だって世界はそうやって出来ていた

生憎と、月が綺麗でどうして愛の告白になるのか、いまいち分からなかった。
何気ない帰り道、ふと立ち止まって花壇の花を愛でるほど感性豊かな少女でもない。
私はあなたの前で誇れるものなんて何一つ持っていないのだけど、例えば今朝、綺麗に焼けたパンを一番にあなたに見せたいと思った。何を見たって君を思い出すのだ。

「不二はそうでもないと思うんだけど」
「そうであってほしい?」
「そうでなくても不二が好きだよ」
「冷たいなあ」
カランコロンと不二の手元のアイスコーヒーが音を立てる。店内に人影は疎らだった。
コップに着いた水滴が流れ落ちてコースターに黒い染みを作っている。気付かぬうちに広がっていたそれは、じんわりと私の心へ侵食する不二とそっくりだ。
真っ黒なアイスコーヒーだって不二が甘いと言えばきっと私には甘く感じられるのだろう。
ああ私ってば一体、いつからこんなに乙女になってしまったのかしら!
「でもたまに自分でもびっくりするくらい不二が好きなんだなって思う時はあるよ」
「へえ、それはどんな時?」
「どんな時だと思う?」
「そうだなあ…今、とか」
「そうだとしたら私って、もう取り返しのつかないところまで来てるね」
「違ったかな」
「残念ながら合ってる」
いつか不二を好きでなくなれば何を見ても彼を思い出せなくなる日は来るのだろうか。それってなんだか気になるようでちょっと怖い。
今の私にとって世の中のありとあらゆるものが不二に到達するのだから、そうじゃない世界なんてまるで世紀末のようじゃないか。
失恋直後の人間がこの世の終わりみたいな顔をしているのも頷ける。
「君はとっても僕のことが好きみたいだけど、僕だって君を好きなことをたまに忘れている時があるんじゃないかな」
「それは例えばどんな時?」
「今、とか」
言葉と共にそっと握られた手を見ながら、その指の僅かな曲線ですら好きだと思ってしまうからやはり私はどうしようもない。
「僕が君を好きなことを忘れられないか不安だったからさ、だからずっと目に見えるところでそれを言いたくて」
そう呟きながら不二は私の左手の薬指をそっと撫でた。たかだか銀色の輪っか一つで人の一生が縛られてたまるものかと思っていたのだけど、なるほど彼の口からでる彼の言葉は私にとって世の中のどんな鎖より恐らく強い。
「忘れてないよ、多分ね」
明日のことは誰にも分からないから明日もあなたのことが好きだとは言えっこないのだけど、多分明日もあなたのことが好きだと人生を賭けて言ってもいいと思うくらい、好きにさせられた結果がこれなのだろう。

いよいよ不二のグラスの中身が空になっていくのを見て私は席を立つ素振りをした。
「どこか行きたいところはある?」
買うべきものは買ったし、当分必要なものもないし。
不二が行きたいって言うんならちょっと遠出をしてもいいかもしれない。立てかけられた伝票に手を伸ばせば一瞬早く不二がそれを取って言った。
「そろそろ帰ろうか。僕たちの家に」