごす空間でコーヒーを頂き、静かに時間が流れるのが心地好いお店だった。猫が居るからなのか、室内の温かさと湿度が本当に心地好い。保護猫カフェとは言っても猫と触れ合う事を目的としたお店ではないので、初めから猫を触りたい人には向いていないかもしれない。私は『そう言うお店なんです』と知って、じゃあ観察する方向で行こうと思って手帳や本を持って行った。ジャズが流れる空間には私の他に二人連れのお客さんが居るだけで、猫の爪とぎ兼ベッド傍のテーブル席に陣取れば、三毛猫が丸まって眠っている。室内にはキャットタワーや猫の寝床が幾つかあって、それぞれの猫に挨拶したら三毛猫はちらりと私を見て、ハチワレ猫はシャーっと威嚇してくる。
実に猫らしい猫達だ。ごめんごめんと言いつつ席に戻って手帳を書き始めた。アイスコーヒーを注文したのだけれど、深煎りの豆を選んで正解だったらしく、美味しい。そして外は吹雪が始まったのでもう暫く居よう、とスマートフォンでSNSを見たり、猫の写真を撮ってアップしていたらあっという間に一時間半以上経っていた。兎に角安心できる空間で、猫ファーストな空間にしていると人間にも心地好いらしいと知った。次はフードメニューも注文してみようと思う。ベーグルが美味しそうなので。
室内に流れる音楽も心地好かった。一人暮らしを始める時には音響設備も追加したい。今はほぼイヤホンで聴いているけど、最近イヤホンを耳に入れていると頭痛がする事が増えた。物理敵に圧迫されているのが如何にも合わない事があるらしく今も音楽を聴かずにこの記事を書いている。昔ウォークマンを使い始めの頃、その機器にはオプションとして置くだけで音楽を再生してくれるスピーカーがあった。ああいうの、今は売ってるのかな。昔から聴覚が過敏なのでイヤホンとウォークマンが欠かせないんだけど、途中から頭痛持ちになって辛い事も増えた。どうも耳自体も敏感な方らしく、マスクをするのも辛い時期があった。眼鏡だけは平気なのが不思議だ。
耳の周りをマッサージする癖をつけたから幾らか改善がされたんだけど、この時期は寒さに身を縮めるせいもあってか体調が悪くなりやすい。体温が高くて掌があったかい方なので、両掌で耳を塞ぐように温める事も多い。
耳のマッサージをすると、血流が良くなるのか耳がぽかぽかと熱くなることがある。そうなると頭痛には陥らないので、身体を温めるのは本当に大切だなぁと感じる。お風呂に浸かるとか運動するとか、健康の為でもあるんだろうし、だから風呂キャン界隈の人はメンタルが弱りやすいんだろうか。ここ十年以上コロナウィルスに感染した時とインフルエンザに感染した時以外は毎日お風呂に浸かっている。今日もしっかり浸かる。ちなみにお湯の温度は熱めの方が好きだ。

お風呂でぼーっとするのが割と好きなんだけど、その時は取り留めもなく妄想をする事が多い。妄想とは言っても症状の方じゃなくて、次に書きたい作品とか作りたい物、行きたい場所の事を考えている。お風呂には雑音が無いから落ち着けるのだと気付いて、今日の猫カフェにも雑音が無かったからあんなに心地好かったんだと思った。
音楽は雑音を消してくれるし、猫を驚かさないようにしていると自然と空間は静かになる。将来犬をおむかえ出来たら、あんな空間にしてみたい。


