彼女の涙はまるで秋暮れの雨みたいだ。その頬で静かに降り注ぐ細雨をそっと指で掬いとって、僕は夏の終わりを知る。
「取り返しのつかないことをしようよ」
神出鬼没は彼女の専売特許であった。夏休み明けの登校日、午前中で終わる授業の後、ひょっこりと僕のクラスを覗き込んだ苗字が言った。
「部活、ないんでしょ」
突然のことに言葉を詰まらせている僕へ、追い打ちをかけるように苗字が言う。さっと見渡す限り、断る理由も無かったものだから僕は軽く頷いた。
「何をするの?」
「人には言えないこと」
鞄を取りにゆっくりと机へ戻る僕をじれったそうな目で見て、苗字は僕の後ろに付いて回る。こういう時の彼女は、帰る方向が違う僕と一緒の電車に乗る口実が欲しいだけだと、僕だけが知っているのだ。
行きついた先は小さな丘のある街だった。学校からほんの五駅離れた駅の改札を出て、僕たちは目下に広がる閑静な住宅街を見渡している。途中、背中の曲がったお婆さんが店番をしている駄菓子屋で苗字は二本のラムネを買って、その片方を僕に渡した。
半分は土に埋もれてしまった遊歩道を登り切るまで、苗字がラムネの瓶を首筋にあてて涼んでいたものだから、僕はついつい自分の分を握りめて彼女が飲み切るのを待ってしまう。
半分に別けたアイスを、甘いものが好きな彼女のために食べないで取っておいた夏の名残が、まだ身体から抜け出せていないみたいだ。
「おお〜〜!」
首元に汗が滲んできた頃、開け始めた視界の中へ飛び込むように苗字は声をあげて、二段飛ばしで階段を上っていく。まだ残暑の残る風が大胆に苗字の後ろ髪を吹き上げるのを、僕は一枚の写真を見ているような気持ちで眺めていた。
先を行く苗字は後ろの僕には目もくれずに丘のてっぺんの一番高いところへ駆け出していく。苗字の頭の向こうで悠々と広がる住宅街と季節外れの入道雲をぼんやりと見て、僕は持っていたラムネの瓶を無造作に開けた。
「うわっ!」
一瞬、天気雨が降ったのかと思った。
突然噴き出した水しぶきが昼下がりの陽光と相まって透明なプリズムを作り出す。反射した光が目の奥を刺して、小さく吹いた風に揺れた水滴が視界の向こうを歪ませた。
光の向こうで驚いてこちらを振り向いた苗字と目が合うのを、僕はまるで映画のクライマックスのスローモーションでも見ているような気持ちで眺めた。
降り注ぐ水滴の向こうに、柔らかい青を湛えた空が見える。
次の瞬間、時間は動き出して冷たい水がシャワーのように僕の腕に降り注ぐ。呆気にとられている僕の手の中で、すっかり温められてしまったラムネがしゅわしゅわと小さな音を立てながら白い泡が吹き零れた。
「あ〜あ、やっちゃったねえ不二」
くるりと表情を変えてけらけらと苗字が僕を笑った。そういえば彼女はハンカチを持たないタイプだ。
僕のポケットに入っているハンカチを取り出したけれど、それは運悪く濡れてしまっていて使い物にならない。
「何がそんなにおかしいの」
眉を顰めて聞く僕に、苗字は余計ツボに入ってしまったようでついにお腹を抱えて笑いだす。静かな住宅街の広がる景色をよそに彼女の声は天高く吸い込まれていった。
最初はその様子を黙って見ていた僕も、いつもよりワントーン高い名前の声に乗せられるように自然と頬がほころんで、喉の奥から小さく笑い声を漏らす。
重なる音の隙間に落ちそうな僕の声を一つずつ拾い上げるように、苗字がふと顔を上げた。
そんな僕の目を捕らえたその目じりに涙が溜まっていることに気が付いて、そっと指を伸ばせば苗字は不規則になった息を整えながら小さく静かな声で言う。
「ばかだねえ」
言葉と同時に、細められた瞳から流れた涙を僕はそっと拭った。砂糖でべたつく手の上をぬるい風が柔らかく撫でて、微かに香った秋の甘い匂いが体温を奪い去っていく。
僕はどうしてか、泣き出す寸前の声で言われた彼女の愚直な一言が、世界で最も遠回しな告白の一つであるように思えて仕方がなかった。