妄語

「よかったんですか?」
「え?」
「夏祭りですよ。年に一度しかありませんから」
「ああ……」

ガサリ、と安室の持つビニール袋から音がした。夏祭りで出すメニューの作り方を一応覚えておこうということで閉店後のポアロで試すことになったのだ。今は買い出しの帰り。夏とはいえすっかり空は暗くなり、三日月のように細い月が顔を出している。

「この前言った通り一週間近く暇なんです、私。安室さんこそいいんですか?いっつもポアロでバイトするか探偵のお仕事かで全然遊んだりしてなさそうですけど」
「残念ながら衣理さんと違って交友関係が狭いんですよ」
「この前私の交友関係を狭いと言った人と同一人物とは思えない言いようですね」
「そんなこと言いましたっけ?」

きょとんと首を傾げる仕草だけを見れば何の裏もない純朴そうな青年なのだが、この数ヶ月の付き合いで彼がそんな人間でないことは承知している。人が悪いとは言わない。言わないけれど、いつも余裕たっぷりに人をからかってくる悪い癖があるようにも思える。

「はいはい、どうせ私には安室さんと違ってお祭りに誘ってくれるような人もいませんよ」
「僕もいませんよ、似たもの同士ですね」
「絶対嘘」
「嘘はついてませんが……」

安室は私とは違う。ポアロ以外で会うことはあまりないから彼の交友関係など一割も知らないけれど、彼が誰かと夏祭りに行きたいと望めばものの数時間でその相手は見つかることだろう。普段ポアロに来るお客さんと会話をするわけではないけれど、仕事をしている間に安室にまつわる良い噂をよく耳にするのだから。

「安室さんってお休みどう過ごしてるんですか?」
「僕の休日に興味を持たれるとは意外ですね」
「というより、休日があるのかなって思ってます」

梓は「安室さんはちょくちょく当日欠勤するんだから」と眉をしかめていたけれど、私の知る限りバイトにしてはかなりの頻度でポアロに来ていると思う。それに加えて探偵の仕事もあるのだし、休日などないのでは。
この前だって京都の人から依頼があったくらいなのだし、私が思っているよりも安室透という探偵はやり手なのかもしれない。彼の能力を考えればそれも当然かもしれないけれど。

「はは、ありますよ休日くらい。何をしてるか、ですか……皆さんとそう変わりはないと思いますが……衣理さんは何をされてるんですか?」
「質問に質問で返す人は嫌われるって言いません?」
「嫌わないでいただけると嬉しいですね」
「考えておきます。でも休日……んー、そう言われると……あ、最近は料理の練習続けてます」

あの本に載っているレシピは私でもなんとかこなせるレベルのものばかりで、恐らく人が作る倍の時間はかかっているのだろうが食べられる程度には味も整えられるようになってきた。勿論レシピ本ありきだが。

「それなりにはなってきたんですよ。自分で食べる分には。これも安室さんのおかげです」
「何かしましたっけ……?」
「最初にきちんと教えてもらえてなかったら挫折してましたもん、きっと」

レシピに書いてあることの意味すら分からないことが多くて最初はただただ混乱していた。初心者向けの本で何故こんなにも分からないことが多いのだろうかと。哀にこの話をしたら「アメリカじゃ調理実習はなかったものね」と解答を得たので納得はしたが、それを聞く前の私は当然ながらどこから学べばいいのかがわからなかったのだ。
そんなことを知る由もない安室には初歩的なこともわからないのかと内心呆れさせてしまったかもしれないけれど、懇切丁寧に噛み砕いて説明してくれたおかげで今があることは間違いない。

「そうですか?衣理さんの助けになっていたなら嬉しいですね」

安室の笑顔が胸に刺さる。勘違いしてはいけない。彼は誰にでも同じことをするだろう。私に向けられたこの表情も含め私にしてくれたことは全て、分け隔てなく皆に降り注がれるのだ。ああ、いつからこんな事を考えるようになったのだろう。これではまるで、まるで私が──。
彼から目を逸らしてぐっとバッグの取手を握り締めたその時、スマートフォンが小刻みに振動し始めた。

