妄語担当が変わる。それだけで今までの仕事が全部なかったことになるわけではない。引継ぎをするために一週間時間をくれと出版社に頼まれ、急ぎでもなかったし問題ないと快諾した。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
パーティで一度会っただけの偉い人達が頭を下げている。会社まで来させるわけにはいかないので指定の場所まで行くと言うからポアロに来てもらっているのだけど、この選択は失敗だった。平日の昼過ぎとはいえそこそこ人はいる。関心があるらしい皆さんの視線が私達に集まってしまった。
「私にも何か悪いところがあったんだと思いますし……出版社にも須藤さんにも何をしてほしいわけじゃないですから」
結論から言うと彼が階段で私の背中を押したり、道路に押し出したらしい。らしいと言うのは私が直接彼に言われたわけではなく、担当の刑事からつい昨日、事情聴取をされた時に聞いたからだ。
それなりにうまくやってきたつもりだった。須藤に限らずこの数ヶ月は周囲の人とうまく関係を保っていたと思い込んでいた。蘭や園子といった少し歳の離れた子達とも、事件でよく会う刑事達やポアロで働く二人とも、それ以外の人達とも普通に接することができていると思っていたのに。まさか、階段から突き落とすほど嫌われていたとは。
「お気遣いくださりありがとうございます。今後は、このようなことは二度とないように致しますので」
「……はい、じゃあ引継ぎの方が決まったらご連絡お願いします」
偉い人達はポアロを出るその瞬間も深々と頭を下げていた。彼らのことはむしろ気の毒にすら思えてくるが、気を配れるほど私も体力があるわけではない。
人に嫌われてしまうというのは思ったよりも堪える。こんなことで泣くほど子供ではないけれど、自然と視線は膝に落ちて口からはため息が漏れていった。私の何がそんなに気に障ったのだろう。
「お疲れのようですね」
「……安室さん」
出版社の人たちは帰って行ったけれど私はもう少しポアロでゆっくりしていこう。そう考えていた私の気持ちを読み取ったかのように安室はケーキの乗った皿を片手にやってきた。
「ケーキでもいかがですか?今日ちょうど新商品を作ってみたんですよ」
「じゃあ……いただきます」
爽やかな香りがふわりと漂う。来たる夏に向けて重すぎないケーキを、という狙いなのだろう。ショートケーキのようにクリームがたっぷり乗っているわけでもない、スライスレモンが表面を飾るチーズケーキをフォークで一口大に切って口に運んだ。食欲がない、というわけではないのだが、少しばかり気落ちしていた胃に刺激が与えられた。
「美味しいです。いいですね、このさっぱりした感じ。夏にはもってこいだと思いますよ」
「それはよかった。ケーキのお代は結構です、試作の感想が聞きたかったので」
安室が柔らかな笑みを浮かべていた。試作の感想など梓にだって聞けただろうに、気を遣わせてしまったのだろうか。
「え?ダメですよそんなの」
「他の方にも出してますからお気になさらず」
安室は私に背を向けてキッチンへと戻っていく。レモンの酸味が胃に、身体全体に活力を届けてくれるようでほんの少しだけ体の中心が暖かくなった。
「衣理さん大丈夫ですか?難しいお話されてたみたいですけど……」
「私は全然。出版社の人達の方が大変だと思いますよ、急に担当さん変わるから」
「え、あの人じゃなくなっちゃったんですか?」
梓の声が少し大きく上ずったために周囲の視線を集めてしまい、各方面へ軽く頭を下げてから私に向き直った。
「あんなにずっと打ち合わせしてたのに……転職されたんですか?」
「うーん、まあ……」
ポアロで仕事をしていた時にきっと梓は私達のことを見ていたのだろう。私としても仕事中に雰囲気が悪くなったことはなかったと思っているし、側から見ていても恐らく認識は同じだったはずだ。
傷害事件で捕まったからと話すのは簡単だが出版社の評判にも関わるだろうし、何とも言い辛いものがある。
「梓さん、チラシの確認は済みましたか?」
