「古典常識では、相手の名前を聞くことはプロポーズと等しい意味を持ちます」
そこまで言って先生は教科書を閉じた。ここぞとばかりに筆記用具をしまう音が大きくなって、それより少しだけ遅れて終業のチャイムが鳴る。
周りの友達はのろのろと席を立つ。やっべ箸忘れた、なんて間抜けな声が唐揚げの匂いと一緒に教室の後ろから聞こえてきた。
かくいう私はぐるぐる鳴るお腹の虫を抑えて、古典の教科書片手に教室を出る。早く行かなければ、あの人がお弁当を食べ始めてしまうかもしれないからだ。そうなったら折角の立ち話のチャンスが無駄になってしまう。
完全に走ってしまうと怒られるかもしれないから、百人中六十人くらいは「ギリギリ走ってないんじゃない?」と言うくらいの速さで廊下を急ぐ。
すれ違いざまに体育の先生から険しい顔で見られたけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。
目的のクラス、三年六組の扉の前で私は一旦立ち止まって、手櫛で前髪を直してからそっと中を覗く。
クラスが違う友達を呼び出すときは、大抵ドアの近くにいる子に相手を呼んでもらうのがよく見かけるやり方だけど、残念ながら私はあの人の名前を知らなかった。
だから自力で見つけるしかないのだ。私は広くはないが狭くもない教室の中に目を走らせた。
あの人について知っていることと言えば、肩の上まで伸びた茶色い髪に私より少し白い肌に、水底に沈んでいくような柔らかい声をしていることだけだ。これが登校中とか放課後ならもっと見つけやすかっただろうに。何故ってあの人はテニス部で、いつも私の身長の半分くらいのテニスバッグを背負っているからだ。
「誰か探してるの?」
頭の中で思い出していたあの人の声と全く同じ声が上から降ってきて、私は驚いて顔を上げた。夢にまで見たあの人がノートと筆箱を持って立っている。どうやら前の授業は移動教室だったらしい。
「ちょうどよかった、これ」
持っていた古典の教科書を差し出せば、私に教科書を貸したことをたった今思い出したような顔をする。
「すぐに返してくれなくてもよかったのに。僕のクラスの授業は明日だから」
「忘れるといけないからさ、それに明日も借りにくるかもしれないし」
「はは、なにそれ、なんの予告?」
私の小さな駆け引きを軽く笑い飛ばした彼と知り合ったのは、つい一か月ほど前のことである。たまたま何かの教科書を忘れて困っていたところに、救いの手を差し伸べてくれたのが彼だった。
それからというもの、忘れ物をめったにしない彼のところへ、私は忘れ物をした日には真っ先に尋ねるようになっていた。とはいっても私だってそんなに頻繁に忘れ物をするわけではない。
彼と初めて喋ったあの日は一カ月ぶりの忘れ物だったし、今日だって本当は鞄の中にはちゃんと自分の教科書が入っている。ではなぜ違うクラスの彼の元まで教科書を借りに行くのか、そこは言わぬが花だろう。駆け引きはいつだって五パーセントの純情と九十五パーセントの故意で出来ているのだ。
通行の邪魔にならぬよう、私たちは廊下の端に逸れて他愛もない話をした。それは今朝の通学路で会った猫の話だったり、昨日の夜読んだ本の話だったりする。時間にして五分程度か。
友達として短くはないが長くもいない頃合いに、私たちは「じゃあ」と曖昧な返事一つで解散した。
「あっ」
「どうしたの?」
「大丈夫、なんでもない」
不思議そうに振り返るあの人に、私は誤魔化すように手を振って笑う。
遠ざかっていくあの人の右手に握られた古典の教科書を眺めながら、その裏に書かれた名前を盗み見るのを忘れた、と私は思い出した。名前を知らないと、教科書を返すときに見つけづらいのだ。次に借りる時こそは。
さすがに二日連続は下心が見えてしまうだろうか。
理科の教科書ありがとう、助かったよ。口の中でぶつぶつとセリフを暗唱しながら、今日も今日とて昼休みの廊下を半分走って歩けば、つい昨日顔を合わせたばかりの古典の先生とすれ違う。そうしてあの人のクラスでは今日に古典の授業があると、昨日話していたことを思い出した。
そういえば次の時間で小テストをやるって言ってたっけな。三年六組までの道すがら、前回の授業でやった内容を思い返す。古典常識では、相手の名前を聞くことはプロポーズと等しい意味を持ちます。
手の中に収まっているあの人の教科書がずっしりと重く感じられたのはその時だった。
今ならあの人の名前を見てしまえる。
けれど昨日ちゃんと古典の授業を受けた私にはそんな些細なことが、なんだかとても恥ずかしいことのように思えて仕方がなかった。
きっと素敵な名前なんだろう。どういう字を書くんだろう、名前の由来は?
俯いて悶々と考えていればいつもの声が頭の上から降ってくる。
「誰か探してるの?」
あの人が私に声をかける時はいつも決まってこのセリフだ。お返しに、私が散々口の中で繰り返したセリフを何食わぬ顔で返して、そうしてまたあの人の名前を確認しそびれたことに気が付くのだ。
「君がしょっちゅう借りに来るから、最近は僕も君のクラスの時間割を確認するようになったんだよ」
冗談か本気か分からない口調であの人は言う。あの人は誰かを呼ぶとき「君」と言うけれど、その声で自分の名前が呼ばれるのを想像した私は、恥ずかしくて目を逸らしてしまった。
授業が終わったばかりなのか、あの人の手の中にはこれからロッカーにしまわれるであろう古典の教科書が握られている。
教科書の貸し借りの後の恒例行事、あの人は今日もやはり他愛もない話をしていて、それはやはり五分きっかりに終止符が打たれるのである。
「じゃあ」
いつものタイミングでお決まりの言葉で踵を返す私に、今日はあの人が後ろから私を引き止めた。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
振り向いて首を傾げると、あの人は少しだけ言い淀んだ。
「君って何かと僕にものを借りにくるけどさ」
選ぶようにして言われた言葉に私の心臓は痛いほど跳ねあがる。下心が見抜かれてしまったのか、はたまた怒られて飽きられるのか。相槌を打った自分の声が想像以上に上ずっていて首の後ろを冷汗が流れる。
けれどあの人はそんな私の気もしらない顔で、私の目をまっすぐに見ていた。
「これだけ話してるのに、そういえば僕は君の名前を知らないなって思って」
視界の端であの人が手に持った古典のプリントが、くしゃりと握りしめられる音がする。
あの人も照れて耳が赤くなるものなのか、と私はどこか他人事のような気持ちで思うのだ。
「よければ君の名前を、教えてくれないかな?」