「ごめんなさい、電話が……」
「どうぞお気になさらず」
「ありがとうございます。……はい、瀧です。はい。署へ伺えばいいんですか?いえ大丈夫です。わかりました、はい。では明後日に」

米花警察署からかかってきた電話のせいで頭の片隅に追いやっていたことが蘇る。せっかく気持ちを入れ替えていたというのに。歩いている内にポアロまでたどり着いていたようで安室が鍵を開けていた。

「警察ですか?」

ポアロに入るドアを抑えながら尋ねてきた。先に入っていいということなのだろう、軽く会釈してから喫茶店に足を踏み入れる。店内に誰もいないなんて初めて見る光景だ。「そうなんです」答えながら薄暗い店内を見回した。

「この前誰かとぶつかって階段から落ちたって話しましたよね?あれ、本当は……わざと押されてたみたいで」

顔を見られたら心でも読まれてしまいそうな気がしてわざと離れた場所にビニール袋とバッグを置いた。早く話題を変えてしまいたい。心に巣食う不安と向き合いたくはない。手を洗おうとキッチンへ入る安室に続いた。

「傷害事件になるからって警察に呼ばれたんです」
「……大丈夫ですか?」
「え?ああ、足ならもう全然。走れって言われても余裕です」
「治っているなら何よりですが……大丈夫ですか?」

何が、とは言わなかった。ただ何となく、この男は気付いているのだろうなと感じた。それは今までの類稀なる洞察力から今回もそうなのだろうと思ったからかもしれないし、胸の奥に隠している気持ちを見通されたかのように思えたからかもしれない。

「大丈夫……」

何故か目の奥がじわりと熱を持つ。心配させたくてこんな話をしたわけではないのに。仕事上の付き合いがあった人に嫌われていたくらいでここまでショックを受けている自分に驚きさえ覚えてしまう。

「……じゃないです。やっぱり誰かに嫌われるのって辛いですね」

普通に接していた人──むしろ自分では良い関係を築いていると思っていた──が、実は事件を起こすくらい私のことを嫌っていた。それならば須藤以外の人達だって、目の前にいる安室だって、私のことを疎ましく思っているのかも。
いつまた違う人生になるかもわからない私には心を許せる人はそう多くいなかった。だけど今回は哀をはじめとして様々な人と関わりが持てている。だから大事にしたいと思っていたのに。そう思っていたのは私だけなのかもしれない。考えたって仕方のないことなのに、そんな可能性が頭をよぎる。

「──僕は衣理さんのこと好きですよ」
「……それは、どうも」

思わぬ一言に何度も瞬きをしてしまった。さぞ今の私は間の抜けた顔をしているに違いない。

「梓さんも、蘭さんや園子さんも。衣理さんのことが好きなはずです。だからって今回のことが消えて無くなるわけではないですが……辛い時は言ってください。力になりますから」

不思議と安室の言葉が胸にすとんと落ちた。信じられる、と言うよりも信じたい気持ちの方が強いのかもしれない。彼は嘘などつかないと、誤魔化すために言ったのではないのだと。
先程目の奥に灯った熱が胸まで落ちてきたかのようだ。数ヶ月前は散々疑われていたというのに、同じ人からの言葉が今ではこんなにも勇気を与えてくれるなんて考えもしなかった。

「安室さんが言うと何でも解決できちゃいそうな気がしますね」

もうどんな言い訳をして、予防線を張って、誤魔化したって無駄だ。自分の気持ちからは逃げられやしない。
きっと私は、いつからか安室のことを好きになっていた。特別な扱いなどされなくとも優しくされただけで嬉しくなって、ファンがつくほど女の子から人気があると聞いて焦燥感を覚えて。たった一言で不安が消し去られるほどに私の中での存在が大きくなっていたのだ、この人は。




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