それでも好きだったな、ずっと

心地よい涼しさを纏った風が茹だるような暑さを切り裂いてそっと頬を撫でた。真昼の太陽を反射したコバルトブルーの海岸に人影はない。遠くの空でカモメが悠々とその羽を広げて飛んでいた。

「ここどこだろう」
ゆっくりと車体を道路の脇に停車させながら不二が呟く。車が止まってしまったのならもう涼しい風は入ってこない。苗字はゆっくりと助手席の窓を閉めた。
「ちょっと砂浜に出てみようよ。君も最近あんまり運動してないでしょ?」
言いながら不二がエンジンを切るので苗字も黙ってシートベルトを外す。この男は案外、人の話を聞かないところがあるのだ。
「わ、暑い」
海岸から絶え間なく風が吹いてきているのに頭上を照らす日差しの熱はいともたやすくそれを上回っていく。ベージュ色に煌めく砂浜は直接触れば火傷しそうだ。
日陰の一切ない道を下って浜辺に降りる。波の音は至って穏やかだった。
「綺麗だねここ」
少しも暑さを感じていなさそうな顔で不二が言うのを眺めながら苗字は頷いた。
「そうだね」
本当に綺麗だ。風に揺れる不二の指通りがよさそうな髪から、嗅ぎなれたシャンプーの匂いが漂ってきた。同じものを使っていても、不二が使ったものだけ特別に思えてくるのは何故だろう。
「こんなところがあるなんて知らなかったな。たまには遠出をしてみるのもいいかも」
言いながら不二はしゃがんで足元の砂を弄りだす。すごく熱いよ、と言いながら手を差し伸べてきた。
気持ち程度に、ちょん、と砂に触って、熱い、とオウム返しのような感想を言えば、不二は勝手に満足して視線を砂浜に戻したようだ。
海の上に、海よりもはるかに鮮やかな青空が広がっている。記憶の奥で焼き付けられた青に、彼と付き合いだしたのもこんな夏の日だったと苗字は思い出した。
一体あれから何年になるだろう。不二は同年代の誰よりも落ち着いているようでいて結構子供っぽいところがあるとは、付き合い初めて暫くした頃からなんとなく気が付いた。
立ち上げって波打ち際の方へ歩きはじめる不二の後ろをゆっくりと着いていく。さしずめ貝殻でも拾いに行くんだろう。不二も不二で趣味が悪いのだ。
彼ほどの容姿と才能を持っていれば、もっと見た目が綺麗で、もっと素直な誰かを伴侶に選ぶことも出来たはずだろうに。中学三年生の夏からずっと、彼は苗字だけを見ていた。
これは贅沢な悩みか。私は今でもお前の隣で目覚めたことがまるで夢のようだと思う時がある、とは言わないでおこうか。それも全部ひっくるめてあなたが好きだ、と言えばそれまでではあるが。

「苗字、来年もここに来ようよ」
「そんなにここが気に入ったの?」
「多分そうだと思う」
「なにそれ」
波打ち際に足跡を残しながら不二はじっと湿った砂を見つめていた。やはり貝殻を探しているのだ。もしとびきり綺麗な貝殻が見つかったら、それは明日から彼のお気に入りのサボテンの鉢の隅に飾られることになるだろう。
「僕はさ、自分のことをあまり執着しない性質だと思っていたんだ」
おもむろに口を開いた不二が、よっこらしょ、と言いながら立ち上がる背中を眺めながら、苗字は急にそこへ飛びついて抱きしめたい衝動に駆られたのをぐっと抑え込む。
「そうだね」
ひとり言のような、宙ぶらりんに投げ出された不二の言葉を苗字は掬い取った。
「正直言って君とこんなに長く付き合うとは思ってもみなくて」
「私とは遊びのつもりだったんだ?」
「僕は今も昔も本気だよ」
言いながらこちらを振り返った不二の手には、人差し指の半分くらいの幅の泥のついた白い貝殻が握られていた。どうやら今日の収穫は上々なようだ。
「ねえ見てこれ、綺麗でしょ?」
「綺麗だね」
そう頷いてやれば不二は波打ち際を進んでいって、押し寄せる白波で貝を洗った。
「君には悪いけど、僕はいつか君と別れるんだろうなって思っていたんだ」
「私にそこまでの魅力がないってこと?」
「君に捨てられても僕はそれを追いかけるタイプじゃないってこと」
満足がいくまで洗い終えたのか、不二は貝殻を手の中で遊ばせながらこちらへ戻ってきた。それは思ったよりずっと真っ白な貝殻で、こんな海岸にそんなに綺麗なものが落ちていたのかと苗字は感心してしまう。
不二は貝殻を、苗字にカメラのピントを合わせるように目の前で翳しながら、少し考えるようにしてそれを手渡した。
「あげる」
「いいの?」
「君によく似合っていたからね」
そうやって手渡された真っ白な貝殻をくるくる回して見て、けれどどちらにせよこれは彼のお気に入りのサボテンの隣に並ぶだろうと苗字は思った。いや、そうなることがこの貝殻にとって相応しいのだ。
「それで?」
「うん?」
「話の続き。いつか私たちは別れちゃうってこと?」
貝殻をポケットにしまうこともなんだか躊躇われて、右手に持ったまま話の続きを急かせば不二は、ああ、とさもたった今まで忘れていたように呟いた。
「いや、僕はただそう思うくらいには君とずっと一緒にいたなあ、って思い出していただけだよ」
「ふうん」
不二は例え話をするのが下手である。これは付き合って暫くしてから分かったことだ。

もうそろそろ車に戻ると思われたが、不二は海岸線を沿うように歩いていった。この波打ち際に沿って歩いていけば、いつか知っている場所にも辿り着けるのだろうか。
「君とずっと一緒にいたけど」
何かを思い出すように呟いた不二は、ふとこちらを振り返った。
「気持ちは変わらなかったな。好きだったな、ずっと」
夏の終わりの色を湛えた水面が眩しくて、苗字は思わず目を細める。海も空も、相変わらずの暑さだ。
あの頃とちっとも変わらない顔をした不二に、またこの季節を巡るのなら彼とがいいとつくづく思う。
そこまで考えて苗字は、何年も前の夏も同じことを思っていたような気がした。