安「・・・お、」
「まだ、いるのね」
安「なんか今日はそんな気分だった」
「そう」
安「女王さんが来る気がしたのかもな」
「・・・どうだか」
分厚い扉の先にキッチンはあります。小さな明かりだけを灯すヤスモトは、ゆっくり煙草に火をつけるところでした。ごちゃごちゃとしていないこの場所は、きっとヤスモトの指導がよく行き渡っているからでしょう。サクライも、料理については全てヤスモトに一任しています。
「今日はごめんなさい。ランチ、」
安「ああ、別にいいですよ」
「・・・予定が狂ったの朝から」
安「アクシデントは付き物だからな。こっちも帰ってきた兵士に飯作りまくったから予定に無く忙しかったし」
「そう。ご苦労さま」
安「いえ。当たり前なことだから」
安元の低いくせに甘く感じる声は、疲れきった頭にもすっと入ってきます。暖房があまり効いていないこの部屋は少し冷えるのですが、煙草を加えたヤスモトが徐ろに隣に座ってくれるので、なんとなくそれは和らいでしまうのです。
「・・・なんか、飲みたい」
安「ん。ウイスキーでいい?」
「ええ、それがいい」
この時期はホットウイスキーがわたしの心をほぐしてくれることを、ヤスモトはよく知っているので問いかける間もなくそれらを用意してくれます。いつものグラスにいつものウイスキー。常備されているチーズも、忘れずに。
「相変わらずの手際の良さね」
安「仕事なんでね」
「、そうね」
安「あと女王さんの好みに合わせないと、殺されるだろ?」
「そんなことないわ」
安「のろまなやつはお好き?」
「・・・いいえ」
安「ほら」
ヤスモトが鼻で笑う。憎らしい気もしますが、出されたウイスキーの割合はとってもわたしの好みで、ただ礼を言うことしかできません。少し強めのウイスキー。飲むと目の奥が少しぼやけるような感覚。
安「で、今日はどうしたご要件で」
「・・・特に要件ほどのものはないけれど」
安「お疲れ、てきな」
「そうね。そうみたい」
安「まあ飲んだら寝付けるでしょう」
テーブルともいえないような銀色の調理台の上。くつろぐ場所ではないので、柱が足に当たるとひんやりとして、酔いを覚ましてしまいます。ヤスモトは、比較的わたしの近いところに腰を下ろします。肩がぶつかる。執事の中で一番の大柄な人ですので、肩はわたしよりだいぶ上の方にありますが、それでもずっと肌と肌はぶつかっているまま。
「なんだか最近、どうでもいいことを思い出すの」
安「へえ」
「それを振り返ったところで、わたしはなにも変わらないのに」
だから、頭を傾けると丁度良いところにヤスモトの肩があるのです。ヤスモトは、わたしの反対の肩を持つこともなく、そうかといつもの声で返して、ビールを口にするだけ。それがかえって心地よいので、わたしはゆっくりと再びほどける感覚に浸ることができるのです。
「そのビール、」
安「ん?」
「わたしにもひと口くださる?」
安「あ、いいけど」
「グラスはあなたのでいい」
安「、そーですか」
泡はもうふやけてしまっているビールは、グラスの淵にたしかにヤスモトの唇や指の温度が感じられました。いつものドイツのビールでしょうに、そんなことで心の満たされ方はまた変わるのです。
「美味しい、」
安「飲みすぎじゃ?」
「いけない?」
安「いやべつに、」
「付き合ってくれるんでしょうヤスモトは、」
そう問いかけるとヤスモトは、はいはいとわたしを甘やかすような顔で笑います。それがどうもわたしを許してくれているように思えて、煩わしい出来事さえを払拭してくれるのです。