「あっ!そうでした」
答えあぐねていたところにカウンターの向こう側にいた安室が梓を呼び、梓のエプロンがふわりと揺れた。チラシが何だかは知らないが正直ありがたい。須藤は私を嫌っているのだろうが私としてはまだ気持ちの整理もつかず、どうとも言えないからだ。怪我の程度も大したことはないし、順調に仕事をしていた分やはり私にも非があったのかと考えてしまう。警察では気にしなくていいと言われているけれど。
チーズケーキをまた一口食べると机の上に一枚の紙が置かれた。
「衣理さん見てください!」
「なんですか?」
「もうすぐ町の夏祭りじゃないですか?ポアロも出店するので今年は安室さんに頼んでチラシ作ってもらったんです」
「へえ、夏祭り……」
そういえばそんなことを哀が食事していた時に話していた気がする。今年は少年探偵団の五人と博士で行くのだとか。私も誘ってもらいはしたが子供達と博士ならともかく、そこに私が加わるのは些か不自然だろうということでお断りをしていたのだ。
「来週末でしたっけ、何出すんですか?」
「それはこの写真の──……あっ!」
「?」
「来週末……来週末でしたよね?!」
「そうですね、チラシにもそう書いてますけど」
また梓は大きな声を出したけれど、今度は周囲の目も気にせずチラシを手に取って「どうしよう」と何度も呟いている。
梓が持っているチラシを覗き込むとやはり日時は来週末で間違いはなかった。米花町で夏祭りがあり、喫茶店ポアロも出店しますという告知。安室が作ったというチラシは見易くてデザイン性も感じられるものだから、梓はきっとチラシの体裁に悩んでいるわけではないと思う。
「一週間勘違いしちゃってました……高校の友人の結婚式が……いやでも二次会に出なかったら間に合うかな……?」
「梓さん、気にしなくて大丈夫ですよ。マスターもいるじゃないですか」
客の会計をしていたらしい安室がレジの方から声をかけてくる。いつのまにか客は私だけになっていたようだ。
「マスターはお子さんとお祭り回るんだって昨日楽しそうに言ってましたよ……」
「……夏祭りなら僕だけで何とかなりますから」
「なりませんよ絶対!安室さん目当ての女の子たちもたくさん来るでしょうし」
確かに夏祭りともなれば普段からこの喫茶店に通っている安室のファンとやらは来るに違いない。浴衣を着て、髪を結い上げて、可愛らしく着飾って、安室に会いにくるのだ。女の子たちが、安室の所に。
胸の中にもやのような何かが広がった時、レジの閉まるガチャンという音がして意識をそちらへ向けた。
「その時はその時ですよ」
「せっかくチラシまで作ってもらって売上出せるところだったのに……」
梓がチラシを再度机に置いて俯いてしまった。町内の夏祭りとくれば確かに稼ぎ時なのだろう。お祭りでは基本的に価格設定は高くとも売れていくものだし、梓の言う通り、このチラシで前もって宣伝してあれば来てくれる人は多そうだ。
夏らしく濃紺が主体となったチラシを手に取った。ポアロが出すのはたった一種類のメニュー。考えられる仕事は調理と販売だが、一種類に絞られているのならそう難しいことはないだろう。
「……私代わりにやりましょうか?」
「え?」
「担当決まるまで今することなくて時間ありますし」
何かやることが欲しかった。須藤に嫌われた理由を悩み続けるよりは他のことで気を紛らわしたかったのだ。梓にも安室にも日頃から世話をかけているのだし、これで少しは礼になればとそう思った。
「えっ衣理さんいいんですか?」
「梓さんの代わりになれるかはわかんないですけど」
「代わりなんて!えーっ、もし、もしお願いできるなら……いいでしょうか……」
「いつもお世話になってますから」
告げるや否や梓の表情は打って変わって明るいものになっていた。
過ぎたことを考えていても仕方がない。須藤が私を嫌っているのも考えたところで変わりようのない事実だ。それなら、私のことを心配してくれる人達のために時間を使いたい。
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