妄語

「でもどうしたんですか?」
「何がですか?」
「失礼ながら何故今料理をしだしたのかなと。誰かに作るご予定でも?」

週の半分はポアロで食事をしていた彼女が急に自炊をするようになるとは少し意外だった。彼女の人となりを全て理解しているわけではないが、車もないのに一気に買い出しを始めたことや突然の怪我からいってあまり経験はなかったはずだ。

「予定は何もないですよ。ただ、私もやれることを増やそうと思って」
「……?」
「安室さんが京都で言ってたじゃないですか、私ができることをしてくださいって」

少し前に組織が関わっていた爆弾を解体した時、彼女は自分の所属も仕事も知らないとはいえ非常に気に病んでいた。警察でもないただの一般人に爆弾の解体を押し付けたと思っていたに違いない。
流石に彼女の気持ちを軽くするために話せるわけもないので、少しでも気にしないでもらえたらと掛けた言葉がここに繋がるとは。

「あれから私に何ができるかなって考えたんですけどあんまり思いつかなかったから増やしたいなって。それで、まずは料理を」
「なるほど、そういうことでしたか」
「自分の健康管理以外に役立てられるかわからないし、料理以外にもやれないことはたくさんあるんですけど」

そう言って彼女は罰が悪そうに笑った。髪を耳にかけるその手には小さな火傷の跡がある。どんな人生を送ってきたのかはわからない。言い分を信じるならば、今までの彼女がどうだったのかも。
ただ、彼女が話した過去の話がどうであれ、彼女は今、組織と無関係の一般人なのだ。命を脅かされるような危険がこの世界に存在していることは忘れて普通の暮らしを享受してほしい。

「いい歳して安室さんみたいに料理上手な人にこんなこと言うの情けないですね」
「そうですか?できないことに挑戦する姿勢はかっこいいですよ」

前を向くとマンションが見えてきた。以前来た時は彼女のことを疑っていたのが懐かしく思える。あれから見てきた身としては、確たる証拠はないにせよ既に疑いは晴れている。新幹線での事件でも能動的に動かなかったことからして本当に関わりがないのだろう。

「姿勢だけにならないよう頑張ります。今はもう失敗だらけで」
「最初はみんなそんなものですよ」
「そうなのかなあ……」

落ち込む様子から察するに、この数日挑戦してはいるものの上手くいっていないことが窺える。鍵を取り出すために開いたバッグの中から『ゼロから学ぶ料理の基本』という明らかに子供用の表紙が見えて思わず笑ってしまった。

「……見ました?」
「すみません、偶然見えてしまって」
「笑うくらいなら安室さんが料理教えてくださいよ」

別に子供向けの料理本を持っているから笑ったのではなく、そのタイトルが昔の呼び名と一致していたせいなのだが、そんな事を知る由もない彼女は気分を害したようでオートロックの前でこちらを睨んでいた。
今日は本庁に行く用もなく、別件で動いている事件も特になかったはず。オートロックのガラス戸がゆっくりと開いていく。

「いいですよ。笑ってしまったお詫びに」
「え?いいんですか?」
「僕で良ければ。本で学ぶのもいいですが、実際に見ながらやった方がわかりやすいですし」

瀧衣理の瞳がマンションの電球の光を取り込んでキラリと輝いた。相変わらず感情を隠そうとしない子供のような表情。こんな人を組織やFBIの人間かと疑ったことは今思えば浅はかだったのかもしれない。少なくとも自分が属したことのある組織にはいなかったタイプだ。

「洋食が難しいのかなと思って今日は和食をやってみるつもりなんです。昨日作ったハンバーグ、すっごくパサパサだったから」
「原因はいくつか考えられますが、初めての人にありがちなのは焼き過ぎですね」
「焼き過ぎ……」

エレベーターを経て部屋へと辿り着いた。「使ってください」と出されたスリッパを履き、リビングの机に荷物を置こうとしたが机の上には本や原稿用紙が散らばっている。自身の著作だけでなく多種多様なタイプの本。その多くには付箋が複数枚貼られていた。

「あ!ごめんなさい片付けてなくて。荷物ありがとうございました」

着替えていたらしい瀧衣理がパタパタと足音を立てて戻ってくる。本と原稿用紙はあっという間に片付けられたがその中の一冊は料理に関する本であったのが見えてしまった。仕事の合間で自分なりに勉強していたのだろうか。

「今日は何を作る予定なんですか?」
「えっと、鯖の味噌煮です」

最早隠しもせず彼女は『ゼロから学ぶ』本を広げていた。イラストや写真、大きめの文字から構成されたこの本は確かに分かりやすいのだろうが、これを読む層が一人で料理をするとは想定していないはずだ。
ワイシャツをまくり上げて手を洗いながら頭の中で順序を整理する。副菜のことも考えなくてはならないが、慣れていない彼女に料理を身につけてもらうための時間なのだからまずはそちらが最優先事項だ。

「よろしくお願いします」

手洗いを終えるとまるで仕事かのように彼女は顔を引き締めた後、頭を下げた。髪をまとめてメモを片手に真剣な表情でこちらを見る様はエプロンではなくスーツでも着ていたら部下と見間違えてしまうかもしれないほどに。
ただ、これから話すのは捜査の指示ではなく料理の手順だ。久しぶりに訪れた和やかな空気と熱心な彼女との違いに少し口元が緩んでしまう。

「まずは下ごしらえから始めましょうか。魚料理の基本は臭みをとることからです」
「あ、お酒買っておきました……って安室さんに運んでもらいましたけど」
「ああ、最初はお酒じゃなくて霜降りをします」
「霜降り……?すみません、何もわかってなくて」
「これから身につければいいんですよ、誰でも最初はそうです」

思っていた通り彼女に料理の知識はあまりなかったようで手順を説明する度に必死にメモを取っている。組織の人間かもしれないと疑っていた女性にまさか料理を教える日が来ようとは夢にも思わなかった。
自分にできることを一つでも増やそうと努力するこの女性の話が本当ならば、昔組織と関わりがあったことも若くして亡くなったことも事実ならば、今世では目をつけられることなく平穏に生きられるといい。

「やっぱり安室さんも最初は私みたいだったんですか?」
「ええ」
「じゃあ安室さんは頑張ったんですね。すごいです」

新幹線の中でもしたこのやりとり。きっとまたそんなことはないだろうだとか、信じられないだとかそんな言葉を返されると思っていた。そのせいで返す言葉が見当たらず、炊飯器のスイッチを押す彼女の背中を見続けるしかなかった。

「この前はすみません、安室さんなら何でもできるなんて簡単に言って。たくさん努力したから身についたことなのに」
「……いえ」
「せっかく教えてもらったんだから私も頑張りますね。えーっと、ネギ……レシピにネギを切って上に乗せるってあるんですけど、安室さんネギ平気ですか?」
「……」
「苦手でした?」
「え?あ、いや大丈夫です。ありがとうございます」

予想外の返答が来たから何も言えなかっただけで、それ以外の理由はない。慣れない手つきで包丁を動かす彼女を見守りながら自分に言い聞かせた。




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