August

解けかけた魔法が零れてく//高坂海美
今日もまた、海美に言い出せずにいる事がある。それは、アイドルをやめようと思っているということだ。それを考え出したのはもう数週間前で、来る日も来る日も海美に打ち明けようと思っているのだが、なかなか言い出せない。海美のキラキラした笑顔をみると、また明日も見ていたいと思ってしまうし、悲しませたくないという気持ちが沸き上がる。
アイドルをやる条件として両親と約束したのは、成績を落とさないことだったんだけど、やっぱり忙しくなってくると勉強をする時間をとるのも大変だからなのか、前回の考査の点数は真面目に自分でも大学に行けるのか心配になるぐらいだった。
「う、うみ」
「あ、なまえ!おはよー! 今日も頑張ろうね!」
「うん、頑張ろ」
「ええっと、今日のレッスンは〜」
レッスン室には二人きり。またまだ始まる時間じゃないから、今こそ言い出すチャンスなんじゃないのかな。
「ねえ、最近なまえ、元気なくない?大丈夫?体調でも悪いの」
「いや、ちがくて……」
「じゃあ失恋したとか?」
「じ、実はですね、その私、アイドルを」
「一番乗りー!ってなまえも海美もいるんかいな!」
「あ、奈緒!おはよ!」
「お、おはよ」
「おはよー! 今日のレッスンはな〜にっかな〜!」
「昴!今日は早いじゃん!」
「だろー!頑張ったんだ!」

「どうしたの、なまえ」
「ううん、なんでもない」

ごちゃごちゃのalphabet//矢吹可奈
今日は歌のレッスンだ。歌うことは好きだから、とても嬉しい。先生は怖いけど、苦手なダンスよりも全然軽い気持ちで取り組める。
「可奈、それどうしたの?」
「これですか? 次の新曲の楽譜ですよ!」
「楽譜……?」
偶然、可奈を見つけた。まだレッスンの時間まで余裕があるからなにか話そうと思ったけど、それ以上に可奈が持っているものに興味が湧いた。色々なペンでコメントが付け足されたことがわかる楽譜は、すこしくしゃくしゃで、読みにくそうだった。
「えへへ……ちょっと汚いんですけど、気づいたらいっぱい書き込んでて……」
「プロデューサーに新しいのもらってこようか?」
「い、いや! 大丈夫です! ちょっと読みづらいけど、この曲を聞いて感じたことをたくさん書いてあるから、これがいいんです!」
遠慮がちに笑う可奈。そういえば、こうして向き合って話すのは、はじめてかもしれない。結局たいした時間も潰せなかったな、とは思うけど、良いことが聞けた。私も、やってみよう。
「そっか」

「なまえさん? それどうしたんですか?」
「新しいソロの楽譜」
可奈がそろりと、私の手元を覗き込む。あいにくカラフルなペンは持っていなかったから、赤青えんぴつで代用したけれど、どうだろうか。
「へ? これが? なまえさんのっていっつもすごくきれいだったのに?」
「可奈の新曲、素敵だったから。真似してみたら私のソロも良くなるかなって」
まだレコーディング前だけど、楽譜を読むだけで楽しくなれる。いつもは緊張ばかりしていたけれど、マイクの前でうまく歌えるといいな。

どんなばかげた戯言でもいい//篠宮可憐
すんすん。
「なまえちゃんって、い、いいにおい、しますね。こ、このにおい、私、大好きです……」
私の隣に座る可憐が、ゆるく巻いた髪に鼻を近づけて、そんなことを言った。だいすき、だ、だいすき……。
「シャンプー、なにつかっているんですか……?」
「そ、備え付けの、寮のやつ」
「りょ、寮住みでしたもんね……。で、でも、奈緒ちゃんとかからは、こんなに素敵なにおいはしないのに……」
すてき、すてき……。だいすき……。可憐の何気ない言葉が、くるくる私の頭の中に反芻する。可憐の優しい声が、ずっと耳の中で響いてる。
「た、体臭とか、なんでしょうか……」
「く、臭くはないんだよね……!」
「そ、そんなことは! すごく、甘くて、可愛い、なまえちゃんらしいにおいです」
か、かわいい……。それが、私らしい……。可憐が私に抱いてる気持ちがどんなものかはわからないけど、砂糖漬けの優しい言葉が私を舞い上がらせてるのだ。

誰かのところへ帰る人たち//菊地真
今日の現場は、彼女と一緒。一年前に事務所対抗企画で会ってから、何度か番組で共にしたことはあるけれど、こうして面と向かって話すのは初めてな気がした。
「ひさしぶりって、言ったほうが良いのかな。今日の撮影はよろしくね!」
「菊地さん、よろしく」
スマートで、上品に。女子高生らしいはっちゃけている感じなんていらない。真さんに振り向いてもらうのだ。色々な雑誌をあの日から読み漁っているけれども、好きなタイプは私に当てはまらないような人だ。せめてでも印象を良くしたいから、さばさばしてて、かっこよくて、おとなっぽくて、そういう人に見られるように努力しようと思っている。それで、私を好きになってくれるかは、わからないけど。

**

最終チェックとして見つめるモニターには、大人っぽいメイクをした子供な私と、視線から指先まで大人っぽくてカッコいい真さん。撮影中も私は真さんにドキドキしっぱなしで、結局いろいろかんがえてきた素敵な女性には到底近づけるようなことはできなかった。
「このなまえちゃん、すごくかわいいね!」
とつぜん呼ばれた名前に、また心臓が音を立てて跳ねる。今日の撮影中、もっと親しくなろうと言って、彼女は私を下の名前で読んでくれるようになった。
「こ、この真さんも綺麗です」
「ほ、本当? なまえちゃんにそう言ってもらえてうれしいなあ……」
照れている真さん、すごくかわいい。胸の中がどきどきでいっぱいになる。この中の私と真さんの写真が表紙の雑誌が店頭に並ぶって考えると、なんだか夢見たい……。大好きな人の隣に並べて、たくさんの人に見てもらえる。発売日がこんなにも待ち遠しいのは、私が初めて表紙を飾らせてもらえたときぐらいだ。

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あの後、何度か衣装チェンジをして、無事に撮影は終わった。私服に着替えた私と真さんはマネージャーを楽屋で待つことに。私も最近ちょっと表に出てきたようなモデルだから、専属マネージャーなんていない。だから他の現場に行っているマネージャーを待っているわけだけど、どうやら真さんもおんなじように担当してくれているプロデューサーは付きっきりなわけじゃないらしい。次、いつ真さんに会えるかわからない今、こうしてふたりっきりでいられるわけだし、連絡先を聞いたり、こ、この後のご予定を聞くべきなのでは……?
「ま、真さん……! あの、今日って、この後お仕事、ありますか?」
「し、仕事? ボクは特に無い、って今日は事務所でパーティーがあるんだった! ご、ごめんねなまえちゃん!」
「い、いえ、そんな、大丈夫です……!」
「代わりといっちゃなんだけど、また今度遊びの予定立てるために、連絡先教えてくれると、うれしいな! なまえちゃんならボクに似合う可愛い服、選んでくれそうだし!」
「は、はい……!ぜひ!」
画面に映る真さんのアイコン。それは真さんの事務所の子に囲まれてる写真だった。真さんの、誕生日に撮ったんだろうなっていうのがすぐにわかる。ちょっとだけ近づけたと思ったけど、きっとこの事務所の子たちには全然負けているんだろうなって。今日の頑張りが虚しく感じた。真さんを呼ぶ男の人の声が聞こえる。ああ、帰っちゃうんだな。