入学準備
1979年5月11日。イギリス魔法界は闇の帝王の勢力が増し、それに対抗していたレジスタンスや闇払いたちは一家全滅に追い込まれるなど、暗黒期を迎えていた。
イギリスの天気は1日の中に四季があると言われる程変わりやすく、なおかつどんよりとした曇り空のイメージが強い。元々の天候に加えて、そんな重苦しい社会情勢を加味した中で、その日はイギリスでは珍しくからりとした晴れで、日差しの暖かさを感じられる春らしい日だった。
そんな日に、シンシア・カーライルは元気な産声をあげた。
シンシアの誕生から一年半後、闇の帝王が打ち倒され、イギリスはようやく平和を迎えた。幼かったシンシアは当時のことを全く覚えていない。両親たちもその話は全くしないのでシンシアや二つ下の弟であるレイヴィスは、当時のことをほとんど知らない。唯一知っているのは、まだ赤ちゃんだったハリー・ポッターが、名前を言ってはいけないあの人を討ちとったという、新聞や歴史書を読めば分かるような常識的なことだけだ。
シンシアは通りに面した東向きの自室で目を覚ます。東向きのこの部屋は、朝になると光が差し込んでとても明るい。カーテンを閉めていてもうっすらと明るくなり、夏らしくポカポカとした陽気に、自然と眠りから覚めることができるのだ。
起きたシンシアは軽く身なりを整えて、朝食を取りに一階へ向かう。この時期はとても気持ちが良いので、天気の良い日はダイニングではなくコンサバトリーという庭に面したサンルームで食事を取ることが多い。
コンサバトリーの庭側の窓を開けると、すぐそばにフクロウ用の止まり木がある。止まり木の水皿を庭に向かってひっくり返して水やりをして、近くの水場で新しい水を入れる。タイミングよくフクロウが飛んできて、シンシアに手紙を渡すと交換したばかりの水をくちばしてツンツンとつついて飲んでいる。
ご苦労様、とフクロウに声を掛け、シンシアは今しがた受け取った手紙の宛名を確認する。大体は父親のものだったり、母親へのセールスだったりするのだが、今日の手紙は珍しくシンシア宛だ。封蝋にはホグワーツの校章が押されており、シンシアは待ちに待ったものが届いたことに、ウキウキしながらテーブルについた。
「ねぇ、パパ。今度の日曜日にダイアゴン横丁に連れて行って欲しいの」
「ああ、リストが届いたんだね。分かった、行こう」
「えぇー!?姉ちゃんばっかズルい!」
「私は別に着いてきたって良いけどさ、私の教科書とかを買いに行くだけで、自分の物は買って貰えないんだよ?レイヴィスならすぐに飽きて文句言うんじゃないの?」
「言わないから!!ねぇパパお願い!!」
届けられたのはホグワーツの一年生が揃える物品のリストだ。教科書だけでなく、大鍋や秤、杖に制服など、ありとあらゆる学校生活で必要なものを揃えないといけない。レイヴィスはクィディッチ店で買って貰えやしないプロ用の箒をずーっと見たがるだろうし、どうせすぐに飽きてアイスが食べたいとか疲れたとか文句ばかり言うのだ。
レイヴィスは既に魔法を覚醒させ、魔法学校への入学は決定している。しかし、入学するにはどう頑張っても二年待たないといけないのである。シンシアに正式な入学許可証が届いた時だって、シンシアを僻んでそれは大変だったのだ。
シンシアが口をへの字にして苦言を呈すと、レイヴィスは少しバツが悪そうな素振りを見せるも、その後も何度も一緒にダイアゴン横丁へ行きたいと両親に強請った。両親は何故かシンシアによそよそしく、レイヴィスには甘い。きっとレイヴィスの要求が通って、当日はシンシアにとばっちりが飛んでくるのが簡単に想像出来て、少し気が重くなる。
魔法族はマグルに紛れて、魔法族であることを隠して生活している。人口もマグルと比較してそれほど多くない魔法族はとても保守的で、あまり周囲と関わりがない。そもそも近所に魔法族が居ないので、いわゆるご近所付き合いというものが皆無に等しい。両親の友人たちにシンシアたちと同年代の子供がいれば友達も作りやすかっただろうが、そういうわけでもなく。
つまり、シンシアもレイヴィスも友達がいない。日中は母親から入学前の文字や計算などの軽い勉強をして過ごして、娯楽といえば本を読んだりチェスをしたり、シンシアは苦手だがレイヴィスと庭で箒に乗ったりするくらいなのだ。子供にとってはとても単調でつまらない生活なので、外出の機会を逃すのはとても痛手なのはシンシアにも分かるのだが。
