香りの話

(※失恋の話です)


幸村精市は煙草を吸わなかった。
香水も付けない。微かに漂う柔軟剤の香りは穏やかな春の日のようだったけれど、そのどれだって記憶に深く爪痕を残すような、鼻の奥について離れない香りを彼は一度だって纏ってはくれなかった。
香りは人が最後に忘れるものだ。姿を忘れ、声を忘れ、その人の体温を忘れてなお、全てを忘れたころに街中でふと何の前触れもなく衝突するのが記憶の底にこびり付いた香りだ。
お前は昔から目が離せないのだ、と言った彼はそれでも結局は私から目を離してしまった。
恋をするのに時間の長さを語るのはナンセンスである。ここはハッピーエンドの小説の中ではない。どれだけ好きであったとしても、ある日どうしたって敵わない誰かがひょいと横から現れて、積み上げた恋を木端微塵に崩し去っていくという可能性を、私たちは常に考えていなければならないのだ。
煙草は辞めたほうがいいと言った彼の言う通り、副流煙は穏やかに私の肺を蝕んでいく。一呼吸ごとに淀んだ煙が身体の中を汚していくのが、緩慢的な自殺をしているようで私は好きではなかった。
しかしそうだとしても、指の先まで染みついた私の煙草の香りに触れるたび、顔を顰める彼の記憶にこの香りが染みついていると思うと、どうにも私はこれを吸うのを辞められないでいる。

ああどうかあわよくば、息の根が止まる前にあの子の手を振り払って、私の元へ飛んできてはくれないだろうか。