私のテニスの王子様

なんかもっと男っぽい人が好きなんだと思ってた。まあ今でもそう思っているのだけど、どうやら好みのタイプと実際に好きな人は違うらしい。

さらりと風に靡く指通りのよさそうな茶色の髪。中性的な顔立ちにスポーツウエアの袖から伸びる脚が白い。背中に背負っているのはラケットバッグだろうか。
新宿の雑踏の中を静かに通り過ぎるその男の子を見た瞬間、何の根拠もなく好きだと思った。
一夜の雷鳴の如し、とはまさにこのことだ。
運命なんて言葉が生温いと感じてしまうくらい、熱烈に好きだと確信させられた。
もはやこれから先、彼以外の誰を好きになれようか。

「話聞いてんの?」
視界の端からその男の子が完全に消え去ったのを見届けて私は声のする方を振り返った。
声の主、派手に髪を金色に脱色した彼女はこれから仕事に行くらしい。ネオンに煌めく新宿の街を眺めなら、私は曖昧に頷くだけである。
何を隠そう、私の思考は一度だけすれ違ったその男に一瞬で全て奪い取られたというわけだ。
「あのさあ…この近くにテニスコートってあったっけ?」
「はあ?テニスコート?」
怪訝そうな声を聞き流して私はスマホで地図を開く。検索をかければ数件ヒットした。
男の子が歩いてきた方向を考えながら絞っていけば該当する場所が一か所、地図上に表示される。
「なに?あんたテニスすんの?」
「いや、するっていうか、多分してるんだろうなっていうか…」
絵本の中の王子様は豪華なお城の中で煌びやかな暮らしをしていると思ったのだけど。
「王子様って、テニスをしていたのね」

      

腐っても女子大生だ。気になった相手は名前を知るよりインスタのアカウントを見つける方がずっと早い。
カーテンの向こうで次第にネオンの明かりが眩しくなっていく中、私は朝食代わりのサラダチキンを片手にスマホの画面をスクロールしている。大学二年生の秋、私の生活サイクルは完全にぶっ壊れていた。
大抵、私を起こすのはカーテンから差し込む朝日ではなく壁越しに聞こえる喧騒だ。どっぷりと夜に浸かった新宿の街は昼間かと疑うほど騒がしい。
十八歳でみんなと同じように大学へ進学した私はものの一年で落ちぶれた。
大学生活が上手くいかなかったわけじゃない。友達はいたし、それなりの成績もあった。それでも私は漠然と、なんとなく嫌だ、という気持ちだけで大学に行くのをやめてしまったのだ。
前置きが長すぎた。
何はともあれ私は驚異のスピードですれ違った男の子の身元を突き止めたのである。
それらしきテニススクールのホームページに貼られてある写真に、所属選手のブログを辿って、それから後のことは言わないでおこう。
「ふじ、しゅうすけ」
彼の名前はそう読むらしい。
それと思しきインスタを見つけたのだけど驚くほどの更新頻度の低さだった。
他はといえば、今は新宿にあるテニススクールに在籍しており、私と同い年で今も東京の大学に通っていることか。もしかしたら同じ大学かもしれないと思いもしたけれど、現実は甘くはなかった。
「そろそろかな」
スマホで時間を確認して私はジャンパーを羽織る。
ついこの前まで夏だと思っていたのだけど、あっという間に季節は移り変わっていく。外に出てみれば夜はすっかりその本領を発揮していた。
軽快な足取りで家の前の歓楽街を横目に駅の地下道を潜って西口へ出る。ここ最近は目的もない夜更かしが続いていたから、今日はちょっと新鮮だ。
スマホに内蔵された地図アプリが目的のテニススクールの近くに到着したことを知らせるので私は立ち止まった。薄暗い夜の中、道路の向かいに一際明るく佇むコンビニを見つけて私は迷わず中へ入る。
テニススクールから駅へ向かう人間なら大方この前を通るだろうという推察だ。
午後十一時、子供と大人を分ける夜の時間、果たして私の心を一瞬にして奪い取ったその男は見事に再び私の前に現れたのである。
昨日と同じウェアに、同じラケットバッグ、喉が渇いたのか彼はコンビニでお茶を購入していた。
彼を前に口の中が急速に乾いていくのが分かる。心臓の音が耳元で爆発するように鳴り響いて止まない。
だけど私はここで引くわけにはいかないのだ。
「こんばんは。ちょっといいかな」
もっと他に上手な声のかけ方もあっただろうに。
あいにく私はその言葉しか知らなかったのだけど、声に呼び止められておもむろにこちらを振り向いた彼の瞳が、深い夜の色を溶かし込んだ静かな青だったことを、私はこの先きっと忘れることはない。
「…僕のことかな?」
不思議そうにこちらを見る彼に私は、あくまでも落ち着きを払った声で言うのだ。
「かっこいいねお兄さん。てかLINEやってる?」
このセリフ、一回言ってみたかったんだよね。

