妄語

『好きな人でもないし、そんな人はそもそもいません』

あの時梓に告げた言葉に嘘はない。
偶々京都に向かう新幹線で安室と会い、あわや命を落とすところだった事件に巻き込んでも私を罵倒するどころか今までと変わらぬ態度を貫いてくれる彼の度量の大きさには、確かに尊敬の念を抱いているけれども。それはあくまで人として尊敬しているというだけだ。そうでなければいけない。
そもそも、私に恋愛などへ使う時間など元々ありはしないのだから。哀やコナンが心置きなく元通りの生活を送れるようになるまで、組織の手がかりを掴むまでは、それを何よりも優先しなくてはいけない。

「衣理さん?焦げてますよ」
「!」

フライパンの持ち手をぎゅっと握りしめていたのに存在を忘れていた。途端に意識がクリアになって目の前に広がる惨事が飛び込んでくる。換気扇をつけていてもわかる、野菜の端々が黒くなりつつあるような、そんな匂いがキッチンに充満した。

「ああ……」
「何か別のことを考えてましたね?」
「……すみません、せっかくまた安室さんが教えてくれてるのに」

もし良ければと安室が声をかけてくれたのだ。仕事が忙しいだろうから気晴らしにと。
あれから数回の復習を経て、前に教えてもらった鯖の味噌煮をそれなりにまともな味で作れるようになった私には渡りに船の申し出だった。
それなのに、とんだ失礼な行為だ。余計なことを考えて無意味な時間にしてしまうとは。食材も無駄にしてしまったことが悔やまれる。

「大丈夫ですよ、食べられないほど焦げたわけではないですから。ただ野菜炒めのままだと焦げてる味が残りますからメニューを変えましょうか」

そう言って安室は考える素振りもなく私に指示を出した。必要な調味料とその分量、最終的なゴールであるメニュー名を告げてそこに至るまでの手順も。一度安室の頭の中を覗いてみたい。きっととめどなく広がる空間の中に膨大な知識が詰まっているに違いない。
しかし私は彼に与えてもらっていてばかりで何も返せていないな。時間をもらい、知識をもらい、彼は他の人が困っていたらその分助けてあげればいいと言うが─もちろんその時はそうするつもりだが─私は彼に何を返せるだろう。

「ではいただきましょうか」
「すごいですね、焦げた野菜炒めがこんな……」
「濃い味付けにしたから香りが隠せるんでしょうね」
「いえいえ、調味料じゃなくて。安室さんがですよ?焦がしておいてなんですけど、リカバリーがすごいなって」

今度は無事に安室の指導のもと、料理が完成した。あの焦げた香りなど一切しない見事な復活劇に思わず小さく拍手すると、野菜炒めを焦がしたのは味付け前だったから再利用は簡単だったのだと、運が良かったのだと安室は笑っている。あくまで謙虚な姿勢を崩さない彼に胸が暖かくなった。
こんな私にすら優しく接してくれる彼は菩薩か何かなのだろうか。皆に分け隔てなく接する菩薩のような何か。ふと梓や蘭達をはじめ、他の人にも同じように接しているのを思い出して、少しだけ胸がしくりと痛んだ。料理に魚の小骨が入っているわけでもないのに。

「失敗を重ねたお陰ですね、きっと」
「勉強になります……おかわり食べますか?足りないですよね」
「すみません、ありがとうございます」

女の一人暮らしだから仕方ないのだが、お茶碗が小さいものしかないために前回も安室の分はおかわりをよそっている。今回もとお茶碗を受け取って立ち上がったものの、足首に違和感を覚えて変な歩き方になってしまった。

「足どうしたんですか?」
「んー、この前階段から落ちた時にまたぶつけちゃったのかもしれないです」
「階段から……落ちた?」
「多分誰かにぶつかったのかな?数段でしたし、受け身も取ったので大丈夫かなと思ってたんですけど。はい、こんな量で足りますか?」
「ええ、ありがとうございます……」

実際、床に手をついた時に少し擦り剥いた程度で特に実害はない。ぶつかった人が謝ってくれることはなかったけれど、転げ落ちたわけでもあるまいし騒ぎ立てることでもないと判断してその場を後にしたのが二日前。捻挫というほど痛くはないから、恐らく床か段差にぶつけてしまったのだろう。

「マンションの階段ですか?」
「?いえ、駅のです」
「……」
「ご飯冷めますよ?」

安室が湯気の立っているお茶碗を受け取ったまま動きを止めている。視線はお茶碗で止まっているし、私に何か言いたいことがあるというよりも考え込んでいるような表情。こんな時にどうしたらいいのかわからなかったからとりあえず食事を続けようと白米と豚肉を口の中へ運んだ。

「ちなみに、また、というのは?前も落ちたんですか?」

時に人を揶揄うような事を言うけれど結局は優しい安室のことだ、心配してくれているのだろう。偶々短期間に同じような怪我をしてしまっただけで、そんな気遣うような表情をさせてしまうようなことは何もないのだが。

「やだな、そんな何回も階段から落ちてるわけじゃないですよ?一週間くらい前かな……横断歩道待ってたら後ろの人がぶつかってきて、原稿とか持ってたから落とさないようにってしたらそのまま倒れ込んじゃって」

反射神経はそう悪い方ではない、と思う。咄嗟のことに急所を守れたりはする。言い訳をするならば、あの日は両手が塞がっていたから道路に転がり出るしかなかったのだ。
幸いなことに道路を走っていた車が早く気づいてくれたお陰で事故にはならなかった。後ろの人も誰かにぶつかってしまったらしく、急なことだったから私をそのまま押す形になったとかで。

「色々書き込んでたから原稿ダメにしないようにしなきゃってことしか考えてなかったんですけど、多分その時にぶつけてたんでしょうね」
「……そうですか。ポアロでもずっと話されてましたもんね。須藤さん、でしたっけ」
「ええ。須藤さんの意見も取り入れながら書いていきたいって伝えたらたくさん言ってくれて、もうすぐ形になりそうなんです」
「さっきはそのことを考えてらしたんですか?」
「え?」
「野菜を焦がしてしまった時──」

あの時梓に言われた言葉が、いや、それだけでなく自分から発した言葉でさえも何故か頭の中に引っかかってうまく自分の中で消化できていなかった。確かに今までもあの時ああすれば良かったと悔やむことはあるけれど、今回のそれは同様のものではない。
何の関係もない料理中にどうして気になったのだろう。

「あ、あはは……すみません、次はもっと集中します」

私にできる事を増やす。少しずつでもいいから身につけていく。それが私の当面の目標なのだから。何がいつ、誰の役に立つかもわからないのだ、余計なことは考えないようにしなくてはいけない。
安室がまっすぐに私を見つめる視線をどうしても見つめ返す事ができなくて、味噌汁を飲みながらお碗で顔を隠した。




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