「レイヴィス、お行儀よくなさい」
「はぁい、ママ。でも、本当に大人しくしてるから、一緒に連れてって欲しいんだ」
「そうしたら、私とシンシアの二人で先にダイアゴン横丁に行く。買い物が終わる夕方にママと一緒にレイヴィスも来て、一緒にディナー。これでどうだい?そうしたらレイヴィスは退屈しなくて済むし、シンシアも大変じゃないだろう?」
「いいの!?俺、それが良い!!」
父親の提案に、レイヴィスは大喜びだ。シンシアもこれからレイヴィスに当たられずに済むし、何より久しぶりの家族での外食が楽しみだった。
「私の学友が外国に多いせいで、友達が居なくて子供達に退屈な思いをさせてしまっているのは、ちょっと気になっていたんだよ。仕事も忙しくてママに任せてばかりだし、たまにこういう時間を作るのも悪くないだろう?」
「はぁ、分かりました。貴方がそう言うなら…」
母親はあまり外出が好きではないようだった。両親は二人とも口数が少ないが、父親が聞き上手なタイプなのに対して、母親はなんというか、とても口下手で友達が多いようには見えない。シンシアは母親の話を聞いたことがほとんどなかった。ずっと家で庭の手入れや家事育児、趣味の刺繍をしていることがほとんどだった。
そんな母親が珍しく外出の許可を出したので、シンシアはレイヴィスと顔を見合わせて、テーブルの下でガッツポーズをした。
そして、待望の日曜日になった。シンシアは早起きをして時間をかけて丁寧に身支度を整える。夏らしい白と水色のギンガムチェックのワンピースを着て、丁寧に髪の毛に櫛を通す。シンシアの髪はダークブロンドという金髪と茶髪のちょうど中間の、明るい茶色のようなくある髪色だ。とても柔らかく丁寧にお手入れすると手触りが良いのだが、微妙な癖のせいでとにかく広がりやすくて絡まりやすいのだ。
シンシアには髪の毛をアレンジする技量はなく、横髪をお気に入りのヘアピンで留めて完成だ。植物をかたどった意匠にところどころ透明のガラス石が嵌め込まれた、キラキラして可愛いピンだ。基本的にシンシアやレイヴィスの服や小物類は、母親がカタログで選んで注文している。たまにこれが良いとおねだりしてみても、母親のお眼鏡に敵わないと買ってもらえない。母親のセンスは良いのだが、少し大人っぽすぎて味気ないというか、まだ幼い二人にはババ臭く感じることがあるのだ。今日のコーディネートはシンシアのお気に入りの勝負服でもありつつ、母親からの及第点も勝ち取れることだろう。
「おはよう」
「おはよう、早いね」
「だって、楽しみだったんだもの」
「出発は昼食を取ってからだよ」
「分かってるってば」
いつもより早く、しかもおめかしして朝食に降りてきたシンシアを、父親が揶揄う。釘を刺されて、ちょっとばかり不貞腐れてテーブルにつく。トーストにカリカリのベーコン、目玉焼きにベイクドビーンズが添えられている。いつもの朝食を、時間の余裕があるからのんびりと食べて、母親に促されてダイニングでテキストを開く。
出かけるからといって、毎日の勉強は避けられず、むしろ勉強を終わらせないとお出かけは中止と言われている。シンシアは昼から出かけるので、午前中に片付けなければならなかった。
計算問題と詩の書き取りをする。計算問題は置いておいて、詩の書き取りなんかする意味が分からない。文字はもう習って書けるようになっているし、詩なんてよく分からないし普段生きる上で必要ないだろうに。それでも母親の圧が怖いので、文句を言わずにやるのだが。
「ママ、終わったから確認して欲しいの」
「…そこに置いておいて。今ランチを作っているの」
見てわからない?とでも言いたげな母親に、シンシアは小さく謝罪した。母親はシンシアに当たりがキツい時がある。シンシアのことがあまり好きではないのは、子供ながらになんとなく察しているけれど、寂しい気持ちになる。あからさまに嫌って邪険にしたり暴力を振るうとか、そういうことはない。ただ、時々とても冷たい目でそっけない態度を取られるのだ。
シンシアは落ち込んだ気持ちをなんとかお出かけで持ち堪え、父親の腕にしがみついた。父親は夏らしい素材の長めの半袖丈のローブを着ており、いつも仕事に行く時のカチッとした感じではないが品のある格好で、なんだかカッコ良い。色もネイビーで、まるでシンシアとリンクしているようで一層嬉しくなる。
