しかし顔を上げることなく俯いたまま、眼鏡のブリッジの場所を直すように動かしながら注意をする。
元来、人に何かを注意する事などない性格の為桐島はこういったやりとりが苦手でもあった。
しかし教師という職業柄注意するのも大事な教育の一つだと、桐島なりに対応するようにしたのだ。
教師一年目の桐島は生徒たちにとって親しみやすいのだろう「キリちゃん」などと不名誉なあだ名で呼ばれる。
「もー、そんな怒んないでよー。キリちゃん先生はキリちゃん先生って感じなんだもん!」
ふくれっ面を作る伊藤には馬鹿にしている感じはなくそんな姿を見ていると桐島の緊張も解れる。
しかしながら伊藤の返答は全然理由になっていない理由なのだ。確かに嫌悪感はないのだが。教師という名目上注意してみたものの、伊藤たち一年生からみたら桐島のような新米教師は近所のお兄ちゃんのような存在なのかもしれない。
更に言えばこのような距離感ではあるが授業に支障がでるかといわれればそんなわけでもないので桐島の中では良しとした。
そんなやり取りを伊藤としていた桐島はふと大事な朝の挨拶をし忘れている事に気付き、少し前を歩いていた伊藤の肩に手を乗せ振り返る間際に「忘れてたけど……」
「おはよう。」
と桐島は薄っすらとではあるがふわりと花が綻ぶように笑って伊藤の前を去った。
残された伊藤の頬に赤みが差していたことに桐島は気づく事がなかった。
職員室に着いた桐島は自分の机へと向かう。
朝礼までには時間がある事を確認すると授業の準備をゆっくりし始めた。
桐島は教師一年目ということもあり先ずは高校一年生の国語を半分のクラスだけ受け持っている。
同期の中には一年生の副担任を任されているやつなどもいるが桐島には回ってこなかった。
能力的な判断か運的なものなのかはわからなかったが桐島的には安堵だった。
教師一年目でそんな大役は務めたくない。
自分は少しづつレベルアップしていつの日か大役を務めれる教師になっていくつもりなのだ。
志を胸に拳を握りしめ感慨深くなったりする。
内気な桐島がこうも前向きな気持ちになれるのは今日という日が特別な日だからだ。
特別な日。
それは「週に一度の愛しい人との逢瀬の日」である。
授業に必要な物を揃えながら頭に浮かぶのは愛しい人。
白髪混じりの髪は常にオールバックにされており、いつも着ているアイロン済みのカッターシャツは清潔感を与える。いつもはキリリとした印象であるが醸し出す空気は穏やかなもので桐島はその姿を見ると堪らなく愛しくなるのだ。
「斎藤せんせぇ…」
ボソリとつい呟いた音は誰に聞かれるでもなく自分の耳にのみ伝わる。
桐島の愛しい人。
それは桐島が通っていた大学の教授。
父親ほどに年の離れた男であった。
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