世界の終わりのような瞬間に

足元からぐらり、と世界が揺らめいて、あかん、と白石は直感で思った。
手に纏わりついて離れない粘着質の黒ずんだ泥のような、それが自分のものでないと思いたいような。
いろんなものが混ざって正体の見分けもつかないような、どろっ、としたような気持ちの塊が喉のすぐそこまで来ていた。言葉と気持ちが喉元で停滞する。
これは、吐いてはいけないものだ。両手に抱えて持っていると、悟られてはいけないものだ。

「なあ」
一瞬躊躇って、音だけの声を出せば苗字はこちらを振り向いた。僅かな悪足掻きでもするように名前は呼ばなかったのに、振り向いてくれなくてもよかったのに、けれど確かに交わった視線を今更どうやって外すのか、いい言い訳が白石には分からなかった。
三人は余裕で座れるような、淡いベージュ色のソファの真ん中にもたれかかりながら、その隣に、と苗字にジェスチャーをする。
苗字は朝食に使った食器の、最後の一枚を洗い終えていた。
「なにもせんでええから、ちょっとここにいてくれへん?」
あくまでも選択肢を与えて、どこまでもいつも通りの声で、決して悟られないように。頭上のファンが穏やかに回っている。
「ん」
なんということはないように、手を拭いて苗字はその指定地にすっ、と身体を滑り込ませて、ごろん、と白石の膝の上に頭をのせて横になった。白石の言うことなんて殆どまともに聞いていないけれど、今日はそういう気分だったからここで昼寝でもしよう、とでも思っている猫のようだ。
いっそ、猫であればこんなに思い悩むことはなかったのだろうか。
猫ではない指は白石の頬を撫でる。つつく。揉む。引っ張る。白石はそれをただ他人事のように眺めているだけだった。

「ねえ白石」
明らかに自分の名前を呼ばれて、白石は思わず身体を強張らせた。
「なんや?」
白石の手ではなく、少し開けられたベランダからカーテンの隙間を縫って入ってきた風が苗字の頬を撫でる。
「今日は天気がいいね」
白石を一瞥することもなく、ぼんやりとベランダ近くの天井を眺めて苗字が言った。春が終わる。これから夏の鋭さを増してくるであろう陽光に、白石は目を細めた。
「堪忍な」
呟けば苗字が笑って、眩しいのが苦手なの、と言うものだから、その口角が下がるのを見たくなくて、曖昧に笑って誤魔化す。
苗字の髪がなんの抵抗もなく白石の指の間を通った。
シンクで洗い終わったばかりの皿から水滴の垂れる音がする。窓の外、遠くから子供のはしゃぐ声が聞こえた。
この時間がどこまでも穏やかに流れていく美しさに、きっと世界の終わりすら静かに息を飲んでその手を止めるだろう。