思ったよりも大きな音を立ててしまった、と後悔した。
トイレの白い便器が冷たい。いくら待っても頭の内側から殴るような鈍い痛みが続くだけで、胃の中奥に染み込んだアルコールが出てくる気配はないようだ。
私は諦めて冷蔵庫から冷たいお茶を出す。それを飲むことすら少し気持ち悪いのだけど、倒れ掛かるようにソファに身体を預けていれば、寝室の方から小さな音が聞こえてくる。
こんな姿は見られたくないから出来れば眠っていてくれないかな、なんて思いもしたが、私の気をまるで知らないみたいに不二はそっとリビングに顔を出して、静かに隣へ腰を下ろした。
そして私の状態を察したのか、薄暗い部屋で少しだけ私の顔を覗き込んで、無言のままに背中をさすり始めるのだ。
不二の手が一定の速さで私の背中を往復するのを、私はただ死にそうな顔をしてぼんやりと視界の端で眺めていた。
「…起こしちゃった?」
「起きちゃった」
不二のいつもと変わらぬ穏やかな声が一層私を卑屈にさせる。本当はこんな惨めな姿を見られたくなかった。
深夜三時の、暗い部屋の隅で意味もなく漠然とした不安に駆られて、まるで自分こそが悲劇のヒロインだとでも言いたげな恋人は、きっとあなたに相応しくない。
それでもそんな人間に対しても変わらず優しくするから、私はその残酷さすら好きだった。
「ごめんね」
夜中に起こしてしまって。こんな人間が恋人であなたもさぞかし大変だろう。
そんなことを言おうとして私ははたと口を噤んだ。最初に断っておくけれどここから先の話で私は何一つ悪くない。不二も悪くない。悪いとすればそれは世界か、もしくはこの夜だけだ。
「こんなに面倒くさい恋人でごめん」
暗い部屋の中で冷蔵庫の扉に着いた冷たい明かりだけが異様に明るかった。
広くもない部屋の中で、自分の声だけが一際大きく反響しているようだ。
「でも私、別に不二に好かれるために生きてるわけじゃないの」
自分でもなぜこんなことを口走ったのか分からない。私が不二を好きなことも、彼に好かれて嬉しかったことも全てほんとうのことだ。
「だからもう付き合いきれないって思ったらすぐに別れていいから」
「どうして急にそんな話になるの」
「夜だからかな」
どうしても隠していた自分が暴かれてしまう時間だ。ずっとあなたの前では見せたくなかった自分の脆い姿を、夜はいともたやすく引きずり出す。
「なら僕はもう君を夜更かしさせてあげられないよ」
少しだけ不二が怖い顔でそう言うものだから私は冗談だって、と呟いた。どうやら往生際の悪いことに、彼はまだ私を好きらしい。
「私、たぶん不二が私のこと好きじゃなくても不二のことが好きなんだと思うの」
だって私が不二を初めて好きだと思った時、不二は私のことなんか別に好きじゃなかっただろうに。
「テニスばかり見てる不二が好きだよ」
「うん、ありがとう」
そうやって穏やかに私の気持ちを受け止めるから、私はつくづく彼には私よりももっといい相手がいる、と思わされてしまうのだ。だけどそれだけではどうにも自分から彼を手放せやしないのも、恋の悪いところだろう。
「不二がテニスだけ見ていて、私のことなんてちっとも見ていなくても、私は勝手に不二の後を追いかけていくから振り返らないでいいんだよ」
だからこんな夜にあなたは私の相手をする必要もないのだよ。
ちょっとだけ突き放すように言えば不二はむっと顔を顰めた。
「それって自分勝手じゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。君だけが好きなように僕を追いかける体で話されてもね、僕が君を追いかけたくなったらどうすればいいのさ」
その言葉に私は思わず黙り込む。どうするって、そんなの分からない。私はあなたの意思決定権など何一つ、持っていいような人間ではなかった。
「…好きにしなよ」
「うん、じゃあ好きにさせてもらおうかな」
半分投げやりで吐き出された私の言葉に満足して不二は静かにソファから立ち上がる。
そうして不二はゆっくりと私を抱え上げた。
「僕はね、ほんとうは今日、君と一緒に眠りたかったんだ」
飲み会で遅くなるとは聞いたけど、こんなに遅くなるなんて聞いてないよ。
そう言って心なしか上機嫌に寝室のベッドへ運んだかと思うと、私に柔らかなブランケットを被せた。
「ねえ不二」
「なあに」
別に、別にあなたに好かれていなくても私の気持ちは変わらないのだけど。
「私のこと、嫌になった?」
それでもあなたが私を好きでいてくれた方が嬉しい、と思って、だから私は少しでもその時間が長引くことを日々願うばかりだ。
「全然。全く困ったものだよね」
いつもと変わらぬ穏やかな声で不二がそう言うのを、彼も彼で大概だな、などと私は心の中でこっそり呆れてしまう。
それでも好きならもう仕方がないことなのだけど、ほんとうに恋とは全く困ったものである。