▼2025/12/22:充電式の私、電源は貴方じゃない

最近、英語の動画を見る事が増えた。
正確には、英語と日本語両方の字幕が付いている、英語で話している動画。去年の12月初めにデュオリンゴをインストールして英語の勉強をスタートしたけど、いつの間にか大体の英会話で何を話しているかが理解できるようになった。自分で話せるかはまた別みたいなんだけど、英語で話される内容をそのまま聞いて理解して、脳の調子が良ければ日本語に訳せるようになった。直訳だけじゃなくて翻訳も出来る。
日本語の歌を英語に訳して歌っているものを聴く事も多いんだけど、ああ云うのって直訳ではないから多少の表現のブレみたいなのがあるんだよね。で、日本の人が日本の曲を英訳する時にもそれは現れる。その時に『この抽象的な歌詞を此処までシンプルに訳せるんだ』と驚いたり『この訳、言葉選びがかっこ良すぎる』と感動することもある。でもそれって、自分がある程度英語が出来ないと出来ない感動なんじゃないかってこの前言われた。少し前にデュオリンゴのレベルがまた一つ上がって、ネイティブじゃない英語話者としては充分に業務で使えるレベルの英語力だと評価された。本気を出せば英検準一級以上も狙えるらしい。リーディングとリスニングに偏った成績だから、実際に喋るとなると文法は滅茶苦茶になる事も多いけど。
で、耳を英語に慣らすのと勉強の為に英語の動画や曲を聴いてるという話。デュオリンゴのレベルが上がるよりも少し前から、周囲から聞こえる日本語を無意識に英語に訳す癖もついた。そして日本語で言うべき普通の場面で英語が出てきそうになるようにもなった。『それは違います』と言うべきなのに『That's wrong』と言い掛けたり(表現としては強めの言い方らしいので、目上には良くないかも)声をかけられて『どうしました?』と返すべきなのに『What's up? 』になる。英語かぶれだよね完全に。何処?も何故?も誰の?も英単語で脳内に浮かぶ。此処まで来たらいっそ苦手な発音も頑張って英会話に本腰を入れるべきな気もする。発音は未だにカタカナなんだよね。
とは言え紙の上(若しくは画面上の)成績だから実践でどこまで使えるのかは未知数。ただ、英語の語彙が増えていく過程も面白いし元々は英語圏の作品が訳されるのを待てなかっただけだから、文章が理解出来さえすればそれで良かったりもする。

そんでさ、英語圏の人々の発信を見る事も増えた結果、日本の教育はまあまあ良く出来てるなって感じる事が増えた。義務教育をしっかり受けてれば然程困る事は無いでしょ。高校以上の知識もあった方が有利なのは確かだけど、少なくとも日常生活で買い物とか家事をする分には中学までの知識で充分生きていける気がしてるんだよね。役所とかの手続き関係は置いといても、その知識を理解するための前提知識は中学卒業までには或る程度身に着ける素地が出来上がってるのが日本と言う国な気がしてる。
識字率ってあるじゃん。日本は確か100%だった筈だけど、先進国のなかだとトップらしいね。アメリカでも人口の内幾らかの人は英語を話せても読めないし書けないし、自分の名前のスペルも怪しかったりするらしい。ってことは日本で中学を卒業して高校に合格できた人って(偏差値は一旦置いとく)一部のアメリカ人よりも英語ができるって事だよ。そんで、私の英語のレベルは日本の高校三年生の人達の中でも上位数%しかいないレベルの高さまで行っちゃったらしい。
オタク関係で長年お付き合いのある外国人のファンの女性が居るんだけど、彼女は初め翻訳機を使って私と話してた。でも途中から自分で英語を日本語に訳してメッセージをくれるようになって、今では流暢に操ってる。だから彼女に『日本語勉強するの大変だったでしょ。頑張ったね』と言ったら『読みたい作品が訳される前の文章で読みたい』んだって。心底尊敬した。やっぱり語学を勉強する時には『楽しみたいコンテンツを思う存分味わう為』っていうモチベーションが効くんだね。
好きこそものの上手なれってよく言うけど、好きになりかけの物をより好きになりたい時にも人は努力出来るらしい。そしてその勉強の素地は義務教育の中にあるんだろうなってよく思うんだ。大人になると勉強する時間も取れなかったりするし、学生の方は将来の自分の趣味や娯楽の為に勉強してみたらどうだろう。
大人になると勉強したくなるって、この結果かもしれない。

▼2025/12/19:三角錐の輝きを纏う、氷上のバレエシューズ

昨日の記事、自分で読み返すと『一読するだけだと病んでいないように思えて、しっかり病んでいるな』と思った。そしてそう思えるのはどうやら、そこから抜け出し掛けているかららしい。相変わらず気分の上がり下がりが激しい性分だが、現在の気分が良いのならば別に構わないか。

