妄語

友人と呼べるような存在はいなかった。必要だとも思わなかったし、欲しいと願ったこともなかった。両親譲りの知能のおかげで同い年と同等に学ぶどころか、次々に学年を飛び越えていく私にはそんなものむしろいなくて良かったとも思っていたくらいだ。

「一緒にいい?」

それなのに彼女は私の前に現れて、どれだけ冷たくあしらってもいなくなることはなかった。
アメリカは移民や留学生が多いとはいえ日本人は珍しい部類。この学校には私達二人しかいない上に最近転入してきたという彼女は物珍しさもあって様々なグループに声をかけられていたのに、それら全てに属することなく私の近くに居続けた理由は今でもわかっていない。

「ダメと言っても座るんでしょ」
「ありがと志保ちゃん」

私と違い、一日に何回も笑顔になる子だった。楽しい時、悲しい時、怒った時、どんな時でも感情を素直に表現できる子だった。年上だったけれど学年で言えば私が上という、日本人からすれば難しい環境だっただろうに彼女は特に気にしている様子もなくて、対等に接してくれたことがとても嬉しかったのを覚えている。

「それでね、今度ホームパーティーするってなって。よかったら来ない?大人ばっかりでつまらないかもしれないけど……」
「……お誘いは嬉しいけど、その日もう予定があるのよ」
「そっか。残念。志保ちゃんは忙しいもんね」

彼女からの誘いを何度断っただろう。組織の監視付きで他所様のホームパーティーなんて参加できるわけもない。遊園地も、小旅行も、感謝祭も、クリスマスも、カウントダウンも、全て断るしかなかった。学校でのこのひと時だけがアメリカにいた時の幸せな時間。
もちろん、行こうと思えば行けたのだろう。ホームパーティーも、遊園地も、ショッピングモールも。だけどもし彼女が監視に気付いてしまったら不審に思うだろう。それどころか心配させてしまうかもしれない、変に思った彼女が離れていくかもしれない。このひと時を失う勇気が持てなくて、結局彼女の誘いはほとんど首を横に振るばかりだった。

「はあ、もう休み時間終わり?お昼直後の授業なんて取らなきゃよかったなあ」
「何言ってるのよ。好きなんでしょ、細胞生物学」
「好きは好きだけど……あ、教授また志保ちゃんの話してくれるかも」
「また?私の?」
「うん。天才だったって授業の合間にね、昔のこと話してたりするよ」
「迷惑な話ね」
「そう?まあ天才っていうのはおかしいよね、まるで志保ちゃんが何の努力もしてないみたい」

彼女は私を対等に見てくれていた唯一の人だった。組織のように母の面影を私に見たりもしないし、過去から今に至るまでの講師達のようにできて当たり前なんてことは一度だって言いはしなかったし、周りの生徒達のように妬む様な素振りも一切ない。他人と同じ視点を持てる人だった。
どれだけ彼女に心を救われたことか。卒業までの期限付きとはいえ、自由な時間を彼女と過ごせたことがどんなに嬉しかったことか。

「……亡くなった?」
「うん……車が突っ込んできて、私が轢かれそうだったのに……」
「……」
「ごめんね、もうすぐ志保ちゃんの卒業なのにこんな話……」
「何言ってるのよ」

だから彼女を放っておくことなんてできなかった。こんなにも憔悴して、生気を失った彼女を一人異国に置いて私だけ帰国するなんて。
私の卒業はもうすぐそこだったけれど、飛び級制度を使っていないのだから当然彼女は卒業まであと数年残っていた。少なくとも彼女はあと数年この学校に通う必要がある。大学中退という経歴で就職活動がうまくいく可能性が低いのは今も昔も変わらない。
保険がおりるからこのまま学校には通い続けられるのだと彼女は青白い顔で笑顔になり損なった何かを顔に浮かべていて、きっとそれは学校を去る私を安心させるためなのだと理解した瞬間、目の奥が熱を帯びた。

