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『もし来なかったら』

頭の奥で低い声がそう言い放った。
浮かぶシルエットが己の記憶を辿る。

偶然廊下でぶつかっただけの?
たまたま保健室で会っただけの?
理解できないまま立ち竦む桐島に見えない声は愉悦を含み語りかけた。

『桐島先生と抱き合ってたあの既婚者の『先生』との関係、バラしますね』

フルリと小さく身体が震える。

「.....」

『あの体の大きな黒髪の生徒は確かにそう言った? 』

桐島はあの生徒が歩いて行った方向を見つめるだけで動けなかった。

彼の言った言葉の意味がわからなかったのだ。

『あの既婚者の先生』

確かに彼はそう言った。
脳裏に浮かぶのは該当するであろう斎藤だが、何故彼がその事を知っているのか理解できない。
たまたまどこかで見たのか?

取り残された廊下でポツンと一人考えていれば突然予鈴が鳴る音が聞こえた。

彼の言った言葉が気になったものの、授業に遅れることに気づいた桐島はとどまるわけにはいかないと足早に歩きだした。

頭の中を占領する先程の生徒の言葉。
だが、どんなに考え事をしていても足は教室に向かっていくし、体は勝手に教卓に立ち教鞭を執る事をしてくれる。

そんな桐島の心情など生徒達は気づく事は無く授業だけが刻一刻と過ぎていった。

「......はあ」

全てを終えた桐島の口から溢れたのは小さな溜息。

どんなに時間が経ってほしくなくとも、時間は勝手に過ぎ去っていき桐島の元にも放課後という時間帯を連れてくる。

よく使われている第一図書室とは違い、専門書などが多い第二図書室を使う者は少ない。
その為通常のクラスや職員室などとは離れた場所にあるのが特徴だ。

桐島も担当教科を理由によく出入りしていた。

いつもは施錠している其処は鍵が無いと開かないのだが呼ばれた事を思えば多分彼は中にいるのだろう。

「.......」

そして奇しくもこの第二図書室の扉は桐島が大学生の時分に通っていたあの研究室に作りが似ているのだ。
目の前の扉もその研究室の扉の様に少しだけ錆びれた感じがしており古臭さを感じる。

まるでこの扉の向こうに斎藤がいるかの様な錯覚さえ覚えそうになる。

しかしその錯覚を振り払い、扉の前まで来ると、一旦立ち止まって前髪を少しだけ整えた。
更にはずれていない眼鏡をかけ直し大きく静かに深呼吸する。

「っ....」

気づけば斎藤に会える時にしていた動作と重なり嫌になった。

否定するように小さく首を振る。

桐島は気持ちを入れ替え、軽く空気を吸い扉を開けた。

カチャリ

ゆっくりと開いていけば、一番奥の窓の近くで椅子に座り何やら本を読んでいるあの黒髪の生徒がいた。

緊張により桐島の喉がゴクリと鳴る。

「....あぁ、桐島先生。待ってましたよ」

桐島の存在に気づいた彼は本を閉じ此方に視線を向けると言った。

その口元は弧を描いている。

やはり彼はニッコリ笑っていて、何も言われてなければ好感をもてるような風貌なのだ。だが、桐島にはどうしても薄気味悪さが漂い怖く見える。

「....あの...僕に...「桐島先生、大事な話があるので鍵をかけてきてくれませんか」...」

桐島の返事も聞かず言われた内容に桐島は眉間に皺を寄せた。

動こうとしない桐島に、黒髪の生徒はゆっくり立ち上がりこちらに歩き近づく。
目の前まで近づいた彼は姿勢を低くすると唇を桐島の耳元に近づけポツリと呟いた。

「聞かれて困るの先生でしょう? 」

含み笑いをした愉しそうな声である。
動かない桐島を通り過ぎ扉まで行くとガチャリと音が聞こえ鍵を閉めた事がわかった。

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