月は見えない

ロマンチストだから昼間から空を見上げて星の話をしていた。
プラネタリウムに行ったって説明されなきゃどれが夏の大三角だか分からないけど、星のない晴天を指さす不二が夜になればあそこに白鳥座が見える、なんて言うものだから分かったような顔をして頷いた。

「街灯の光が強すぎると星が見えなくなるって言うけど、月の明かりが強すぎても星は見えなくなることがあるんだよ」
「ふうん」
腑抜けた相槌を一つして私は立ち上がる。生憎私は淑女ではなかった。
遠くから風に乗って届いてくる運動部の掛け声を聞きながら、私は広い屋上の上で行き場もなく不二の周りをうろうろと回っている。
「そのぶん月はいいよね。昼でも見えるし」
コンクリートの上に座ったままの不二が、落ち着きなく歩き回る私の頭上を眺めてそう呟く。どうやら今日は新月らしい。

その口のまま、不二は月に関するありとあらゆるロマンチックな説話を引き合いに出した。そんな姿に私は頭がいいなあ、なんて頭が悪そうな感想しか思いつかないでいる。
第一、凡庸な私が月について知っていることなんて一つしかないのだ。
「それで夏目漱石はアイラブユーを月が綺麗ですね、に訳したらしいね」
「それ知ってる!」
食い気味で反応した私に不二は少し驚いた顔をして少し固まった後に、私を見上げて喉の奥で何かに納得したみたいに小さく笑いだす。
「本当に綺麗だね」
頭の上で飛行機が雲を描いて横切っていく音がする。空を見上げた不二に私はつられて天を仰いだ。
眩しすぎる青の中に、おろしたてのスーツより白い入道雲が一つだけ浮かんでいる。
「月なんて見えないじゃん」
スマホの見過ぎで視力が落ちてしまったのだろうか。地平線の遥か彼方まで悠々と広がる青空の中に、愛しているの五文字は見つからなかった。
「そうだね、見えないね」
「新月、見えてたんじゃないの?」
「新月の日はまだ先だと思うけど…何の話?」
不思議そうに首を傾げる不二に、私もつられて傾げてしまう。
きっと月が見えていたと思ったのに。まるでこれからなされる大事な告白が駄目になってしまったような気がして、私はこっそりと肩を落とした。

「でも不二さっき、綺麗だ、って言ったよね」
腑に落ちないでいる私は一言一句、頭の中で丁寧にしまい込んだ不二の言葉を引っ張り出して言う。
不二はゆっくりと記憶を辿るように私を眺めて、そうして漸く思い出したように、ああ、と声を漏らした。
「言ったね。言ったけど、別に月を見て言ったわけじゃないよ」
「じゃあ何を見て言ったの?」
じれったくなって聞けば今度こそ不二は静かに腰を上げる。
「それは、君は知らなくていいことだよ」
そう言う不二がおかしそうに笑いながら立ち上がった時、さらりと垂れ下がった不二の髪の、その間から覗く見慣れた頬に何故か視線の全てを奪われた。

クラスの男子より少し白い肌。そこに触れれば想像よりも柔らかくて、何度も突いてしまう私をどうしたの、と穏やかな声色で尋ねる不二がいることを、きっと私だけが知っている。
「綺麗だね」
無意識に口から出た言葉は不二の耳へ届く前に失墜して地に落ちた。
「何か言った?」
届かなくてよかったかもしれない。こういうことは今度、月の出ている夜にもっとロマンチックに言ってやるべきじゃないか。
だから聞き返す不二に私は笑いだしそうになるのを堪えてすまし顔で言ってみせるのだ。
「不二は知らなくてもいいことだよ」
月の消えた晴天の下で、かの文豪があの英文を訳した気持ちが分かったような気がした。