「……私と一緒に日本に戻らない?」

そして私は彼女を組織のダミー会社に就職させた。大学も出ていないのにとあまりいい顔はされなかったけれど、おかげで組織に深く関わるような研究を知ることはなかった。
だから安心していたのだ。日本に戻って、彼女に組織のことを言えない罪悪感こそあれど少しずつ元気を取り戻す彼女を見て、無理を言ってでも行動してよかったのだと。正しい行いだったのだと、数年は信じていられた。

「お前の客人だったそうだな?」
「……え……?」

突然呼び出されたかと思えば非常階段の踊り場には白衣だった布を真っ赤に染めた彼女が──彼女だったモノが、横たわっていた。開けた場所だというのにあの鉄の匂いは今でも思い出せる。

「……なんで」

理解できなかった。確かに彼女と夕食の約束をしていた。組織の監視から逃れることはできなかったから私のいる研究所に彼女を呼びつけて、実験が終わるまで中庭で待っているように伝えたのに、それなのに何故その彼女がこんなところにいるのか。どうして瞳が曇っているのか。腹部から流れ出た、明らかに致死量と思わしき大量の血が階段をつたっている状況を、理解することができなかった。

「……」
「見られたからだ。他に理由はない」

何を見られたかは聞かなかった。聞いたところで教えてもらえはしないし、教えてもらったところで納得できるわけもない。そんな無駄なことに時間を割いても、彼女は戻ってきはしないのだ。

「……ごめんなさい」

謝るしかなかった。あのままアメリカにいさせた方が良かったかもしれない。私が無理に連れてきたからこんなことになってしまった。肉親以外で初めてできた大切な人だったのに。どれだけ悔やんでも、詫びても、彼女が私に笑いかけてくれることはない──はずだった。

「だから最近ね、自炊を始めてみたんだ。まだ全然下手なんだけど……え?何?なんで笑ってるの?」
「別に、気にしないで」
「気にしないでって言われて気にしない人いる?」

外見は彼女とは違う。でも中身は彼女自身なのだ。どういうわけか組織が作っていた薬を摂取したようだけれど、彼女にその記憶もなく、私も彼女が創薬に関わっていたとは到底思えない。背景はわからないけれど薬を摂取し、違う人物の肉体で生きているというわけだ。
瀧衣理という女性と全く交流のなかった私からすれば、形はどうあれ彼女がこうして生きていることに感謝しかない。たとえどれほどの罪悪感と後悔を抱えていても、自分から彼女を拒絶することのできないずるい私は今日もこうして、彼女の訪問を受け入れているのだ。

「!」
「す、すごい音したね……博士?大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃ」という声が咳とともに聞こえてきた。何をしていたかは知らないがキッチンから煙が上がっている。大方新しい発明品を作っていて、それに失敗したのだろう。実験には失敗が付き物とはいえ、今日のはそれなりに規模の大きい失敗だったようだ。

「悪いわね手伝わせちゃって」
「大丈夫。料理はともかく掃除ならできるから」
「さっき笑ったのはそういう意味じゃないわよ?」

嘘ではない。最近あれをしたこれをしたと話してくれる彼女を見ていてまるで昔に戻ったかのようで、つい笑ってしまっただけなのだ。雑巾がけをしながら彼女を見上げると、シンクを拭く手を止めずにじとりと私を見つめている。

「……本当かなあ」
「なら今日、どうせこれじゃ夕食は作れないし衣理の所に食べに行くわ。いい?」
「えっ」
「ダメなの?」
「ダメ……じゃないです。えっと、じゃあ私材料買って作り始めてていい?博士と二人で来てくれる?」
「ええ。博士はダイエット中だから少なめでいいわよ」
「あ、哀君……」
「じゃあまたあとでね、あんまり期待しないでね!」

組織に勘付かれるようなことが少しでもあれば彼女を遠ざけて、彼女自身の安全を確保する覚悟はできている。でもそれまでは、そうなるまではもう少しだけ彼女と一緒にいたい。




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