     

結論から言おうか。
LINEはやってるけど交換してくれなかった。
なんでも不二の連絡先はそんなに安くないらしい。そりゃあそうだ、そうでないと困る。
それでも熱心なアタックのおかげで私は不二にとって「夜にいつもこのコンビニにいる不思議な女」という認識をされたようだ。

「それでその手塚って人はどうしたの?」
「海より山がいいって話になってね。だから僕たち結局、山に登ることになったんだ」
「そんな真冬に?」
「あれは本当に寒かったなあ、一時はどうなるかと思ったけど結構楽しかったよ」
懐かしむように昔話をする不二に私はテンポの良い相槌を打った。この声が好きだ。
穏やかに流れるような不二の声はゆっくりと私の耳の奥へ染みていく。
それはまるで真夜中の静かなゆりかごに揺られているみたいだった。
「あ、そろそろ電車の時間だ」
ふと思い出したように不二が携帯を見ればそれは私たちの時間の終わりを意味した。
「もうそんな時間か、じゃあまたね不二」
「うん、じゃあまた。おやすみ」
そう言って駅の方へ向かっていく不二の背中を私は見送る。
健気なコンビニ通いも一週間を過ぎれば私たちは一日五分、コンビニの前で軽い世間話を交わすような仲になったというわけだ。
またね、という言葉を噛み締めながら明日も不二と話せることを心待ちにしているなんて、恋ってやつは本当に人を変える。
彼と話す口実のために買ったカフェオレを飲み干して私はゆっくりとコンビニを出た。今までも夜を好きだったのだけど、今はもっと夜が好きだ。
そう思いながら酔っ払いのサラリーマンとすれ違うのを、よい夜をと心の中で手を振って私は軽快な足取りで夜更かしの続きをしに行くのだ。

      

とは言っても学生の本業は勉強である。
確かに私の生活サイクルは破綻していたし成績もボロボロだったけれど、まだ大学生である身として単位だけは何としてでも取らなければいけない。
大学の中でもとりわけ優しい教授に、いよいよ危ないと言われたのがつい先日。これには私も危機感を感じて真面目に講義に出席せざるを得なかった。
けれど真面目に講義を受けてこなかった人間に単位は容赦しない。私の時間割は見事に一限から埋まっていた。
つまり単位か夜更かしか、どちらを取るか、究極の二択に迫られたのである。
もっと早くからちゃんと講義に出ていればよかったと思う反面、ちゃんと夜更かしをしなかったら私は彼に出会うことなく人生を終えていたのかもしれない、とも思う。
「どうかしたの?」
そう考えて黙った私を不二は不思議そうに覗き込んだ。
大学が忙しくなるから暫く会えなくなる、なんて、まるで会うことが決まりになっているみたいでちょっと言いづらい。
言ってそのまま二度と会えなくなるかもしれないと思うと私はどうしてもそのことを言い出せなかった。
「別に大したことじゃないよ。それより不二、テニススクールにはどれくらい通ってるの?」
この頃になれば私は彼が本格的にテニスをしていることも、日本代表に選ばれた過去を持つことも知っていた。
「今のテニススクールには大学に入ってからかな。中学も高校も部活でやっていたからね」
「へえ、やっぱり強豪校?」
「強豪っていうか、全国大会で優勝するくらいかな」
「それって一番強いじゃん!」
もしかしたら彼は私が思うよりずっとすごい人なのかもしれない。
そう考えたら今まで気軽に話せていたこの距離もなんだか遠くなってしまいそうで、私はそこで考えるのをやめた。
「今でも大会とかに出たりしてるの?」
「たまにね」
テニスの話をする不二に私は分かったような顔で全然分かっていない相槌を打つ。私もテニスが気になるから今度教えてよ、とは何故か言えないでいた。
彼にとって私との会話は一日に五分しかないからこそ、こうして毎日顔を合わせてくれているわけで、それが昼間でも会えてしまうような関係であれば、もしかしたらこんな五分の夜更かしですら断られてしまうかもしれないと思わずにはいられないのだ。
「電車の時間だ」
そう不二が言うから私は今日もその五分が終わることに気が付く。
また明日、といつものように手を振った不二に、私はその言葉の重さを知った。



