「今夜、家に誰もいないんだ」
白昼堂々、昼休みの廊下ですれ違いざまに呼び止められて振り返れば、不二は顔色一つ変えることなくそう言った。あまりにも自然に言ってのけたものだから、周りの同級生たちはさしてそれを気に留める様子もなくて、各々の用事を済ませるために行きかう脚を止めなかった。
不二周助。齢にして弱冠十七歳の男が恋人に対してこう言うのは、一体どういう意図であるのか。部活はいいのか、と聞こうとして、そういえば今日はオフであったと苗字は思い出す。不二に限ってそういうことに興味がないということも、あながちないのだろう。
「…今日、校門前で待ってようか」
「そうしてくれると嬉しいな」
嬉しそうに軽く微笑んで、不二は苗字の隣に並ぶ。不思議に思って隣を見ると、教室にかえる途中だったんだよね、と当然のように促された。
「不二はどこに行く途中だったの?」
「僕?僕は君を探してただけだけど」
「ふうん、なにかあったの?」
「今話したことだよ」
何もおかしなことはないとでも言いたげに、教室の前に着けば不二は一直線に席へと戻っていく。
仕方がないから、なにか言い忘れたような、もやもやとしたものを覚えながら、苗字も大人しく自分の席で次の授業の支度を始めるのだ。
そうして不二と目が合って、わだかまりの正体はこれかと眉を顰めた。
「隣の席なんだからわざわざ探しに来ることもないのに」
言えば不二は、分からないかなあ、と溢して不二は薄っすら笑う。
「その方が秘密の話をしてる感じがするでしょ?」
決まってしまえば後は簡単だ。約束を果たすために動くしかない。
特に何事もなく放課後になってしまえば、とりあえずお手洗いで軽く化粧直しをした後、速足で校門へ急いだ。桜はとうに散り終えているが夏はまだ来ない。学校指定ではない大きめのセーターを脱ごうか迷って、やめた。着ていた方が可愛いからである。
校門へ向かうと不二は既に準備ができていたようで、文庫本を片手に立っていた。そういえばテニスバックを持たない彼を見るのは何だか新鮮である。週に一回、オフの日があるのだから見慣れていないことはないのだろうけど。
「おまたせ、待った?」
「待たせたと思った?」
「思ってないね」
苗字の準備ができているのを見て、本をしまった不二は歩き出す。足の進められる方向はもちろん彼の家の方向である。二人の間の距離は至って普通だ。遠すぎることもなく、近すぎることもなく。同じ制服を着た生徒が足早に横を駆け抜けた。
「ねえ不二、一個聞いていい?」
「うん?」
「今日なにしに行くの?」
「…それ聞いちゃう?」
不二は困ったように眉を顰めて首を傾げる。
「逆に、何をしに行くと思ってるの?」
「…人に言えないこと?」
「あたり」
別に向かう先が不二の家だろうがどこだろうが良かったのだけど、歩きながら少し考えて苗字は答えを導き出した。
「ゲーセン?カラオケ?それともただの寄り道?」
不二の家の方向、つまり駅の方向にあたる方向にあるものを列挙していくと、不二の表情は都合の悪いことでも聞いたかのように固まる。
「ゲーセンだあ」
立て続けにそう言ってやれば不二はムッと眉間に皺を寄せた。
「僕はゲーセンじゃなくてもいいんだけどな」
「あ〜!私いま急にゲーセン行きたくなった!ゲーセン行かない?!」
慌ててわざとらしく大声をあげてやると不二は、君がそこまで言うなら仕方がないね、と呟く。
あたかも子供を引き連れる大人のような顔で不二が歩き出すのだから、苗字もまた、子供を見守る大人のような顔でその後についていくのだ。
果たして行き着いた先はやはり駅前のゲームセンターである。
苗字は不二がゲームセンターのような場所へ行くという話も聞いたことがなかった。直接聞いたって曖昧な回答しか返ってこないのは目に見えている。
多方、テニス部の誰か、もしくは弟がゲームセンターに足繁く通っていたために興味を持ったところだろうと勝手に想像した。
「不二の目当てのものはあるの?」
「うーん、そうだなあ、このクレーンゲームとかかな」
そう言って不二が指さしたのは、顔より大きい赤いタコのぬいぐるみの入っているクレーンである。
はっきり言って指をさして言うほど可愛くはない。可愛くはないがどこか憎めない愛嬌が滲み出ており、おそらくこういうのをブサカワと言うのだろうと心の内で納得する。
「不二ってクレーンゲームやったことある?」
「そりゃあ何回はね。こんなに大きなものは初めてだけど」
「ふうん」
こういうものは小さい商品とは違って何回か経験したくらいでは取れない。ある程度不二にやらせたら後は私がなんとか取ってあげよう、無駄に燃える使命感のようなものを持って苗字は不二の手さばきを見守った。
