妄語

「うう、すみません……」

榎本梓が頭を下げている。常連となっているあの女子高生二人が新しい友人を連れてくるからと夕食を予め頼まれていたらしい。ところがいつもの通り二人分だと覚え間違いをしていたために不足分が生じていると。

「いいですよ、自分の買い物のついでですから」
「今度安室さんが当日お休みされる時は変わりますね……」
「はは、それは助かります。何か追加があれば連絡してください」

既に自分のシフトは終わっていて、残りの数時間は彼女が一人で店を回すはずだった。しかし急遽この買い出し業務が発生したため、彼女の代わりに自分がスーパーに出向くことになったのだが。

「安室さん?」
「衣理さん。こんな所でお会いするとは」

灰色の買い物カゴを片手に持った瀧衣理が通路先から話しかけてきた。パスタが置いてある棚には用がないのはわざわざ自分に話しかけるためだけに足を止めたことからも明らかだ。ちらりと買い物カゴを覗くと数種類の野菜と魚のパックが目に入る。一人分にしては少し多い量が。

「安室さん今日はパスタにするんですか?」
「いえ、これはポアロに。僕はこの後別の仕事が入ってるので」
「探偵のですか?安室さんはいつでも忙しそうですね……ちゃんとお休み作ってますか?」
「まあ、そこそこです」

探偵としての仕事ではないのだが、否定したところで本当の事は話せない上にどうやら本人は納得しているようなので曖昧に笑うにとどめた。

「衣理さんは何を作られるんですか?新しいレシピに挑戦でも?」
「あっ、いえ……鯖の味噌煮です。安室さんに教えてもらった」
「前も作ってませんでした?そんなに好きな味だったんですか?」
「急に人を呼ぶことになって自信持って作れるのこれしかないな……って。あ、もちろん味も好きですよ?今週三回目でも余裕です」
「三回……ちょっと栄養が偏りそうですね」

罰が悪そうに笑いながら指折り数える彼女に答えはしたものの、何故だか胸の奥がざわついている。彼女が人を呼んで慣れない手料理を振る舞うなんて、想像もしていなかった。
彼女の交友関係からして親しいと呼べるのはあの女子高生二人と榎本梓くらいだが、その三人は今日の夜をポアロで過ごすのだ、招かれているわけがない。親しくない人物を彼女が家に上げるとも思えない。彼女曰く、瀧衣理でないことは知られたくないからだ。

「わかってるんです……他のも練習してるんですけどうまくいくのが少なくて。でも週に二回はポアロで食べてもいいって決めてるのでそこでバランスとってるつもりです」
「週に二回ですか?来店頻度、もう少し多いように思えましたが」

受け答えをしながらでも、スーパーの通路を歩きながらでも思考を続けられる脳が今は少し恨めしい。何故か彼女が招いてでも手料理を振る舞う相手が気になって仕方ない。わかった所で自分には得も、損も、何もないと言うのに。

「うっ……し、仕事も兼ねてるので……」

しどろもどろになる彼女を見て思わず口元が緩んでしまう。あまりにも感情が分かり易いものだから。彼女のことだ、料理のレパートリーは増やそうとしているのだろうが失敗続きで息抜きの時間が思っていたより必要になっただとか、そういうことに違いない。

「仕事……ああ、須藤さん……」
「須藤さん?が、どうしたんですか」
「どうしたというか、あなたが人を呼ぶなら彼あたりかなと思いまして」

最近よくポアロでも打ち合わせをしているし、そういえば榎本梓に聞き耳を立てられているほどには二人の距離がそれなりに近いようにも思える。自分などとよりはよっぽど身近な人間なのだろうとも感じた。彼女は詳細こそ伏せているものの、しっかり他者と向き合って接している。榎本梓に対しても、須藤に対してもだ。そのくせ自分は──いや、安室透は──あくまでも架空の人物だ。いくら隣を歩こうとも、物理的に距離が近かろうとも、彼女と近しいわけではない。
先日料理を教えに行った時も何やら彼について考え事をしていたようだったし、この推察が大きく外れていることはないだろう。

「蘭さんや園子さんはこの後ポアロに来るそうですし、梓さんは閉店までシフトが入っているので消去法で思いついただけですよ」
「なんだか私の交友関係が狭いと思われてるみたいですけど……とりあえず、安室さんに嘘をつかなきゃいけなくなった時はすごい根回しをしてからにします」
「応援してますよ」
「すごい棒読みですけどね……」

棒読みになったつもりはなかった。むしろ、安室透らしく振る舞ったつもりだったのだが。彼女が横から機嫌悪そうに睨んでいるところを見るに、雑な対応をしたのだろう、自分は。

「エコバッグも買われたんですね」
「あ、これですか?これ頂いたんです。ファンの方からって」
「なるほど」

今までの買い出しでは持っていなかった大きめのバッグに食材が次々に入れられていく。そこまで重量もないようで肩にかけても重そうにする素振りもなかった。

「じゃあ私こっちなので。探偵のお仕事頑張ってください」
「ありがとうございます。帰り道気をつけてくださいね」
「先週のはちょっと不注意が続いただけで──」

曲がり角に差し掛かった所で彼女を見送ろうとした時、次第に大きくなるライトが目についた。音からして自転車だろうと判断して目を凝らすと自転車に乗っている子供の顔が明るく光っている。恐らくスマートフォンを操作しているからその光で照らされているのだ。
時たまに交通ルールを無視する自分が言えたセリフではないかもしれないが、道交法くらい守って欲しいものだ。こちらに顔を向けていたせいで迫りくる自転車に全く気付いていないだろう彼女の腕を引っ張った。

「すみません……全然気づかなかった」
「いえ。前もありましたね、こんなこと」

思わず抱きとめる形になったが、自転車が通り過ぎるのを確認して彼女の腕を離した。掴んでいた右手に何故かまだ熱が残っている。

「あー、ありましたね。パーティでも……あの時も、その、ありがとうございました。もっと気をつけなきゃですね」

思い起こせばパーティでは彼女自ら危険に飛び込んでいた。あれは気をつけるものでもないだろうがここでそれについて深く聞く時間もなければ聞いたところで得るものもない。彼女が健やかに暮らせているのならばそれでいい。それでいいはずなんだ。
「じゃあ、また」軽く会釈をして今度こそその背中を見送り、自分もポアロへと歩みを進める。今さっきこの腕の中にいた彼女が別の男のために料理のを作るのかと思うと、抑制することのできない濁った感情が胸の奥で膨らんでいった。




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