妄語

「始めましょうか」

何を、とは聞けなかった。私と有希子が仕事をするのは初めてどころか数回目である可能性が非常に高く、今そんなことを口走れば彼女の不信を買うことは目に見えていたからだ。
それに聞くまでもなく、彼女が今から何をするかは広げたその道具で理解した。何故それをするのかは分からなかったが。

「うん、今回もバッチリね。これで仙道先生のできあがりよ。ただ、今日はもう向こうに戻らないといけないから送っていけなくて、さっき玄関で会った彼に頼んであるから彼に送ってもらって?沖矢さんのことは知ってるでしょ?で、帰りも行くよう頼んであるから、そのままここでメイクを落としていってちょうだいね。ウィッグも洋服もクローゼットに入れてくれればいいわ。誰も開けたりしないから。彼には事情を伝えちゃったけど、大丈夫、絶対に口外しないから」

彼女はメイク道具を片付けながら一息にそう言ったけれど私の脳の処理速度はそれについていくことが精一杯で、「は、はい」と返事をするのがやっとだった。だって今までに生きてきた中でこんなのは初めてだったからだ。特殊メイクと言われるそれで、自分が自分でない誰かの顔になるなんて。

「……大丈夫?なんだか言葉少なね?」
「ひ、久しぶりだったから感動しちゃって」
「衣理ちゃんが仙道先生として人前に出る時はこの顔にしてるわけだから……でもやっぱり最近したのは一年前の受賞式よね?まあ久しぶりと言えば久しぶりかしら?でもこの連載をまとめて本にしたらまた賞を狙えるんじゃないかって優作が言ってたから、もしそうなったらまた今年中に会えそうね」
「そうできるよう、頑張ります」

綺麗な声で柔らかく話す彼女はどうやら時間に追われているらしく粗方片付けると腕時計を見て甲高い悲鳴をあげていた。「それじゃあまたね、あっ、コナン君にはまた連絡するって言っておいて!」文字通りバタバタと出て行った彼女を乗せたタクシーが玄関ホールから見えなくなった時、後ろから声をかけられた。

「それでは行きましょうか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「……」

沖矢さんとやらと目が合う。何か言いたげなその目はどことなくあの安室を思い出させるものだった。「別人だな」沖矢が私の頭からつま先まで視線を走らせた後、何かを小さく呟いた気がしたけれど、あまりにも小さくて何も聞こえやしなかった。

「何故連絡しなかった?」
「え?」

彼の運転する車の助手席に座り、シートベルトを締め、ドレスアップした髪や洋服や靴が汚くならないよう背筋に力を入れていると赤信号に倣ってゆっくりとスピードを落とすその車を操りながら、首に一度手をやった沖矢が私の顔を見ることなく質問を投げかけてきた。

「情報があると言ってきたのはお前だろう」
「情報……いえ、あの、沖矢さん?ですよね?」

私の耳がおかしくなければ沖矢の声が変わっている。まるで別人だ。

「……お前、何のつもりだ?」

沖矢の細い目が少しだけ開かれて私を凝視する。ああ、これは瀧衣理が知り得たことだったのか。またやってしまった。うまくいかないことばかりだ。でも今回はいつもと違うことが多すぎるのだ、いくらなんでも人の声がそうそう変わるなんてこと、ありはしないだろうに。

「何って……ごめんなさい、ちょっと最近、物忘れが激しくて」
「……おい」
「はい」
「ベルモット」
「ベル……なんですか?」
「……」
「私、沖矢さんに連絡するはずだったんですよね?すみません、締め切りに追われてて頭から抜けてて」
「……もういい」

沖矢はそれきり何も言わなかった。
沖矢ときっと何か約束をしていたのだろう。それで、私がそれを知らずに何も連絡しないものだからきっと怒っているというわけか。
ベルモットがなんなのか、声が変わった理由もカラクリもさっぱりだがこの重苦しい雰囲気を打ち破るすべなどなく、ただただはやく会場に着かないかと通り過ぎる風景を見ていた。




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