聞かぬ振りの愛

晩秋の涼しさが酷く肌に染みて、暗闇の中で苗字はぼんやりと目を覚ました。一人で眠るには少し大きすぎるベッドの上に、居るべき人の体温が見つからない。代わりに寝室のドアの向こうから淡い光が漏れていることに気が付いた。

静まり返った家の中で何か後ろめたいことをしている気持ちになりながら、苗字は足音を忍ばせてベッドから降りる。
かくれんぼみたいに気付かれぬよう、リビングの様子を覗き見ようとしたが、そんなことを知る由もないフローリングが鈍い音を立てて鳴るものだから、ソファの上で蹲っていた不二の背中がゆっくりとこちらを振り返った。
「…ごめん、起こしちゃったかな」
不二のせいで起きたと言えば正しくその通りであったが。
「別に」
思ったよりも素っ気ない声が出た、と苗字は他人事のように思った。これでいて恐らく緊張しているのだ。だって不二が何も言わずに夜更かしをするなんて。少なくとも苗字がその夜更かしのことを知ったのはこの夜が初めてだった。
話を切り上げるように立ち上がろうとした不二を苗字が無言で制して隣に腰を下ろす。
「何してたの?」
今日はソファの軋む音が一段と大きい。短く間をおいて不二は困った顔で小さく笑った。
「別に何もしてないよ。ぼーっとしてただけ」
これは嘘だ。それを隠す気も隠し通せないことも分かっている不二からの、明確な拒絶である。
「本当に何もないから」
それでも不二が本当だと言うならそれはたとえ嘘でも本当だ。少なくとも苗字にとってはそうだった。
けれど同時に、優しさで引かれた不二周助という男の線引きに、苗字がある程度気に食わなかったのも事実である。
だから苗字は話に蓋をするようにやんわりと重ねられた不二の手を、無造作に退かしてみせたのだ。
「わたし今夜、不二が泣くまで眠らないよ」
「僕は別に、泣いてないよ」

不二が泣いていたかなんて本当に泣くかなんてどうでもよかった。だけどそう言わない限り、彼が胸の一番奥に隠したものを暴ける方法が見当たらなくて、そして何より、苗字は不二がこうして蹲っている背中を今までたったの一度だって見たことがなかったのだ。
自分だけ弱さを隠そうとするなんて狡くはないか。
「ねえ、僕が起きていた理由は明日の朝話すから、今夜はもう寝ちゃわない?」
「絶対に嫌」
「困ったなあ」
不二は本当に困ったような顔をして首を捻った後、何かを考えるように少しだけ黙ったかと思うと大きなため息をついて、隣に座る苗字の肩へ顔を埋めた。
「何も言わないでいいよ」
優しさに包んだ牽制を不二は静かに放つ。そうして小さくゆっくりと喉の奥にこびり付いた黒くてどろどろとした言葉を、決して誰も傷つけないように細心の注意を払って絞り出すのだ。
「別に誰が悪いとかじゃあ、ないんだけどね」

不二の声はまるで静かな祈りだった。少なくとも苗字にはそう聞こえた。
それはどんな讃美歌よりも綺麗な言葉で紡がれていて、苗字はただ無言の内に毒にも似た祈りを聞き流した。そういう約束だったから。
喉の奥が震えるような不二の声を耳元で聞いて、苗字はなんとなく部屋の隅を見て、彼のような人間がどうかこのまま彼のままでいられますようにと心の内で呟いた。
神様なんて微塵も信じていなかったけれど、不二には神様が付いていてもいいんじゃないかと思った。
きっとこのことは誰にも言わないでおこう。だけどこの夜があったことはずっと忘れないでいよう。少なくとも、彼の祈りが確かに誰かへ届いたことは紛れもない事実であるから。

「…君の前じゃ本当はもっとかっこいい男でいたかったんだけど」
祈り終えた不二はゆっくりと顔を上げて苗字を見る。目は少しも赤くなっていなかったが、小さく鼻を啜っていた。
「見なかったことに…してはくれなさそうだね」
「うん、ごめんね」
「君が謝ることはないよ」
相変わらず穏やかな声で不二が参ったなと言葉を溢す。彼がそうしていることがあまりにも珍しかったものだから、苗字がじっとその様を眺めていると不二は僅かに目線を逸らした。
「幻滅した?」
「何が?」
「僕が君の思っているみたいな、余裕のある男じゃなかったってこと」
「別に…でも不二に余裕がなかったら可愛いだろうなとは思っていたよ」
そう言えば不二はむっと顔を顰めて、一度は苗字に退かされた手を繋ぎなおした。
「君ってなんだか趣味が悪いね」
「なんとでも言いなよ」
開き直ったように名前が言うので不二が声をあげて笑う。

「あはは、おかしいや。そうだ、ね、ケーキでも食べようよ」
さっきまでの彼が嘘のように一通り笑うことにも満足すると、不二は立ち上って苗字の手を引くのだ。
「今?!太るよ?!」
「たまにはいいじゃない、今、君と食べたくなったんだ」
それが駄目なら何かのお祝いにしよう、何も祝うことなど無いのに不二がそう言うものだから苗字は小さくため息をついた。

たぶん愛の多くは沈黙の内に隠されている。きっと彼の素顔を知るにはもう少し時間が必要だった。
だからもう少しお前の隣で辛抱強く待っていてあげよう、そこまで考えて苗字は得意げに鼻を鳴らしながら、不二の手を取って立ち上がったのだ。