妄語

「昨日脱稿日だったんだ……それでか」

歩道でブツブツ呟く私は不審人物なのだろうが道を交う人達は誰一人して私を気にする素振りはない。あまり周辺の人に興味を示さず、最低限の関わりしか持たないような、少し冷たさを感じる世界。
スケジュール帳には何のことかよくわからない記述も見受けられたけれど、大体は出版社との予定が詰め込まれていた。今後の予定としては直近だと来週にある担当との打ち合わせ。変に思われないよう、早めに著作に目を通さなければ。

「お待たせいたしました、戸籍謄本でございます。お確かめください」
「ありがとうございました」

しかしまずは人間関係の把握からだ。
父、母、死去。姉も兄も弟妹もなしと。叔父叔母くらいはいるのだろうか。向こうから会いに来ない限り私から探すつもりもないけれど。
天涯孤独という字面だけ見ると大変寂しいものであるのだろうが、家族がいないというのは私からするとやはり楽なものだ。呼び方もふとした仕草も家族であれば違いに気づかれやすいのだから。

「ふう……」

最低限の情報は得られた。今回は家族も仕事の関係の人達もあまりいないみたいだし、友人関係にさえ気を付けていたら溶け込むことはそう難しくはないだろう。この世界に何年いられるかはわからないけれど、いる間はなるべく波風立てずに過ごしたい。
公園のベンチから立ち上がり、落ちる夕陽を背に缶コーヒーと合わせてくしゃくしゃに丸めた戸籍謄本をゴミ箱に捨てた。

「夜ご飯どうしよっかな……」
「あれ?衣理お姉さん。また会ったね」
「コナン……君?どうしたのこんなところで」
「え、えっと……ぼ、僕お腹空いちゃって!衣理お姉さん夜ご飯にしない?」
「い、いいけど」

ぐいぐいと引っ張るコナンにつんのめりそうになりながらレストランの中へと入る。さっきは子供らしくない一面を見せられたけれど、やはりそこは育ち盛りな子供、食欲には勝てないというわけか。何だか可愛らしいなと緊張がほぐれていく。

「何食べるか決めたの?メニューちゃんと見てなかったでしょ」
「あ、あはは……」

空腹なのかと思ったけれど、コナンはレストランに入ってもメニューを広げただけでそれに隠れながら奥の席をちらちらと伺っていた。まるで隠れんぼでもしているかのように。

「向こうに知り合いでもいた?」
「い、いないよ!僕これがいいな、オムライス!」
「ふうん?」

コナンの視線の先は複数の客がいる。若い男子学生だったり少し歳のいった男性だったり、はたまたキャリアウーマンのような女性だったり。子供は落ち着きがないとよくいうけれど、夜ご飯時の食欲よりも興味が湧くことってなんだろうか。

「コーヒーって言ったらコーヒーよ!すぐ持って来なさいよ!」

注文しようと店員を探した瞬間聞こえたレストランに似つかわしくない怒鳴り声にびくりと肩が動いてしまう。まだこの世界に来てから一日目とはいえ、こんなに大きな声をここで聞くことはそうそうないだろう。

「びっくりしたね。大丈夫?」
「う、うん。あ……」

次々に入店する人を横目で眺めているコナンが興味を示したのは色素の薄い綺麗な女性だった。

「どうしたの?……すごく綺麗な人。コナン君も男の子だもんねえ」
「ち、ちがうよ、あはは」

ソファーの背から身を乗り出すようにして、私達の席の後ろに腰かけた女性をじろじろと見るコナンをやめさせようと口を開いた瞬間、彼はまるで隠れるようにソファーへ座り込んだ。女性を見るとこちらを見ながら微笑んでいる。すみません、の意味を込めて会釈すると小首を傾げて女性はまた笑った。

「人のことジロジロ見たら失礼だよ?」

二回り近く離れていそうなコナンを軽く叱ったはいいものの、お昼に私は安室に対して同じことをしていたわけで。なんとも罰が悪かったがコナンはそのことを忘れているのか特にそれについては触れてこなかった。

「う、うん、すごく綺麗だったから、つい……」

そう頭をかくコナンの横、そして私の横を通り過ぎ女性は歩いていく。コナンの行動を不快に思ったわけではなく、おそらくお手洗いだろう。この道をまっすぐ行ったところがその場所だと表示されていたし。

