妄語

「……いつも迷惑かけてごめんなさい。私、これからはなるべく須藤さんと意見交換したいと思ってるから、改めてよろしくお願いします」

彼女の担当になってから一年が経った頃、唐突にそう言われた。誤字脱字だけ見ていればいいと告げた人が、自分の弟のせいで両親を失った人が、まさか仕事とはいえ心を開いてくれるとは思ってもいなかった。
弟がしたことを許してほしいとは思わないし、許されるとも思っていない。だがこうして彼女が贖罪の機会を与えてくれるのなら、やり遂げなくてはならない。
彼女は自分のことを誰に言うでもなく、出版社を変えたりすることもなく、仕事を続けてくれた。病室では確かに「恨んでいない」と言われているものの、本心はきっと違うだろう。しかし、割り切ってくれたのなら、自分も編集者としてそれに応えるのが義務というものだ。
そしていつか弟にも、贖罪の機会をもらえるなら。

「……よしっ」

少し前に終わらせた連載は既に校閲作業が進んでいて自分の出る幕はほとんどない。お陰で新作の打ち合わせには今までにない程の時間を注ぎ込むことができた。預かっていた叩き台の原稿も何十回読み返したかわからないくらいだ。意見を求められたら予想の三倍は返してみせると意気込んでいた時、突然の知らせが舞い込んできた。

「……死んだ?刑務所で……そうですか」

出先でとった電話は少年刑務所からだった。抑揚のない声が淡々と弟の死を告げる。「ご冥福をお祈りします」そう言えと定められているのだろう。でなければここまで機械的に言えるはずがない。
少年刑務所は少年院とは違い、過酷なところだと聞いていた。少年とは名ばかりで成人も多いのだと。だから当初は気の弱い弟がそんな所で数年を過ごすことが不安で仕方なかった。とはいえ、本人が罰を受け入れている以上自分には何をしてやることもできない。せめて見守り続けようと思っていたのに。

「なんで……」

泣いてしまいたかった。この後会う予定が彼女でなければ、人目も憚らず弟を失った悲しさに身を任せてしまいたかった。

「先生、お待たせしました。前の用事が長引いてしまって」

だが、間の悪いことに彼女と顔を合わせる必要があった。指定された喫茶店のドアを開けるとドアについていた鈴がカランと軽やかに、この陰鬱とした感情とは真逆の音が鳴った。

「大丈夫ですよ。早めに切り上げましょうか?」

数ヶ月前からまるで人が変わったようだと思いはしたが、最近はそれに輪をかけたように感じる。前までは仕事中に感情的なところなど目にしたことはなかったし、いつもどこか具合が悪そうだった。しかし今はどうだ、にこやかに笑い、声にも張りがある。健康で幸せそうに見える。

「大丈夫ですよ。早めに切り上げましょうか?」

今思えば彼女はきっとこの一年、両親を失った悲しみを乗り越えるのに努力を重ねたのだと思う。だがこの日、つい数時間前に弟の死を知らされた自分にはそんなことを考慮できる余裕などありはしなかった。
刑務所にさえ行かなければ、少年院で済んでいれば、生きたまま社会に戻ってこられたはずだ。自分本位でしか考えることはできなかった。

「刑務所で黒岩が亡くなったそうですよ」

彼女にそう告げた。弟は加害者だ、刑務所に行くよう訴えたからといって彼女に死を悼んでもらいたかったわけじゃない。ただ、弟の死を共有したかった。

「そうですか」

何の関心も感じられなかった。どうでもいい、それがどうしたのかという声音。自分が兄であると気づいているにも関わらず、まさか眉一つ動かしもしないとは。彼女の目は自分に向けられもせず、注文を取りに来た店員に笑顔を見せていた。

「ご注文はいかがされますか?」
「あ、私はアイスコーヒーのお代わりを。須藤さんは?」

刑務所に入れるよう強く求めた彼女を恨んでいないといえば嘘になる。この時までは理性でそれを抑えていた。そもそもの非は弟にしかないのだから恨む権利など存在しないと。だがその弟はもういない。弟を失った喪失感と間接的にその理由となった彼女への怒りにも似た何かが全身を支配していった。