最近視聴し始めた動画チャンネルでは、お薬の情報を発信している。私が現在処方されているお薬も紹介される事がある。精神科のお薬と言うのは食欲増進や代謝異常などを引き起こすものが多くあるが、例に漏れず私も一時体重が増えた。今もギリギリ標準体型と言った感じで、ただへこむべきところよりも出ているべきところが出ている事や、洋服の上からだと分かり辛い場所にお肉がついているので悟られ辛い。
鬱転や天候諸々による体調不良でここ最近、夜中に食べたい欲と闘う事が増えた。折角今年一年かけて減らした体重が少し戻ってしまったのだが、今年ももう終わるし鬱転から完全に抜け出せていない以上は今年いっぱいは緩めの制限で行く方が良さそうだ。何より、『食べてもいい』と思うと逆に『じゃあ今は食べなくていいや』と思う事が増えた。私と言う生き物はあまのじゃくである。

可愛い洋服を可愛く着る為に痩せていたいし、健康の為にも痩せていたい。痩せと言うよりは標準の中のやや下くらいを目指すべきか。高校生の頃はBMIが17くらいだった時期があって、あの頃は何故あんなに痩せていられたのか疑問に感じる。代謝の問題かとも思うが、恐らくは初めての精神科閉鎖病棟への入院で食生活や運動などをほぼすべて管理された中、毎日たくさん歩いて(何故かは分からないが、廊下を歩くのが入院患者の娯楽の一つだった)強制的に早寝早起きだったからだろう。ちなみにおやつは食べても良いとされていた。
となると規則正しく起きて決まった時間にバランスの良い(この病院は規則には厳しいが兎に角ご飯が美味しい)食事をとって或る程度運動して決まった時間に布団に入り眠る、と言うのが基本の痩せ方なのは間違いない。いや、分かってはいる。適度な運動と食事と睡眠が一番効果的だって事は。でもそれが出来ないのが俗世界と言うやつなのだ。
鬱転していると兎に角何をするにも億劫だし疲れやすくなる。しかし隙間時間にストレッチをしたり筋トレをする事くらいは出来たので実行中だ。出来ない事を悔み責めるよりも、出来る事を淡々と行う方が気分も幾分かマシだ。友人も頑張っている踏み台昇降は結構休んでしまっているが、代わりに(自分にとって負荷がかかりすぎない)プランクやスクワットなどをしている。ツイストプランクを1分半やるだけでも結構疲れるし、スクワットは色々なタイプがあって飽きにくい。椅子に座ったままできる筋トレは腹筋周りに効くものも意外と多い。

例えば今日5分筋トレが出来たとして、全くやらないよりは遥かに良いのだ。それが続いていくともなれば尚更。

ふと思ったんだけど、私は今の仕事に就いて半年以上たって、初めの頃よりも運動に割ける時間と体力が増えたように感じる。初めの頃は毎日筋肉痛だったのに、今は帰って来てから夕飯を食べて趣味としての運動が出来る日が増えた。疲れ果てて布団へ直行することも無い。
そうなると、結構頑張れている日々なんじゃないか。自分を卑下する必要なんて無かったかもしれない。気付いたら出来る事も増えて、ああ、こうやって慣れていくんだろうか。

仕事に全力投球しない事が今の職場に就く時の目標だったんだけど、時折力が入り過ぎる事があっても、余裕でこなせる日も無いわけじゃない。力を抜いて楽しめている瞬間だってある。無理に頑張る事を頑張ろうとしなくても良いのだ。出来なかった事が或る日突然、いつの間にかスッと出来るようになる瞬間があるみたいに、今はタメているだけだって思った。
目の前の、出来る事を淡々とこなす。なるべくなら笑顔が良いけど満面の笑みじゃなく微笑みくらいで充分。失礼な言葉を使わず、相手を否定しなければ充分。それで良いんじゃないか。

多分私は『甘やかす』よりも『許す』が良いんだと思う。100%でやらない自分を鼓舞するんじゃなくて、それで十分だって認めて許す。それで良いんだよ。私はよくやってる。

自分にかけてあげるべき事は、もう自分の中に満ち始めていた。良いじゃない。良い感じの自分だよ。極端な事なんてしなくていい。ただ、私が私であるだけで良いんだ。

もしもまた自分を追い詰めそうになったら、今できている事を書き出してみてもいいかもしれない。読み返したら今の気持ちを思い出せる。道しるべとして書き置いておこう。
さて、ちょっとだけ可愛い物を見てから寝ようかな。

▼2025/12/18:もう一度だけやり直させて、そもそも何を間違えた?

