妄語

約二年前、弟が交通事故を起こしたと連絡があった。両親の離婚で別々に暮らしていた弟ではあったが、自分が就職してからは頻繁に会って話をしたり食事をしたり、今までしてやれなかったことをしていたつもりだった。兄らしくあらねばと、どこか気の弱い弟を元気付ける意味でも時間を作っていたつもりだった。

「ひ、轢き逃げ?あいつが?」

電話越しの母は泣いていた。取り立ての免許で弟は東京にいる自分に会いに行こうとした途中で人を轢き、怖くなって実家のある愛知に戻ったのだと。
どうしたらいいのだと狼狽える母から弟に電話を変わらせ、今すぐ自首するように告げた。事故を起こしてしまったお前がしなければいけなかったのは救命活動であり、自身を守るように逃げたのは卑怯極まりない。一秒でも早く行動に移せ。そう言い聞かせた時、弟は苦しそうに泣いていた。

「申し訳ありません」

弟が事故を起こした相手は都内に住んでいた三人家族だった。一命を取り留めたのは娘さんだけで、ご両親は亡くなったと聞いた。あの時弟が救命活動にあたっていたら、救急車を呼んでいたら助かっていたのかどうかは、怖くて聞けなかった。

「……」

意識が戻ったと聞いて母と父と自分の三人ですぐに謝罪へ伺った。会わせてもらえないかもしれないと思って手紙も用意したけれど、看護師達に睨まれながら部屋に入ることは許された。相変わらず母は泣きながら頭を下げていて、父の手が小刻みに震えていたのが忘れられない。
ベッドにいる女の子は光のない目でこちらを見ていた。罵倒された方がマシだと思えるほどに沈黙が続いて、あと少しでも続けば母が倒れるんじゃないかとさえ思った。

「私は後遺症が残ると言われました」
「……本当に、申し訳ありません」
「母も父ももういません」

女の子の瞳に自分が映ることはなかった。その目は常に父と母を睨みつけていた。いや、睨みつけていたというのは誇大表現かもしれない。あの時の彼女は睨みつける体力などあるようには見えなかったのだから。

「……未成年なんて関係ない。私は絶対に、どんな事情があったって、あいつを許さない。これを直接伝えたかっただけです」
「……はい……」
「あなた達が自首させたと聞きました。だから……謝罪はいりません。あなた達を恨んでもいません。でももし何かしてくれるなら、今すぐこの部屋を出て行って。もう二度と来ないで」

背筋の毛が逆立つように感じた。人から憎悪を向けられたのは初めてだったからだ。勿論弟のしたことは許されるものではない。何を言うのもどんな感情を抱くのも彼女の自由で、それに対して一切の文句はなかった。「あいつを許さない」彼女の言葉の意味を、わざわざ部屋に招き入れてでも自分達に直接宣告した理由を知るのは裁判が始まってからになる。

「少年刑務所……ってなんだよ、少年院じゃなくて刑務所?」
「……そうみたい」

二人を轢き殺し、一人に重体を負わせ後遺症も残っている上にその場から逃げた行為が悪質だとみなされ弟には実刑が与えられることになった。自首をしたら罪が軽くなるとまでは言わないが、何らかの影響があると思っていたのに。
悪いのは弟だ。それは理解している。下された裁定は受け入れなければいけない。ただ、心のどこかで未成年ということが考慮されるのではないか、と淡い期待があったこともまた、否定できなかった。

「控訴?とかはしないってことか?」
「被害者の子が望んでるならそれに従うってあの子が……」
「……わかった。会えるようになったら俺も行くよ。母さんも体には気をつけて」

被害者側の陳述で弟を少年刑務所に入れるべきだとあの女の子は強く述べたそうだ。保護者しか入れない裁判に立ち会っていない自分では詳しいことはわからない。でも彼女が言っていた「あいつを許さない」という意味も、あの眼差しの重みも、ようやく理解できた気がする。

「じゃあ先生の引き継ぎ、頼むな」
「はい!」
「ちょっと変わってる人だけど歳も近いし話しやすいと思うぞ」
「おいくつなんですか?」
「お前だと五つくらい下かな……あ、女性だからな、失礼な発言するなよ」

弟の裁判が終わってしばらくした頃、大体今から一年と少し前、先輩が異動になる関係でいくつか引き継ぎを受けた。幸か不幸か両親の離婚で苗字も住んでいる場所も違った自分は誰に後ろ指をさされることもなく仕事を続けられていたのだ。

「先生、失礼します」
「……どうぞ」

売り上げが高い先生専用と言われている部屋に足を踏み入れるのは初めてだった。掌がじんわりと汗ばみ、就職活動の時とそう変わらないほどの緊張感だった──彼女を見るまでは。

「仙道先生、お世話になってます。ご足労おかけしてすみません」
「引き継ぎでしたっけ……仙道です」
「……」
「ほら挨拶」
「あ、すみません、須藤です。これからよろしくお願いします」

手を身体の横に真っ直ぐ沿わせて、早鐘のように鳴り続ける心臓を隠すように勢いよく頭を下げた。彼女の顔を見ることなどできるわけもない。実の弟が轢き逃げ事件を起こした相手の顔など、今更どの面下げて見ろと言うのだ。

「須藤さん……よろしく」

彼女は特に自分へ何か反応することはなかった。あの時のように憎悪に満ち溢れた瞳を向けられることもなければ、睨みつけられることもない。
本当に気付いていないのか不安になったものの、裁判にも出ることはなかったし、苗字も違い、実際に顔を合わせたのは病室でのあの時間だけで気づかないのも無理はないと感じた。そして彼女が気づかないのなら、浅ましいということは理解しているが、思い出させるよりもこのまま仕事をさせてもらおうと。

「先生、以前お話しした件ですが──」

顔合わせ以降の打ち合わせは自分と彼女のみで行っていた。「二、三回見てやりたかったのにごめんな」と先輩からは謝られたけれど、異動なのだから仕方ない。先輩がどのような打ち合わせをしていたのかはわからないが、自分なりに彼女を支えてそれが贖罪になればと思っていた。

「……いいです、そういうの」
「え?」
「誤字脱字だけ見てください。前の方もあまり口は出しませんでした」
「あ……は、はい」

ピシャリと鼻先でドアを閉められたようだった。意見など求めていない、ただ原稿を受け取り誤字を確認する機械であれと告げられた時、一切の光がない瞳で真っ直ぐに見つめられた時、気付いているのだと感じた。この人は自分が誰の兄であるのかわかった上で仕事をしているのだと。
胃のあたりから燃えるような羞恥心が身体全体に広がって、叶うならこの場から逃げ出してしまいたかった。
しかし、その選択肢はない。被害者である彼女が弟を罵倒するなり、出版社に言って自分を担当から外すなりはできても、自分から逃げ出すことは卑怯だと思ったからだ。それでは弟と一緒になると。自分だけでも向き合わなければとそう感じて、彼女の言う通りに黙々と仕事を一年ほど続けた。




top