「お姉ちゃんには黙っててあげるからもうしないこと。いい?」
「え?」
「何?」
「お姉ちゃんって……蘭姉ちゃんのこと?」
「そうだけど?」
「衣理お姉さんって、蘭姉ちゃんのことは蘭ちゃんって呼んでなかった?」

なるほど、私はあの子のことをコナンに対しても蘭ちゃんと呼んでいるわけか。訂正されないから多分コナンにはコナン君でいいのだろう。こんな感じで少しずつ掴んでいかなければ。

「あ、うん。ごめんごめん、小説に蘭ちゃんに似たような子出てきて、抜けてなくて」
「小説書くのって大変なんだね……あっ」
「?」

あと何回こういうやり取りを繰り返せば落ち着いて会話ができるようになるだろうか。あまり社交的でないことを祈るばかりだ。
サービスのお水を一口飲んだところで、今度は私の後ろの席に客が来て、どうやらコナンの興味はそちらに移ったようだった。

「そうそう、この前テレビ局の見学に来てた子。今時珍しいウブな子でさ……ま、女なんてモノにしちまえばこっちのもんよ!」
「……」

声だけ聞くと若い男性のように思える。平和な世界だしこんな呑気な奴がいてもおかしくはない、おかしくはないのだが私ももう長いこと女性をやっているわけで、こういう輩には無性に腹が立つ。女性を食い物にしているような、畜生みたいな奴。

「……衣理お姉さん?」
「……」
「じゃーな。ん?んー……えっと、俺のこと見てる?」
「ええ、まあ」
「こんなところで逆ナンされるのがわかってたら一人で来たんだけどなあ、生憎先約があるんだ。連絡先もらえたらこっちから呼ぶけど?」
「はあ?」
「な、なんだよ……思わせぶりな顔しやがって」

思わせぶりな顔ってなんだよ。思わず眉間にシワがよる私にコナンがまた声をかけて来た。いけない、子供の前だった。しかも今の私は瀧衣理で、どういう性格かも掴みきれていないのに下手な行動を取るわけにはいかない──のはわかっているのだが、腹が立つことに変わりはない。
なお一層目に力を込めると男は慌ててお手洗いの方へと歩き出した。待ち合わせているらしい女の子が来たら、お節介と思われようとどうでもいい、しっかり忠告してあげよう。

「衣理お姉さん、大丈夫?」
「あ、うん。ごめんね、さっきコナン君に注意しておいて私も同じことしちゃった」
「ううん。あの人、すごく失礼だったもんね。僕も──」

コナンが何を言おうとしたのかは結局分からなかった。お手洗いから男の悲鳴が聞こえてきたからだ。恐らく、あの畜生みたいな奴。

「なんだ……っ!」
「え、ちょっと、コナン君!」

徐に駆け出すコナン君を追って席を立ったが、その機敏さには勝てず、コナン君は一番にたどり着き、その次に大柄な男性、そして私が続いた。

「どうしたの!」
「あ、ああ、あああれ」
「血?!」
「コナン君ってば!」

大柄な男性のせいで思うように中は見えないけど、どうやらトイレに血があるんだそうだ。そういえば少し鉄臭い気もする。「すみません、連れの子が中にいて」大柄な男性にそう声をかけると驚いた様子で左手を挙げ、道を譲ってくれた。

「何かドアに詰まってる……よっ!」
「え、ええ?」
「!……衣理お姉さん、救急車と警察を呼んで!早く!」
「う、うん」

床に溜まっている夥しい血液の海よりも、一瞬にして床から天井近くまで飛び上がったコナンの判断と行動に目を丸くしていると、そのまま振り向くこともなく私に指示を出す。口調こそ小学生のそれだが、その指示の速さと正確性はとても年齢には似つかわしくないものだった。
救急車と警察ということは誰かが怪我をしたのだ──いや、警察もということなら、この血の海からして最悪の場合も考えられる。

「もしもし……事件です、はい。トイレで誰か倒れて血が出てて、いえドアが開かないからどんな怪我か分からないんです、救急車を、はい、はいわかりました。すみません、このお店にAEDは?」
「え、AEDですか?」

電話を貸してくれた従業員に除細動器を求めたけど彼は困ったように目を泳がせるばかりで一向に動き出す素振りはなかった。ないなら仕方ない、必要なら心臓マッサージをすればいい。幸い体力のありそうな男性も複数人いるのだから。

「必要ないよ」

コナンがトイレの入り口に立ちながら私に視線を向けた。

「必要ないって」
「あの女の人……死んでる」




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