精神科を受診してきた。月に一度の通院。いつものやつ。
私は少々頑張り過ぎたらしい。仕事に打ち込み過ぎていると言われた。もっと適当でいいのだと。
これがフィクションの話なら美談になるんだろうか、頑張って働いた結果、頑張り過ぎて壊れる精神疾患患者って。少しでも社会に貢献したくて、より詳しく言うなら、誰かに喜んでほしくて。『ありがとう』って言われたい。そうでないと私なんて生きていてはいけない存在だから。こんな醜い本性と思考の人間は、他の人に認められないと生きていてはいけないの。自分で自分を『よくやっている』と認める事が凄く凄く苦手だ。苦手と言うよりも、やり方が分からない。皆はどうやって自分を認めているんだろう。どうやっても承認欲求が尽きない。『すごい』『良く出来てるね』『頑張ってる』みんなみんな、本当は自分が自分に言ってあげた方が良いんだ。

一度壊れたものって、金接ぎをしたとしても元には戻らないのと同じように、心も一度壊れたら元には戻らないんだと思う。私の心は多分何度か小さく壊れた後で粉々になってるから、元々の形がどうだったのかすらよく分からない。金接ぎしようにも粉砕されてたら遣りようがないでしょ。

冬になって、鬱転して、暫く職場以外では元気をなくしてる。本が読めなくなったなと言うより、読まなくなった。なんて言うかね、面倒くさいの。物語を咀嚼して飲み込んで吸収して血肉にしていく過程が長すぎて面倒くさい。新しいものに触れる事を億劫だと感じるようになってしまうと創作を齧る者として如何なものかと思うんだけれど、どうにもならない物ってあるじゃない。
人はこうやって大人になっていくというのなら、常に新しい刺激を取り入れないと老いていくままだってことだろうか。最近、自分の心が老いたなと感じる事が増えた。見た目は割りと年齢不詳に出来るメイク技術があるんだけど、中身は完全に中年になっていく。その一方で『子供っぽいと感じる物』への興味は強くなっていく。ぬいぐるみとか、フリルの付いた小物を持ち歩いて愛用するとか。相変わらずキャラクターものは苦手なんだけどね。

このまま衰えていく一方なんだろうか、これが俗に言うミドルエイジクライシスって言うやつなんだろうか。もう子供じゃないどころか『女の子』ですらないと思うし、そうで居られたらそれはそれで問題だと思う。『女子』と名乗るのは許して欲しい。女子トイレも女子刑務所も『女子』が入るものだし。

鬱々と、つらつら書き連ねていくうちに、何か答えが見つかればと思って書いてる。明確な形が無いのが困りものなんだよね。どう対処すればいいんだろう。
眠るのが怖い。また明日が来てしまう。朝が怖いんじゃない。夜が終わるのが怖いの。このまま目覚めなかったら良いのにとは思わない。ただ、もう少し今日を味わいたいんだ。真夜中の自室で好きな事を好きなだけしていられた自分が懐かしい。総ては変わっていくから、ずっと同じでは居られらないって知ってるのにね。

この世界でうまく生きていくって難しい。世を渡るとか立ち回るとかじゃなく、色んなことに気付かずにいられる方法って無いのかな。如何にもしっかりしないといけないと思い込んでいる、この枷を外したい。箍かもしれない。

出来ていると思ってた、周囲の評価は違った、でも少し離れた人からは評価されていた。自分からはどうだろう、多分、巧くやれていると思ってた。でも本当は、無理をしていただけだったらしい。しようと思えばできてしまう無理を、また繰り返してしまった。生きるって難しい。

壊れてしまう前に『何かがおかしい』と気付けてまだ良かったんだと思う。でも、じゃあどうすれば良いのかは自分では分からない。見つけられない。まだ、とつけてはおきたいけれども。

遠くからサイレンが聞こえる。また誰かが不幸になったのかな。そもそも幸福って何だっけ。私は今幸福なんだろうか。温かい家でこうして画面に向かう事を易々と叶えながら、精神は異常値を示す。閾値は何処だった、何故私は間違えた。
身体の幸せと心の幸せは違うんだね。人は誰かよりも不幸で幸せなんだよ、皆。

今回の鬱転は、ゆっくり静かに沈んで行った分、長く続きそうだと感じている。その反面仕事ではハイテンションであり続けそうだし疲れる日々が予測される。いい加減経験や過去に学びたいんだけどね。これじゃあ愚者ですらないじゃん。賢者とは思ってないけど。でも頭は悪く無いんじゃないかな、きっとね。