何かに熱中しているとき、時間は驚くほどあっという間に過ぎるものだ。
不二と会わなくなってから三日だろうと思ってカレンダーを遡ると彼と最後に会った日から優に七日が過ぎていた。
何も言わずにいなくなってしまったのを申し訳なく思う反面、そう思う理由がないことに気が付いて私は小さく顔を顰める。
恋の終わりが人生の終わり、なんて言う人もいるけれど、私は一週間不二に会わなくてもちゃんと生きていた。
会えるならば会いたいと思うけれど、きっとこれから先二度と会えなくたって私は何食わぬ顔をして不二以外の誰かと飄々と生きていくんだろう。
そんな人生ってなんだかとても嫌だ。
「たしか試合するって言ってたよなあ…」
思い出して検索をかければこのご時世、試合の場所も日程もいともたやすく探り当てることができた。
夜更かしはできなくたって昼間なら、彼の姿を遠くから見ることくらいはできるはずだ。
なんとなく彼のことをすごい人だとは思っていたのだけど、ホームページに写る不二の試合のそのギャラリーの多さに私は思わず二度見した。多い。観客が多い。
大学でテニスをする一般人の試合にいていい数のギャラリーではない。試合の動画なんかを再生すれば聞こえてくるのは歓声というより黄色い声だ。
「一回だけ…」
一回だけ内緒で試合を見よう。昼間の彼をこの目で見てみたい。
そう思って嬉々として試合会場を確認した私はふと手を止めた。
一回だけ見て、どうするんだろうか。不二の試合を見たことを誰にも言わずにこっそりと自分の胸のうちに秘めておくんだろうか。
不二にもそのことを言わずに、私は今まで通り五分の夜更かしでしかあれない存在で、いつか恋人ができたと嬉しそうに言う彼を私は夜の向こうから眺めることしか出来なくなるんだろうか。
そんなバッドエンドは嫌いだ。
私たちは魔法使いじゃないし、世界はそんなに上手くできていない。
私はきっと少女漫画のヒロインではないけれど、だからこそ私は世界の中心のどこかにいるヒロインに対して徹底的に反抗しなければならない。
だからその日、私は再び夜更かしを始めた。

     

