「それでさあー、」
「おい、まてまて。まだ飲むの」
「え、ぜんぜん、のんでない」
「飲んでる飲んでる、普通に」
夏の夜が好きじゃなくなったのは、多分その曖昧すぎる熱と風の関係がとってもいびつだったから。ずっと気持ち悪い暑さに俺たちを苦しませたくせに、差し込む風はあまりにも素っ気なくて、俺たちはいつも振り回されるしかないことに、何度も気付かされるから。
「なに、とつぜん。どうした?」
「えーいやあ?何もない気がする」
「ふうん」
「・・・何も無さすぎて、かなあむしろ」
「、どうかした」
「いや、どうかしてないかも。やっぱり。・・・むーわかんない」
強めに押されたインターホンの向こうに、名前がいた。へらーっと笑う姿と少し赤い頬で、かなり外で飲んできたことを察した。誰と飲んだだとか、何を思ってここに来たとか、特に話すこともなく、かといって俺がそれを咎めるわけもなく、ただ当たり前のように名前がこの部屋にあがる。
「でぃー、がさ」
「うん」
「かっこいいの。きらきらしていて、優しい。」
「うん」
「だからちょっと、苦しい」
「どうして?」
「眩しくて、苦しい」
「のろけか?」
「んーん。でぃーは、わたしのことを受け入れてくれるの。だから、不安。この先、とか考えてしまうわたしが、嫌いになる。あれ、何を言おうとしてるんだろ、ん?」
アルコールの匂いがする。夜が深く傾いてしまう。終電はもう出ていってしまって、名前は垂れ流す感情を誑かしているだけ。
「ごめん全くわかんないわ」
「だよね、うん。わたしもわかんない」
「水飲む?」
「あ、うん飲みたい」
「あい」
名前は、変に弱くて、変に潔い。曖昧にできることとできないことがはっきりしていて、それ故えに衝突が増えることも、ないわけではない。それは、多分俺が良く知っている。
「ぎ、つめた」
「頭冷やせっていうメッセージ」
「さっくんしんらつ、」
「さっきから脊髄で会話してるぞ、おまえ」
「うん。頭は動いてるんだよ、ちゃんと」
口の端から、水がこぼれる。名前はよく分かっているのだろうか。小野が必死に掴もうとするその細い腕や、俺の思わせぶりな電話の切り方や、渦巻いた出来事同士のつながりを。
「あのさ、」
「うん」
「ここで俺が名前抱いたらどうする」
「なにそれ。びっくりする」
「なんで小野じゃなくて俺んとこ来たの」
「さっくんに会いたかったからだよ」
「うん。俺も会いたかった、」
「っ!ちょ、っと」
コップを奪った。まだ溶けきれない氷が、どっちつかずな俺らと重なった。ソファがゆっくりと軋んで、名前がびっくりした目でこちらを見上げる。
「なにしてるの、さっくん」
「まだ酔ってる?」
「なんか覚めちゃった」
「そう」
「ねえ、おりてよ。こんなの、こまる」
「困らせてる、」
見下ろす名前が、黒いソファにこれでもかと白さを際立たせて、伸ばした手に意味を持たせる。物事はぜんぶ、汚く絡み合っていくのだ。だから俺は。邪魔する彼女の手を掴んで、顔を寄せた。寄せる間に、つまらない倫理が浮かんでは消えた。
「おまえには難しいよ」
「なにが?」
「さあーね、」
「?わからない」
「分からなくていい、もう」
「さっくん、待っ」
「待たない」
キスで、何かが変わるわけじゃない。だけど触れたそこは、あまりにも簡単に、現状をぶっ壊すには十分だった。