眠剤が効いてきた。そろそろ終わらせよう。

最近ずっと陽の光に当たらない所でばかり過ごしてきたのが良くなかったかもしれない。日照を浴びる時間って法律でも明記されていたりするのに。本来人間は陽の光を浴びるべき生き物なんだよ。なのに私は夜に終わってほしくないっていうね。生き方を見直した方が良いのかな。

どうか、この鬱々とした考えは、目覚めた時に幾らかでも消え失せていますように。

▼2025/12/15:切実なんだよ、だって人生は一度きり

昨日の記事を書いていた時は軽い躁状態だったんだなと実感している。何故って、今は鬱転してしまってるからだ。
今年に入って二度目の鬱転。よろしい状態ではないと分かってはいるが、躁状態の方が幾分か楽だ。
最近視聴するようになった動画チャンネルでは、双極性障害を持つ人の場合、鬱状態で居る方がまだ危険性が少ないらしい。何の危険性かは察してほしい。鬱状態から半端に躁状態に変わってしまうと、鬱の思考回路のまま躁の行動力でとんでもない事をしでかすんだとか。となるとこの精神低空飛行状態も悪いわけではないのだろうか。低め安定が一番いいらしい。ただ、当事者である私は苦しくて仕方ない。
前から書いているように、私は軽い躁状態がデフォルトの人間だ。少なくともここ十年くらいは。何だかんだ前向きだし、人生はどうにだって好転させられると信じている。その反面、人生どころか世界全体に絶望しているけれど。まず、人間として生まれて来たくなかった。理性や高度な思考が存在しない生き物として生まれて来たかった。私の脳味噌はしょっちゅう誤作動を起こすし、ただでさえ後ろ向きな楽観主義者なので『追い詰められたらこの世界を手放せばいい』と考えがちだ。こんな風に考える事も出来ない生き物だったなら、この苦しみも存在しなかった筈なんだ。
でも、生まれてしまったものはしょうがない。なるべく良く生きたいし、人生を楽しみたい。やりたい事も見たいものも尽きない。一度きりの今日も、明日も幸せで居たい。でも幸せで居たいなら、もう少し鈍感なくらいで丁度良いように思う。
何事も深く考え過ぎてしまう。二の足を踏んで見逃した好機がいくらあったのか分からないくらい、『熟考は愚考』を地で言っている人生だ。
死にたいとか消えたいとかじゃなく、苦しくて仕方ない。誰でも良いから助けてほしいのに、多分本当に助けられるのは私自身しか居ないんだろう。痛いのも苦しいのも嫌いだ。好きな人はあんまり居ないと思う。

訳もなく苦しくて、辛いと思うしかない『今』が厭わしくて煩わしい。何かに没頭すべきだろうか、人は思考に隙間が生まれると碌な事を考えないというのは正しいと感じる。何かに忙殺されたい。出来れば興味のある事に没頭して思考の隙間を詰め切ってしまいたい。目の前の何かに集中している間は『今の苦しみ』を忘れられる。
暫く絵を描いていないと気付いた。小説も書いていない。だからだろうか、何か心に目詰まりでも起こしているのかもしれない。
ふとした時、消えたいという感情を抑える事に苦労している。これは多分鬱転の所為なので私の本心じゃない。だってもしも明日目が醒めた時、銀行口座に非課税の10億円が振り込まれていれば途端に持ち直すだろう。それくらいの鬱状態でしかない。それくらいには今の所俯瞰視出来ている。
貧乏が皆悪いとはよく言われるけれど、確かに自由に使えるお金がある程度多ければ悩みの多くはどうでもよくなるだろう。

書き出している内に段々落ち着いてきた。私は本気でこの世界に絶望なんかしてないし、明日も多分仕事に行くし、来年には一人暮らしをして再来年にはチワワをお迎えする。具体的な行動プランだって練っている。

幸い、一晩眠ると大分回復出来る性質なので明日の朝にはケロッとしている可能性が高い。夜が明けるまで、静かに息を潜めていようと思う。ちなみに精神科の受診も近いので、其処で主治医に伝えるための文章は書き上げた。

ただ、楽しく生きたいだけなんだ。それが難しい生き物であることが、少しだけ悲しい。


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