一週間ぶりに足を運んだ深夜のコンビニは初めて来た場所のようで落ち着かない。見慣れていたはずの店員の顔も懐かしい気持ちがする。
「あれ、久しぶりだね」
することもなく棚に陳列されてる雑誌を眺めていた私に声をかけたのは不二だった。
「久しぶり、元気にしてた?」
「まあそこそこね。君の方は?」
「可もなく不可もなく、ってところかな」
嘘だ。本当はずっと不可ってところだったのに、不二を前にすると別人になってしまうらしい。
私の返答をそのまま受け取った不二は、やはりいつものように当たり障りのない会話を始めた。それは最近あったくだらないことだったり、テニススクールの話だったりする。
「そういえば不二、近いうちに試合とかないの?」
自然に会話を切り出せただろうか。
不二の試合が近いことはもうとっくに知っていたのだが、もしも、無い、と言われてしまったらそれはまるで完全に彼に拒絶されたように思えて怖かった。
「試合?ああ来週にあるけど、どうして?」
「いや、なんとなく気になって…」
不二の返事にそれだけで安心して泣き出してしまいそうな私がいる。けれどここで満足してしまっては私はきっと未来永劫、ヒロインには勝てっこないのだ。
「あのさあ、その試合、み、観に行ってもいいかな?」
震える声をなんとか誤魔化してそう聞けば不二は驚いたような顔をした。次に彼の口が開くまでのほんの数秒が何時間にも感じられて、気が遠くなりそうだった。
「それはいいけど…君は明日もここへ来るの?」
「はっ?」
予想していたありとあらゆる回答を不二が飛び越えていくものだから私は思わず間抜けな声を出す。よく分からないまま、もし迷惑だったらどうしよう、など考えながら私は曖昧に首を縦に振った。
「そう、ならいいんだけど。ああ気にしないで」
全く気にしないでいるのも無理があるだろう。私の言葉を制するように不二は携帯に目をやっていつもの台詞を言うのだ。
「そろそろ電車の時間だ」
「そう…」
「じゃあまた明日」
「また明日」
明日も来ると言ってしまった以上、来ないわけにはいかない。
なんだか釈然としないまま、また明日、という言葉のもどかしさを口の中で転がしては、私は全然減っていないカフェオレの残りを啜るしかなかった。
「…もっと甘いの買っとけばよかったな」

      

正直言って不二の考えることがよく分からない。
また明日、という言葉を使うたび、また明日も私は彼の五分間の夜更かしでしかないという事実が重くのしかかる。
夜の十一時、相変わらず私は例のコンビニに通っていた。
「わ、本当に来た」
「来てほしくなかった?」
「まさか。でもほら、君って一時期ぱったり来なくなった時があったから」
なんだ、どうやら不二も少しはこの夜更かしを楽しんでくれているらしい。
今夜も今夜とてくだらない会話に花を咲かせていれば不二はおもむろポケットの中を漁り始める。
「昨日、僕の試合を観に行きたいって言っていたから、これ」
不二が差し出したのは青い、チケットだ。
「これは…」
「君に渡しそびれたものだよ」
だって急に来なくなっちゃったからさ、と不二が付け加えて言うのを聞きながら、私はまだ状況を受け止めきれていない頭で、それでも差し出されたチケットだけはしっかりと受け取った。
チケットに印刷された見覚えのある試合会場の名前に、私はまるで雲の上でふわふわ浮いているみたいに浮足立つ。
そうして口を開いたきり言葉を失う私を不二は楽しそうに眺めながら、揶揄うみたいに、少しの恥かしさを隠したような顔で言うのだ。
「可愛いねお姉さん。LINEはやってるかな?」
その時の不二の表情に、私は酷く見覚えがあった。
初めて不二に声をかけたあの日、私もきっとこんな顔をしていたに違いない。


それから結局どうなったのだろう。
不二に手渡されたチケットの記憶だけがはっきりと残っていて、その前後のことはぼんやりと霧がかかったみたいに思い出せない。
仕方がないので諦めて寝返りを打つと、嗅ぎなれた洗剤の匂いが真っ白なシーツから香ってくるものだから全部どうでもよくなってしまう。
カーテンが意味を為さないほどの明るさで陽光が部屋に差し込むのを眺めながら、少し夜更かしをしすぎてしまったなと心の中で苦笑した。
ドアの開け放たれた寝室へキッチンから遅めの朝食の匂いが漂ってくるにつれて、控えめな足音が近づいてきたかと思えば、ここ数年、すっかり聞きなれてしまった穏やかな声が私の名前を呼んだ。
だけど深い夜の底から女の子を連れ出そうっていうんなら当然、目覚めのキスくらい必要だろうに。
眉を顰めてみせると、呆れたようなため息と一緒に軽いキスが降ってきた。
「そろそろご飯ができるから起きておいで。ああ今日の僕の試合のチケットはここに置いておくね」
どうやらあれから彼が試合のたびにわざわざ私へチケットを贈る癖は治っていないらしい。
相変わらず綺麗な茶色の髪と、あの日の夜をそのまま閉じ込めたような青色の瞳がそう急かすものだから、私は観念してベッドから身体を起こすのだ。
やっぱり私の王子様はあなたしかいない。