「──すみません、忘れ物があったと電話をいただいたんですが」

弟の死から一ヶ月。何度か打ち合わせで使ったあの喫茶店から連絡があった。「店に忘れ物があるので取りに来てほしい、混雑している時間は避けて夜八時以降にしてくれ」と。
この店に初めて来た時は弟が死んだと連絡を受け、彼女にはその存在を否定されるかの如く扱われた。あまりいい印象は抱いていないが、忘れ物を受け取るくらいならと店内へ足を踏み入れた。

「お呼びだてしてしまってすみません。カウンターに座って待っていただけますか?」

金髪に色黒の青年がカウンターにコーヒーを置いてくれた。これを飲んで待っていろということなのだろう。指示された通りカウンターに座ると青年はドアにかかっている看板を通りから見て閉店を示す表示に変えていた。

「もう閉店だったんですか?遅くなってしまって申し訳ない」
「ああ、いえ。少しあなたとお話がしたかったもので」
「話?忘れ物があるって……」

ホットコーヒーを一口飲み、ソーサーに戻した。青年はすみません、と呟いて軽く頭を下げた。つまりは忘れ物などなかったのだ。この青年と顔を合わせたのは打ち合わせで使った二、三回のみで注文や支払い以外では特に会話もしていない。呼び出される理由など何もないと思うのだが。
青年がカウンターの中で「どこから話しましょうか」と考える素振りを見せた。

「ここ最近、仙道先生──衣理さんがよく怪我をされているのはご存知ですか?」
「は?」
「先々週は駅の階段から落ちたり、信号待ちをしている時に後ろの人がぶつかったそうなんです」
「へえ……知りませんでした」
「どちらも誰かが押したそうなんです。彼女や、彼女の後ろにいた人を」

青年の日本人離れした色の瞳と視線が合った瞬間、まるで射抜かれたかのように動けなくなった。そうなのか、と相槌を打てばいいだけなのに何故か喉も口も脳からの指示に従うことはなく、瞬きを繰り返すことしかできない。

「他にも、彼女と一緒にいた別の女性が誰かにストーキング行為を受けたと聞いています」
「そうだったんですか……先生は人気ありますから、やり過ぎるファンもいるんですよね」
「ファン、ですか?」
「そうです。もうすぐドラマ化もしますしね。先生には気をつけるよう伝えておきますよ。話がこれだけならもう──」
「おかしいと思いませんか?」
「え?」
「衣理さんが仙道先生だと知っているのは数人しかいないはずです」

鳩尾を思い切り殴られたかのような感覚だった。彼女は表舞台に出る時は必ず特殊メイクをして顔を変えていた。それを知っているのは特殊メイクを担当している工藤有希子に自分と引き継ぎをしてくれた先輩、そしてこの青年ということなのだろう。青年は顎に手を当てて「おかしいですよね?」とわざとらしく首を傾げている。

「どんな熱狂的なファンだとしても彼女が仙道先生とはわからないでしょう。同じ出版社の作家さん達でも彼女の本当の顔は知らないようでしたから。という点を踏まえると、個人的な繋がりがある人と考えるのが自然です」
「何を根拠に……」
「根拠ですか──彼女があまり外に出ない職業だから、ですね」
「……職業?」
「彼女は通勤の必要がありません。最近は自炊も始めましたから特に用事がなければ家にいることがほとんどだそうです」

青年がこれから言わんとするところが見えてきて、胃が絞られるような鈍い痛みが走る。乱れそうな呼吸を整えるためにまたコーヒーを口にした。

「ストーカーなんて家を出るのを待ち伏せてるもんなんじゃないですか?自分にあれこれ言うよりも警察に相談した方がいいですよ」
「僕が問題視してるのは、数少ない外出の日から更に特定の日にしか被害に遭っていないことです」

「コーヒーのお代わりいれますよ」そう言って青年はソーサーからコーヒーカップを取り上げて自分に背を向けた。きっとこの人はもうわかっている。わかった上でこんな言い回しをしているのだ。

「特定の日……」
「ええ。怪我をした日もストーキングされた日も須藤さん、あなたと打ち合わせをするために外に出ていたんです」

カチャリ。コーヒーカップとソーサーがぶつかる音がする。ただの陶器同士が当たっただけの音だというのに、自分には銃の安全装置が外された音のように聞こえた。鋭い視線で自分を射抜くこの青年が銃を突きつけられているかのように。




top