「私に触れたら火傷するわよ」
死ぬまでに一度は言ってみたかったセリフの項目に、頭の中で丁寧に線を引いていく。目の前で茶色い髪を風に揺らせる不二が、細い瞳をぱちくりとさせた。
「なにそれ」
「熱くてさあ」
足元を見下ろしてそう言うと不二は、ああ、と頷いた。丸焼きにされたくなければ、昼間の海岸は裸足で踏み入るものじゃない。夏ならなおさらだ。
直射日光に晒され続けられた砂浜の上で、見渡す限りの青が広がっている。水平線の上にぽつりと浮かんだ入道雲は、なんだか夏の支配者のような顔をしていた。
「写真で見るぶんには綺麗なんだけどね」
顔の前でカメラを構えるポーズをして不二が言う。顔の前に構えようと上げられた不二の手が、微かに苗字の腕に触れたけれど、苗字は何も言わなかった。
夏期講習の最終日、いつもより浮足立った雰囲気に背中を押されて、苗字は気が付けば密かに好意を抱いているクラスメイトの不二と海まで来ていた。
つま先のすぐ前で押し寄せる波は、まるで立ち入り禁止のロープみたいだ。これ以上先には進めない。
「冬ならちょっと寒いけど、熱くて痛いってことはないだろうね。次は冬…いや、秋にまた来ようか」
社交辞令かそうでないか、見分けのつかないような声色で不二が話している横で、苗字は曖昧な相槌を打って返す。足元から立ち込める熱気のせいか、思考が曖昧だ。
それでもいつもは不特定多数に向けられる不二の声と視線が、今は全て自分のものだと思うと自然と口角が緩む。
この声が好きだ、たとえこの先ずっと恋人にはなれなかったとしても。
「君が言っていた私に触れたら火傷するわよ、ってさ、恋は火遊びに例えられることもあったね」
穏やかな風が、他の男の子より少し長い不二の髪を一房攫って舞い上がらせる。彼が本当に火遊びをするとして、その恋は間違いなく一世一代のロマンスだろう。
「不二って火遊びしなさそう」
「そう?僕は結構、火遊びするタイプだよ」
「嘘だあ」
乱れた髪を手櫛で直そうとした不二の腕と、手が触れる。誤魔化しが効かないほどはっきりと動きを止めた不二は、苗字を一瞥して何事もなかったように前を向きなおした。
「ごめんね」
これは恐らく触れた手に対する謝罪である。今日の不二がいつもより近いと感じるのは気のせいか。彼はいつも、皆より一歩引いた場所に立っていたと思うから。
二度も手が触れ合う距離で並んでいるのに、不二は一歩でもそこから離れようとする気配がない。二度あることは三度ある、もう一度不二の手に触れる瞬間はそう遠くないだろう。
「不二、今日はなんか近くない?」
「えっ」
三度目で己惚れてしまわぬよう先回りをしたはずが、不意を突かれた声で不二の肩が跳ねた。
勢いよく苗字を振り返った不二の顔が思うより近くて、苗字は小さく息を飲む。一息、その間だけは確かに世界の時間は止まっていた。
「危ない危ない」
我に返った顔で不二は言って、苗字の傍から一歩飛び退くように離れた。右足で不時着した砂浜は柔らかくて、不二の靴を沈み込ませる。咄嗟のことで体幹を崩した不二の腕を、苗字は半分の反射神経と半分の下心を持ってぐっと引き寄せた。
重力に逆らって二人の鼻先が近付く。キスをする一瞬手前で今度こそ世界はわざと静止された。
「…これ以上近付いたら好きになっちゃうよ」
僕って結構めんどくさい男なんだ。冗談と本気の境目で蜃気楼のように不二は笑ってみせる。その後ろでコバルトブルーの海が静かに真昼の太陽を反射して、苗字は目を細めた。
行き場をなくした八月の熱気が肺の中で充満している。どうせ、どこまで行っても熱くて敵わない。
「火傷、してよ」
ここで己惚れなければ一体どこで己惚れろというのか。不二は腕を掴んでいた苗字の手を優しく解いて、ゆっくりと自分の指に絡ませながら呟いた。
「僕は忠告したからね」