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「みなさんはブラームスという作曲家を知ってますか?」
「…名前だけは」
「ブラームスは古典派の時代からロマン派にかけての掛け橋になった人物の1人です。形式美を主張する古典派に反発するように、自由な表現や抑えられていた個の主張が出てくるようになり、それがやがてロマン派になります。」

音楽の授業は基本、生徒は堕落して聞いていると思う。一部の子は違ったりするのだが、受験には関係ないからであろう、どうでもいいというようなつまらなさそうな顔をする生徒がちらほら見えた。でも、わたしはそれは違うと思う。

「ところで、みなさんブラームスといえば何の曲、とかあげれますか?」
「しりませーん」
「だよね。うーん…例えばこれとか」

徐ろにピアノの席に着く。一つ一つの音を紡いでいくように弾けば、それなりの音色をピアノは出す。ブラームスの代表的な曲の一つ"子守唄"。当時、女声合唱団を持っていたブラームスが、出産した団員へ作った曲である。三拍子のゆったりした流れが、まるで子供の柔らかな髪を梳いて撫でているようだった。

「聴いたこと、あるでしょう?」
「フレーズ、は」

子供の感覚を刺激すれば、子供は面白いくらいに興味を示す。今だってそうだ。先ほどまで余所見していた生徒はみんなこちらを見ていた。ーー快感である。丁寧に触れられた音に反応しない子供はいない。進学校に来るような知識欲が高い子供であればあるほどそうだ。

「音楽って、その時代の作曲者の思いや、時代や人生が投影されているんです。曲を知ることで、10も100も得る情報がある。」

ピアノに触れると音が流れる。美しい旋律が人の心を洗っていくように、日々の雑音から耳を遠ざけるように、身体中に沁みていく。

「ブラームスは、ロマン派に変わろうと激動していく世界にひどく悩んでいたと言われています。苦しみ、悩みながらも、こうやって自分の合唱団の団員が出産するとなると、こんな綺麗なメロディーを作って祝福をしたんです。…どこか、平和を願うような柔らかな音色だと思いませんか?」

もう1度、弾きだそうとしたタイミングで、チャイムが鳴る。始まりのチャイムの時とはまるで違う好奇心に満ちた目を向ける子供たちは嫌いではない。

「続きは、また来週ね」

教室にぎゅうぎゅうと詰まっていた生徒が居なくなると、そこは急にシンとした静寂に包まれる。

音楽は確かに必修科目でもないし、受験として挑む人達はほんの1握りの人しかいない。だが音楽というのはその個を表す。センスや感受性のような、繊細なところを見抜く。五教科なんかでは測れない、その人自身が試されるのだ。

「おじゃましマース、」
「…あ、及川先生」
「お疲れ様ー。ピアノ、弾いてたの?」
「まあ、そんなとこ」
「えー生徒が羨ましいなー、俺もなまえちゃんのピアノ聴きたい」

徹が音楽室に来るのは今に始まったことではなかった。彼がいる理科室から音楽室までが近いこともあり、ふらふらと現れてはよく雑談やお茶をしていた。人の心を見透かしているような徹は、いつもどこかわたしの気持ちを理解してくれているような気がしていた。そんなこと勿論彼には言ったことはないけど。

「なまえちゃんとか気持ち悪い」
「え、そう?なんか噂によると2年の二口くんからもそう言われてるって聞いたけどー?」
「あの子は、なんか注意しても馬鹿にして呼んでくるの」
「それって先生て思われてないんじゃない?」
「うるさい黙って徹…及川先生」
「今は2人しかいないしその先生ルールとって良いんじゃない」
「うん、…そうね」

準備室、入る?と徹を促す。準備室は基本わたししか使わないので、わたし好みで、生活できる位充実した部屋になっていた。そのせいで、徹みたいに屯してくる人が多いのだが。

冷蔵庫から昨日買ったばかりのシュークリームを取り出す。アイスコーヒーを注げば、既におやつタイムが成立してしまう。

「徹この後は?」
「今日はもう入ってないよ。放課後に3年生が質問に来るとか言われてたけど」
「ふうん…それって女子?」
「そうだったかなあ?」
「間違っても襲っちゃだめよ」
「あれ、なまえ妬いてる?かわいい、」
「それはない。徹の人生を心配して言いましたー」

プリンを一口頬張る。口の中でとろける感覚に、高いお金を出すだけあるなと感心する。幸せそうな顔だねーとこちらを見ていう徹のアイスコーヒーを飲む姿が、どこか様になっていてむかついてしまう。

「でもなまえのところにも来てたでしょ?」
「え?」
「誰だっけ、1年の国見くん?放課後音楽室入ってたの見たけど」
「あー。来てたかも」
「そっちこそ気をつけたほうがいいんじゃない?襲われないように」
「そんなヤワじゃありませんー」
「それはどうかな」

その時、ぐっと徹の顔が近づいてきた。キス出来るほど近い距離な手前、顔を引こうとすると顎を掴まれ、固定されてしまう。なにするの、と言いたげに顔を顰めると、余裕そうに顔を綻ばせる徹。
こんなタイミングに人に入られたら堪ったもんじゃない。

「ほら、こうやってすぐ捕まえられる」
「離して」
「いやだ。なまえはもう少し危機感持った方がいいんじゃない?高校生だってただの輩だから」
「それは徹でしょう?」
「は、どうだかね」

その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえる。それに同じたように、するりと徹の手から抜けた。ツレない顔をした徹を見ないふりして、扉を開ける。そこにいたのは先ほどまで話に出ていた国見くんだった。

「どうしたの?」
国「提出物持ってきました」
「あーそうだったね。ありがとう」
国「いえ。…及川先生、いらっしゃるんですね」
「ああ、そうなの。丁度さっき来たからお茶してる」
国「ふーん」
及「国見くんー?せっかくのチャンスの時にごめんね?」
「ちょっと徹、」
国「(徹?)いえ、別に。じゃあ失礼しますなまえセンセイ、」
「ありがとうー」

国見くんはわたしにノートを出すと去っていった。受け取ったところで振り返ると、優越感に浸った顔の徹がこちらを見ていた。

「いま、気づいた?」
「え、何を?」
「なまえ、俺のとこ徹って言った」
「え?!うそ、」
「ほんとー。その時の国見ちゃんの顔と来たら、眉間にしわ寄せて不服そうだったよ?」
「ああ、やらかした」
「俺としてはいい牽制になってこの上なく嬉しいけどね、」

氷をスプーンでくるくるしながら聞き捨てならないセリフを言う徹は、今に始まった話ではない。あとで、国見くんになんと言おうか考える。徹の意図に嵌ってしまった自分が悔しい。

「ね、やっぱキスしちゃダメ?」
「は?」
「結構俺、その気になった」
「ここ学校だよ?何言ってんの」
「知ってた?学校で唯一の防音なの、音楽室と保健室なんだよ」
「それが何」
「つまり、そこで部屋を構えるなまえはヤラシイってこと」

くるりとキャスター付きの椅子を回転させられ、徹と向かい合う形にされる。脚の間に徹の右足が埋められて、距離がまた一段と縮む。

「いっぱい喚いても聞こえないよ?」

大きな身体がわたしの方に沈んでくる。受け止めるもなにも逃げ場を用意されない感じが、恐ろしくこの男の計算の高さを窺わせる。もはや、こちらの完敗であった。

「鍵、閉めて」
「…おっけい」

ぱらり、と徹が身に付けていた白衣を脱ぐ。ニヤリと笑った目を向けられたわたしは、きっともう逃げ出せないのだと、ぼんやりしながら考えていた。


そうやって貴方しか分からなくさせる




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