ドアが開くと同時に、付けられた鈴の音が店内に響いて本から視線を上げた。 「いらっしゃいませ」 「どーも。…あららら、悪い噂を聞いて来てみたんだが、この様子だとどうやら本当らしい」 店の看板は下げられ、内装も最低限必要なものを残し、あとは布で覆っていた。 それを見て目を閉じた男性の表情はあまり変わらなかったが、どこか寂しい雰囲気をまとっているようにわたしは思った。 「よろしければ、こちらにどうぞ。少しばかりですが、せっかく足を運んでくださったおもてなしをさせてください」 やってきたのはかなりの長身の男性だった。 白いスーツベストを着て、上着は腕にかけられている。額の辺りにはなぜかアイマスクのようなものをつけている。それから、かなり強そうだ。まあ、そんなことは今関係ない。お父さんの話を聞きつけて駆けつけてくれた、ということは、おそらくお父さんと懇意にしてくださっていたお客様なのだろう。 わたしはこうして、お父さんのお客さんが訪ねてくるたび、最後のおもてなしと称し、わたしが淹れたコーヒーと、お父さんが唯一わたしにレシピを教えてくれていたチーズケーキを用意し、振舞っていた。お父さんほど上手くは淹れられないけれど、お父さんが一番好きなんだと言って店に常備していた豆で、ひきたてのコーヒーを淹れる。それがお父さんの大事な大事なお客様にできる、わたしの唯一で、最後のおもてなしだった。 カウンターに腰掛けた男性に、少々お待ちくださいと伝え、準備を始めた。 「お嬢ちゃんは、マスターの娘さんか?」 「はい。ヨウ、と申します」 「随分としっかりした娘さんがいたもんだ。ヨウちゃんは、こうしていつも、誰かが来るのを待ってんのかい?」 「はい。出かけることもありますので、必ずではないのですが、しばらくの間はできるだけいるようにしています。それが、父を想って訪ねてくださったお客様への、わたしができる唯一のことだと思いますので」 知って訪ねたお客様へは、その知らせが本当であったということを、知らずに訪れたお客様へは、何があったのかということを、わたしの淹れる最後のコーヒーと共に知らせてきた。今までの、感謝の気持ちを込めて。 その折、わたしの知らないお父さんのマスターとしての姿を懐かしそうに教えてくれたり、ただ何も聞かずにコーヒーをすする人がいたりと様々だったが、わたしはこうしたことを間違っていなかったと思っている。 わたしの大好きだったお父さんは、間違いなく、これだけのお客様に愛されるマスターだったと知ることができたから。それだけで、お父さんの弔いになるような気がした。 「どうしてこんなことになったか、聞いてもいいか?」 「…父と、コーヒー豆の買い入れを兼ねた小旅行に出ていました。その帰り、乗せてもらっていた商戦が海賊に襲われました」 「そうか」 そこまで言えば伝わったのか、それ以上のことは聞かれなかった。 コーヒーを淹れ終え、差し出した。 「どうぞ。父ほど上手くはありませんが」 「あァ、有難く」 「それから、チーズケーキも。お嫌いでなければ」 そう言って事前に用意していたチーズケーキも出した。このチーズケーキは、お父さんの一番好きなケーキで、レシピはお母さんが考案したものだと聞いていた。そのせいか、お父さんはこのチーズケーキのレシピだけは、わたしにも教えてくれていたのだ。 黙ってコーヒーを飲んだ男性は、ポツリとこぼした。 「うまい」 「ありがとうございます」 社交辞令だろうとなんだろうと、この場での言葉は素直に受け取ることにしている。 その言葉や想いのすべてが、お客様のこの店への愛だと思うから。 「おれァ、あいつのいる、この店が好きだった。立場もなにも、ここでは関係なかった。ただの店主とただの客。それが、おれには最高に居心地が良かった」 わたしを見ているはずのお客様の目は、わたしを通して、お父さんを見ているように思えた。 彼もやはり、この店とお父さんを、愛してくれていた一人なんだ。 「…はい、ありがとうございます」 「ヨウちゃんは、店を継ぐのか?」 「いえ。ここは父の店です」 「そうかい。じゃ、このコーヒーを飲めるのは、本当に今日が最後なんだな」 そう言って、お客様はコーヒーを飲み干した。 財布を取り出そうとしたお客様に、お代はいただいていないと伝えると、わたしの想いをくんでくれたお客様は、何も言わずに引いてくれた。 わたしが好きで、お父さんの店を訪ねてくれた人にはコーヒーを出している。そもそも店で出せるほどの腕でもないのだから、もともとお代をいただくことなど、これっぽっちも考えていなかった。 「何か力になれることがあれば、ここに連絡してよ。まァ、できることはする」 渡された紙には、ひとつ、番号だけが書かれていた。 おそらく、かけることはない。でも、彼の優しい想いを無下にする必要もないからと、素直に受け取った。 「ありがとうございます。あの、失礼でなければ、お名前をお伺いしても?」 「クザン、だ」 「クザン様、ですね」 「おいおい、様なんてやめてくれよ。ガラじゃねェ」 「…では、クザンさん。もしどこかでまた機会があれば、コーヒー、ご馳走させてくださいますか?」 「あァ、頼むよ。じゃーな」 「はい」 再びチリンチリンとドアを鳴らし、上着を肩に引っ掛けながら出て行く彼を見送った。 その時のわたしには、彼がまさか海軍所属だとは知る由もなく、皿の下に隠してあった、コーヒーとチーズケーキには多すぎるお札を、彼の気持ちと共に静かに受け取った。 |