どうしたってこの人の眉尻が下がるところを見たくないのだ。
「あ、取れた」
「ハア?!」
そうやって考えあぐねているうちに、大きな、物が落ちる音がして苗字は思わずショートコントさながらの二度見をする。
「簡単だねこれ」
「簡単じゃないんだけど?!」
私ですら何回かかかるのに。初心者に負けたような、何か悔しいような、恨みがましそうにクレーンゲームの箱の中を睨めば、不二はぬいぐるみを差し出した。
「はい、あげる」
あまりにも自然に差し出されたその手を苗字は思わず受け取ってしまう。
「…不二、これ欲しかったんじゃないの?」
「うん。これ取ってあげたら喜んでくれるかなって思ったんだけど…、こういうの好きじゃなかったかな?」
そう聞かれれば、苗字は間髪入れずに好きだよ、と返す。
はしゃぐほど可愛くはないが嫌いではない。嫌いではないがとりたて好きでもなく、しかしこのぬいぐるみの持つ、不二が取ってくれた、という付加価値だけで苗字はそれを反射的に答えたのだ。
「そういえば今日は何時まで空いてるの?」
「不二の気が済むまで空いてるよ」
もはやここへ来て、暗くなったから帰ろう、なんて言う気持ちはもうなかった。
苗字たちは今、確かに秘密のことをしているのだと思う。
不二ともあろう男が放課後にゲームセンターなんて、悪いことだ。悪いけれど、誰にも言いたくないことで、言うべきではないことなのだ。
そうしていくつかのクレーンを適当に回って、両手で持て余しはしないが片手には収まらない程度のお菓子をなんとなく摘まみながら外へ出れば、空はすっかり暗くなって頭上にまん丸い月が一人で、ぽつりと浮かんでいた。
どうやら今夜の不二は自炊をする気もないようで、近くのファミレスを覗いたのだけど、時間帯のせいか座れる席もなく、しかしお腹は空く一方で兎にも角にもこの空腹を何とかしようと二人はファストフード店でハンバーガーをテイクアウトするのだ。
ところでここに一つの誤算が生じる。不二も苗字も、ハンバーガーを食べるということにおいて、壊滅的に下手だったのである。
時刻は夜。暗がりで手元が見えなければうまく食べられるものも食べられないのだから、うまく食べれれないものなんて最悪だ。
「不二、ティッシュ使いなよ。あ〜…いや、それは一回ティッシュで拭いてどうにかなるレベルじゃないな」
「そうかな、僕は別にハンバーガー食べるの下手だって言われたことないんだけど」
「じゃあ私が言ってあげる。下手だよ、不二」
「ねえそれよりパンのお尻からお肉出てるよ。あと口の周り、一回拭いたほうがいいよ」
「知ってる」
店を出て少し歩いた場所、高架下でそんな会話を交わしながらもっと多めにティッシュを貰ってくればよかったと苗字は後悔した。今の量では到底、二人の食べ方には太刀打ちできない。
いつもはあんなに品行方正で何でもこなせそうな顔をしているのに。
まさか不二がここまでハンバーガーを食べることが下手だとは予想外だ。それこそゲームセンターに行く時点で不二のイメージとはかけ離れていたけれど、仕方がない。いつだって人が見える他人はその取り繕った表面でしかないのだ。
思えば苗字も不二周助という隣の席の男に、その端正な横顔を見て恋に落ちた一人であった。
今までの苗字が知っていた不二が虚像の上の道化であるとは万が一にも言わないが、だからと言ってそれだけが不二の全てであることとは断じて違う。
そしてそれと同じように、不二の知っている苗字が苗字の全てではないということもまた、然りだ。
どこか手を洗える場所を探しに行こうと、照り焼きソースでべたつく手を服につけないように離せば、ふと不二と苗字の目が合った。
「指を舐めるなんて行儀が悪いよ」
やんわりと不二が窘められる声がするけれど、指にソースが付くのは誰だって嫌である。
「誰も見てないから大丈夫」
「僕は見てるよ」
「今日のことは私たちだけの秘密だから、不二に見られたって問題ないね」
そう返せば、子供に冗談を言うような顔で不二は笑った。
「でもお月様が見てるよ」
不二が高架下から外を覗き見るように少しだけ顔を上げれば、街灯よりは小さくて丸い月が浮かんでいる。その明るさに怖気づいたように、夜空に星はない。
「明るいほうの月が表側なんて、誰が言ったのよ」
まだ太陽が微睡むこの季節、肌を撫でる風は未だに体温を奪っていく。不二は何か言葉を返そうと小さく口を動かしたが、目の前にいる、見慣れた知らない人間に返す言葉も見つからなかった。
ゆえにハンバーガーを食べ終わった彼女の横顔をぼんやりと眺めながら、それが何だか初めて見る顔のように感じられて、不二はそっと距離を詰めたのだ。
もっとちゃんとその顔と正面から向き合うために。