不二周助は天才だった。それはもう負け知らずの。
まあ正確に言えば彼は自分が得意とするテニスでかの四天宝寺の聖書に敗れ、部長の手塚国光にはいつまで経っても敵わないと謙遜していたが、それをもってしてでも彼は負け知らずの天才であった。
何より彼は顔がいい。その昔、神様が特大並盛サービスで世の中のありとあらゆる黄金比だとか美しさだとかを、駄菓子の詰め放題のごとくかき集めて完成した顔面が、恐らくこれだ。
この顔で困ったように微笑めば日常トラブルの大抵のことはどうにかなると彼自身は知っていたし、実際そうだった。
何はともあれ不二周助にとって人生で上手くいかないことなんてなかったのだ。気付かぬうちに反抗期に突入していた弟を除いては。あと酸っぱいもの。
「なんで拒むのさ」
「なんで拒まれないと思ったのよ」
金曜日の午後四時、部活の始まりを告げるチャイムが鳴るまであと十分といったところだろうか。夕暮れの教室で不二とその彼女は見つめ合っていた。
否、見つめ合っていた、は少しロマンティックがすぎるか。言い方を変えればお互いの腕を掴み合ったまま譲らなかった。もっと正確に言うと取っ組み合っていた。
「僕あと十分で部活なんだよね。遅れたら手塚に校庭百周させられちゃう」
「いいよ!行ってきていいよ!」
「君にキスしたら行くから早くその手を退かしてほしいんだけど」
「えっ?!これ私が悪いの?!」
一体その細い身体のどこからそんな力が出るのか、彼女も不二もお互いを睨みあったまま一歩も引かなかった。
ここで状況的に不利なのは不二の方である。
如何せん、あと十分で部活が始まるという時間制限に加えて彼女は帰宅部だ。そして何より背中が暑い。本当に暑い。ただでさえ夕陽というものは網膜に恨みでもあるのかと疑いたくなるほど鋭くて熱いのだが、不二は今その夕陽からの刺客を背中の全部で受けていた。
更に追い打ちをかけるように不二の制服は黒色だ。もう刺客を一身に吸収する黒である。
わが校の学ランがなぜこんなにも黒いのかと学園長に小一時間は問い詰めたい黒さである。あなたは斜陽に背中を焼かれたことがあるのかと。小学生の自由研究の虫眼鏡で焼かれるあの黒い台紙だって、ここまで黒くないだろう。知らんけど。
「僕たち付き合ってるよね?」
「これで付き合ってなかったら相当ヤバいよ」
「いつになったら君にキスできるの?」
「あと五年待ってください、心の準備とかいろいろあるんで…」
「そんなに待ったらおじいちゃんになっちゃう」
「それくらいでおじいちゃんになられても困る」
キスを渋る彼女に、不二は腕を掴みはすれどそれ以上のことはしなかった。
その気になれば同級生の女の子一人の腕力程度、どうとでもすることが出来たのだけど、何よりも不二は紳士であったのだ。
本気で拒まれれば無理強いはしない。例え時間がなかったとしても、例え背中がキャンプファイヤーになったとしても、例えおじいちゃんになったとしてもだ。
「不二さあ…欲求不満なら他の女の子にキスすればいいのに」
「それ本気?」
「すみません冗談です」
冗談を言うみたいに軽口を叩いた彼女を凄めば、うっ、と引き攣った顔をして黙り込んだ。
今の不二の顔をもしも教室の前を通りかかっていた誰かが目撃しようものなら恐らく一度や二度は闇に葬られてもおかしくない顔だ。というかもう葬った後の顔である。
諦めたかのように不二は小さなため息を吐いて彼女から手を離す。気付かれないようにそっと自分の背中に手を回して焼けていないか確認するのだが、あまりの熱さに思わず手を引っ込めた。これは多分焼けている。
焼けているというかもう焼け野原くらいになっている。本能寺ですらここまで焼けていないだろうに。
「君が嫌だと言うなら無理強いはしないよ。五年は待てないかもしれないけど心の準備ができたら言ってほしい」
「出来たら言う」
「行けたら行くみたいな言い方だね」
「五年くらい遅刻する」
「それはもう僕が迎えに行った方がはやいね」
こういった恋愛沙汰に疎い彼女はいつもこうだ。いい雰囲気になったところをのらりくらりと躱されては結局、何もせずに終わることが多い。
それでも彼女が好きなのだから仕方がない、と不二が降参したような顔をすれば彼女はここぞとばかりに笑顔になった。
「そんなに喜ばれると傷つくな」
「ごめんね」
少しも悪いとは思っていない口ぶりで彼女は言って帰り支度を始める。キスが出来るのは一体いつになるのやら。少なくとも本当におじいちゃんになってしまう前には必ずしてやろうと、不二は固く心に決意するのだ。
「不二」
「うん?」
名前を呼ばれておもむろに振り向いた不二の頬に、柔らかい何かが当たる。それが彼女の唇だと理解するまで、多少の時間を要した。
「口にするのは恥ずかしいから今は頬っぺだけね!」
「頬っぺ……」
突然の出来事に、捨て台詞でも言うみたいに教室から逃げ去った彼女を、まだ柔らかい感触の残る頬にそっと触れながら、不二はただ呆然と眺めるしかなかった。
「……頬っぺ」
繰り返すように呟きながら不二は驚きの事実を発見したのだ。
何を隠そう、彼は家族以外のキスをするのが初めてだった。そう、天才不二周助は生粋のチェリーボーイだったのである。
ロックンロールのドラムのように荒れ狂う心臓の音を聞きながら不二はのろのろと部活へ行く支度を始めた。自分は今どんな顔をしているのだろうか。明日からは手鏡を常備しようと不二は頭のメモに書き留める。
「本当にあついや…」
思わず床に落としてしまったジャージを拾いながら、誰もいなくなった教室で天才不二周助は困り果てたようにそう呟いたのだ。