妄語

「はあ……」

この順で使ってねと用意されていた通りに進むと三十分とかからずに元の顔が現れた。この一ヶ月で健康的な生活を送っているからか、最初よりは顔色も良く、目の下のクマも減っている気がする。
だからこのため息は鏡に映る自分の顔に対してではなく、先ほどの重い空気の中に戻らなくてはいけないという憂鬱からくるものだった。

「すみません」
「?」

ドアの向こうからは軽いノックが三回と沖矢の声がした。洗面所を使いたい用でもあるのだろうか。「どうぞ」とタオルで顔を拭きながら返事をすると数秒と経たずにドアは開き、また閉まった。

「……何か?」
「失礼」
「え?あいたっ」

鏡ごしに感じる視線に首をかしげると肩を掴まれその拍子に沖矢の方へと向かされる。一体何なのだ。そう苦情を言う暇もなく頬が思いっきり引っ張られる。思っていた以上に肌は柔らかかったがそれでも痛いものは痛い。
昼間も疑問に感じたことだが沖矢は瀧衣理のどういう存在だったのか。携帯に番号の登録はしてなかったし、手帳にも沖矢なんて名前はどこにも出てこなかった。関係性がわからない上に怒っている理由がわからなければこちらとしても対処のしようがない。

「ちょっと!」

遠慮や手加減など知らない、いや、怒り故にわざとなのかもしれない沖矢の行動を止めようと片手を上げると、何かに満足したらしい沖矢は私の頬から手を離し、数歩後ろに下がって距離を置いた。

「なんなんですか」
「それはこちらの台詞ですよ。どうやら変装ではないようですが」
「特殊メイクなら今落としましたけど……」
「もう一つしてるのかと思いまして。あなたではない誰かが、変装して成り済ましているのかと」
「……はあ?」

安室に引き続きこの男までも私を疑っている。約束を破ったらしいのは理解しているが、どうしてどいつもこいつも別人の成り済ましという選択肢がすぐ頭に浮かんでくるのか、不思議でならない。普通ならただ単に約束をすっかり忘れていたとか、そういう風に解釈するものではないのか。

「ふむ……」
「あの、沖矢さん?何か約束をしてたんですよね?」
「……ええ、まあ」
「で、私がそれを破ったから怒ってるんですよね?」
「いえ、怒ってはいませんが」
「……」

怒っていないとは何ともまあ下手な嘘をつくものだ。あの重い空気が、暗に私を非難するあの空気が怒りによるものではないとそう言っているのか。どんなに鈍感な人間だってあの刺すような視線を受け続けたら、相手が自分に怒りの感情を持っていることくらいわかるに決まっている。

「あなたの身に何か起きたのかな、とは思いました」
「そ、それは心配し過ぎですよ……ただ申し訳ないんですけど、やっぱり思い出せなくて、どういう約束だったか教えてもらえたらと思ってて」
「……」
「あの……忘れてしまってごめんなさい」
「まあそんな大したことではありませんから。気にしないでください」

それは沖矢の本心なのだろうか。目も口もろくに動かさない彼からは何の感情も、ただの一欠片すらも読み取ることはできない。
安室は本心でないにしても感情を見せてくれるけれど、沖矢は一切を表に出さないポーカーフェイスのそれだ。声音も変わらない。ただ変化があったとすれば、あの送ってくれた時に言っていた単語の時だけ。

「何か関係してるんですか?さっき言ってたベル──痛い!」
「その単語は、口に出さないでいただけますか?」

安室に掴まれたのと同じ方の手首を握られる。ミシリと骨が鳴る音がしたのは気のせいではないはずだ。痛みのせいで顔に、目に、力が入ってあまり見ることはできなかったが沖矢の目が少しだけ開かれた気がした。さっきまではなかった目の下のクマも。

「女性に乱暴を働くのはいただけませんね」

この身体は痛みに耐えられるつくりをしていないらしく、視界が涙でぼやけてきた頃──恐らく沖矢に手首を潰されそうになってから数秒と経ってはいないのだろうが──入り口から安室の声がしたと同時に、手首にかかっていた圧が一気に消え去った。

「乱暴とはまた。彼女が転びそうになっていたところを助けただけですよ。大丈夫ですか?」
「は……はい」
「そうでしたか。それは失礼しました。沖矢さん……でしたよね?あなたのその表情が、尋問でもしているかのようだったので」
「とんでもない」

もういい、何でもいいからこの場から出して欲しい。そう口から文句が出そうになるくらい、沖矢と安室の空気は冷え切っていた。昔からの仲という風には到底見えないくせに、目を合わせるどころか同じ場所に存在するだけで何だかおかしな雰囲気になる。例えるなら、まさに、一触即発というやつか。

「あの、沖矢さん、お邪魔しました。もう遅いので失礼しますね」
「彼に送ってもらうのでしょうが、どうぞお気をつけて」
「ちゃんと送り届けますよ。それでは」




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