「お姫様がお待ちかねのようだからそろそろ行って来るよ。また夕方漏れ鍋で会おう」
「ええ、いってらっしゃい」
母親とレイヴィスに見送られて、シンシアと父親は煙突飛行で漏れ鍋へ向かった。漏れ鍋はまだギリギリランチタイムなこともあり、大賑わいだった。逸れないように手を繋いで奥に行き、レンガの壁を杖でコツコツと叩くと、ダイアゴン横丁だ。夏休みの日曜日だし、シンシアと同じように学校用品を揃えに来た人々で、ダイアゴン横丁はとても混雑していた。手は繋いでいるが、絶対に逸れないように父親にくっつく。そんなにくっついたら歩き辛いよ、なんて言われたが、迷子になってそれをレイヴィスに知られでもしたら、絶対に意地悪してきたり揶揄われたりするに決まっているので、逸れるのは御免だった。
「まずはマダム・マルキンの店で、制服の採寸をしてもらおう。採寸の間、パパは教科書を買ってくるよ」
「分かった」
マダム・マルキンの店はとても混雑していた。大体がシンシアと同じようにホグワーツの制服を仕立てに来ている子供で、ちらほら上級生の裾直しなどがあるようだった。毎年この時期はこうなるからか、マダム・マルキンの店員たちは非常にテキパキとしていて、受付や順番待ちの列に誘導したり、機敏に動いているのが印象的だった。
シンシアは受付を終えて順番待ちの列に並ぶと、父親は教科書を買いに向かった。こうでもしないと、一日で物品を揃えられそうにないほどの混雑だった。シンシアが採寸を終え、父から預かったお金でお会計を済ませて、引換券を無くさないように握りしめて少し経った。父親が少し汗をかいてマダム・マルキンのお店の前まで戻ってきたので、シンシアと二人で薬問屋へ行く。
魔法薬学で使う材料や大鍋や秤など色々と揃えたら、お会計がびっくりするような金額だった。制服もそれなりにしたが、こんなにも高額だとは思っておらず、シンシアはお小遣い換算だと何ヶ月分だろうかと思わず手を使って計算し始めてしまう。
そんなシンシアを父親は笑って、ペットショップに連れてきてくれた。ホグワーツはネコ、カエル、フクロウを使い魔として連れて行ける。お店には他の魔法生物もおり、シンシアはキョロキョロと周りを見渡す。
にゃあにゃあ、ゲコゲコ、ホーホー。圧倒的に数の多い動物たちの鳴き声や、動物たちがケージの中で動く時に発せられる金属音、他の客のざわめき。沢山の音にシンシアは圧倒される。店内を父親と共に適当に歩いていると、シューとシンシアの耳元で蛇が舌をちろちろさせて、鎌首を持ち上げていた。毒のないコーンスネークという小型の蛇らしいが、その口にはしっかりと牙がある。目があったような気がして、シンシアが目線を外せないでいると、動悸がして冷や汗がじっとりと滲み出てくる。体が震え出し、今にも吐き気で倒れてしまいそうなのに、体が凍りついたように動かなくて蛇を見つめ続けるしかなかった。実際は数秒から数分程度だが、シンシアにとっては一時間にも感じられるような長い時間が過ぎ、ようやく父親がシンシアの顔色の悪さに気付いて大慌てで連れ出してくれた。
「落ち着いたかい?」
「うん…。私、使い魔はいいや。手紙なら学校のフクロウに頼めば良いし。なんかお店にいると動物の声で頭がいっぱいになるし、私蛇苦手だから同じところにいるのは無理。それに、今日はお買い物とかディナーでお金使うだろうから」
「使い魔は必須じゃないから、シンシアが必要ないならそれで良いよ。一年間過ごしてみて、欲しくなったらまた来ればいい。それから、パパはそれなりに稼いでるし、子供がお金の心配をするもんじゃない」
「はぁい」
「よし、フローリアン・フォーテスキューでアイスを食べて休憩したら、また買い物の続きをしよう」
「良いの!?」
「ママとレイヴィスには内緒だぞ」
父親は時々、シンシアをこうして甘やかしてくれる。いつも仕事で忙しそうにしているし、母親と一緒でシンシアに対してぎこちないこともあるが、こういうサプライズをしてくれるから、シンシアは父親のことが大好きだった。
フローリアン・フォーテスキューのアイスクリームパーラーでバニラとオレンジのアイスを半分こして食べ、その後は羊皮紙だとかインクだとか、可愛いレターセットなどを買った。