虎視眈々とそれを狙っていたことを知らないだろう

大体のことは正気に戻った方が負けである。やらなければいけないことの多くはやらなくてもいいことだし、意味のあるものが一番、いざ蓋を開けてみれば何の意味もなかったりする。
人生なんてその最たる例ではないか。颯爽と街を通り過ぎる無傷そうな横顔の一つ一つに、彼らにとっての人生の意味を問い詰めたとしても、責められやしないだろう。
つまりなんだ、私は今まさに人生の路頭に迷っているのだ。

喉元に停滞する毒にも似た陰鬱な空気がそのまま口から出てしまわぬよう、ぬるくなったココアで一気に流し込む。キッチンから近付く足音が聞こえて、いつも通りの顔をした不二が私のマグカップを取り換えた。
深夜一時、日付を跨いだ仕事終わりと日が昇るまでのほんの数時間の間だけが、私の時間だった。
清潔に洗われた純白な陶器の中で並々と注がれたココアが湯気を立てている。喉の奥を優しく撫でるような甘い香りがふわりと漂った。
「落ち着いた?」
ストレスが怖いのは多分、目に見えないからだ。いつもなら軽く受け流せる上司からのお小言も、知らぬ間に心の容量がいっぱいになってしまえばいとも簡単に限界を超える。
中学生の頃、作文に書いた将来に夢を思い出せなくて私は小さく鼻を啜った。
「今度、休みを取ろうよ。このまえ君の好きそうなレストランを見つけたんだ」
耳の中にそっと馴染んでいく不二の穏やかな声が好きだ。でもこの時ばかりは訳が違う。
不二が私を慰めようとすればするほど、彼が私のように不完全な人間ではないことを見せつけられているようで、居心地が悪かった。
「君はもうたくさん頑張ってるよ。僕が言うんだもの」
ああそうだ、私は頑張っている。頑張っているからこそ、その努力に意味など無かったと気付くことが辛いのだ。
「僕に出来ることがあればなんでも言って」
不二の言葉に私は一瞬、顔を上げてそう思うならもう何も言わないで、と溢しそうになる。私を思うならこれ以上みじめにさせないでほしい。
だけどそんなことを言ったのならきっと不二は悲しい顔をして、その唇から優しさを湛えた言葉がもう二度と紡がれなくなってしまうことを私は知っていた。
だって彼は優しいのだ。残酷なまでに。
「なにしたって私には意味なんて無いんだよ」
「…どういうこと?」
少しだけ、顔を顰めた不二が二人分のソファを詰める。スプリングの軋む音が一際大きくリビングに反響した。引き止めるように私の手を握った不二の身体が強張っている。
後ろのキッチンから、洗い物のカゴ立てかけたであろうお皿が倒れる音がしたけれど、不二は私の顔をじっと見つめたまま微動だにしなかった。

「私は不二みたいな取り柄とか無いから、何をしても意味がないなって。私のやることは私じゃなくても出来ることで、だからそしたら私がやる意味なんて無くて、意味がないなら私は何のために生きてるんだろうって」
一言話してしまったが最後だ。
支離滅裂な文句が堰を切って口から溢れ出る。こんなものは子供の言い訳みたいだ。
今までの私は一体どこで自分の人生に意味があると己惚れてしまったのだろうか。あれもそれもこれも、今まで頑張ってきたことも、これから頑張ろうとしていることも、それをするのは私じゃなくてもよかったわけで、私が私でいることに意味なんか一つもなかったのに。
「意味がないとだめなの?」
宥めるように言う不二に、強欲な私は黙ったまま頷いた。
「意味がなくても平気って言える才能も自信も、持ってないんだもん」
不二と違って、とは言わないでおいた。彼は意味など無かったとしても一人で前へ進めるだろう。きっと彼はいつか私を置いていくに違いない。
自分の生きる意味すら見つけ難いのに他人なんてなおさらだ。こんなにめんどくさい恋人になるはずではなかった。なんて頭の隅で自分をなじれば不二は握っていた手をそっと退けた。
自分のせいなのに、離れていく体温が勝手に恋しくなって思わず顔を上げると不二は私の頬に手を触れて、ぐっと親指の腹で頬を撫でた。
呼吸の音すら鮮明に聞こえそうな部屋の中で、不二が何かの決定事項を決めるように言う。
「じゃあ僕のために生きてよ」
私を見据える不二の瞳は揺らがない。いつもと変わらない声なのに、まるで贈り物を強請る子供のようだと思った。
「君に、僕がこの家に帰ってくる理由になってほしいんだ」

なんて自分勝手な男なんだろう。
けれど私にはその提案を断る理由もなくて、かといって上手な返しが出来るわけでもなく、場に合わない阿呆みたいな感想が口を飛び出してしまうばかりだ。
「それってなんだか、私の人生が欲しいって言ってるみたい」
不二が無言のまま、私の鼻の先に触れるだけのキスを落として言う。
「欲しくなさそうに見える?」
なるほどこれなら意味などなくても悪くない。
不二が鼻の先で私の頬に擦り寄るものだから私はそっと目を閉じた。生きる意味など見つからなくとも、生きなければならない理由は存外あるらしい。