涙で滲む世界に示される未来



「巳弦様。」

「はい、どうされました?」

私を呼ぶ声がする。

「巳弦様!!」

「はい、まずは落ち着きましょう。貴方が焦ってはいけませんよ。」

助けを求める声がする。

「巳弦様ぁ!」

「おはようございます。今日も元気でよろしいですね。主のお導きに感謝しましょう。」

悲しみに濡れた声がする。

「…巳弦様。」

「いけませんよ、そのようなお顔をしては。稲の病気がここだけで収まるよう祈りましょう。病を退けていただくために祈り、それから対策を取りましょうね。」

涙を溢して呼ぶ声がする。

「巳弦様っ……。」

「……数日見ない間に痩せてしまいましたね……。少し待っていてください。食べるものを持ってきましょう。」

声がする。

「巳弦様。」

「人手が足りませんか?ではお手伝い致します。……いえ、気にしてはいけません。これもまた私の勤めですから。少しでも心が救われるのなら惜しみません。」

声がする。

「――巳弦様!!」

「農具で怪我を?どちらにいますか?急いで治しましょう。」

声が、

「巳弦様!!」

「今日は――について学びましょう。少しでも知識を身につけて、賢く育ってくださいね。主もそれを望んでおられます。」

声が、

「巳弦様ぁ!!」

「喧嘩?きっと重い年貢や飢餓で不満が溜まっているんでしょう。私が仲介して鎮めますから、場所を教えていただけますか?」

声が、

「巳弦様……?」

「主がこちらで困ってる方がいらっしゃると教えてくださったので来てみましたが……。皆さん、ご無事ですか?少ないかもしれませんが、食料をお持ちしました。」

声、

「っう……、巳弦様ぁ……。」

「涙を流して感情を発散させなさい。今の貴方にはそれが必要です。母君はしっかりと天国に行かれましたよ。これも主のお導きあってのことです。落ち着いたら、お祈りしましょう。……悲しくて良いのです。貴方に愛を注ぎ主の御前へお連れした母君に、寂しさを感じて良いのです。抑えないで、その涙は母君にも届くでしょう。」

声、

「巳弦様………?」

「昨日病気になった妊婦さんがいらっしゃると聞きました。今はどちらにおいでですか?」

声、

「巳弦様。」

「あぁ、私の足元で十字など切らずとも……。いえ、構いませんよ。」

――

「巳弦。」

「四郎様!先程この先の突き当りの子が四郎様を訪ねにいらっしゃいましよ。」

この、声は……………?私を呼ぶ、この声は……?………あぁ、声が重なって誰が私を、私の導きを求めているのか、分からない…………。


―――主よ、今一度私にお告げを――


・・・


農具を片手に農民に混じって畑仕事をしていた少女。簪一本で纏められた艶のある黒髪と質素な着物でありながら、上品さが滲み出る所作が目を引いた。胸元に揺れる十字架の首飾りが太陽の光を浴びて輝くが神聖さを放ち、浮世離れした姿だというのに、黒ずんだ指先と土に汚れた身体が何処か現実の物としている。

農民の中に混じり、似た服装で同じ事をしているというのにその姿は際立っていた。

少女――若苗巳弦は周囲の農民に笑いかけながら、動作を止めることなく畑仕事に励んでいた。

重い年貢、それに伴う飢餓に直面していたこの地域。加えて禁教令が出ている為に、農民たちの拠り所がないと言っても過言ではない。……その中で、若苗巳弦は異様であった。信仰の形である十字架を下げて、主の名を口にして奉仕に励む。けれど、巳弦は農民たちの希望でもあった。

彼女、若苗巳弦ともう一人。――天童と声高い少年。この地に宣教師が残した予言の年に生まれ、数々の奇跡を起こした天草四郎時貞こそが禁教の最中での信仰の象徴だったのだ。

「あっ、巳弦様!」
「おや?……っとと、危ないですよお鶴ちゃん。」
「わぁ!?ご、ごめんなさぁい……。」

どんっ、と腰に届いた衝撃に巳弦は思わず農具を身体の外に向けた。時偶この様に抱きついてくる子供がいる事を知っている巳弦の無意識な気遣いだ。優しい声で腰に回る柔く丸っこい腕の持ち主に注意すれば、慌てて離れてしょんぼりとした顔で謝罪した。
「謝れるのは良いことですよ。」と指通り良い髪を撫で、ふわりと笑えば幼子もそれにつられて笑顔を浮かべた。ああ、やはり笑顔は良いものだ。誰かを幸せにする。現に巳弦もお鶴の笑顔に心癒やされた。

「あ、そうだった………。」

そこで、お鶴ははたと何か思い出したようで巳弦の足元に跪いて十字を切り、再び笑顔を浮かべる。

「母君に教わったのですか?」
「はい!巳弦様にこの様にするんですよって!」
「そうだったのですか……。……それが人々の導きとなるのなら、良いのでしょうか……。」
「?ご迷惑?でした?」
「……いいえ、そんな事はありませんよ。」

お鶴の行動に一瞬戸惑った巳弦だったが、不安を濃くした幼子に逡巡の後肯定してみせた。近頃巳弦の友人であり、尊敬する少年以外に自分も信仰の形になって来ている事を悟っている。どうにも戸惑う部分はあるのだが、それが彼らの救いになるのなら巳弦が止めることは出来ないのだ。望まれる限り、巳弦にとっての奉仕の一つになり得る。

足元に跪いたままのお鶴と同じ目線になるように屈み、十字を切った右手をそっと握る。

「天の愛するお父様、主の御名を賛美致します。今日もお鶴ちゃんに良い日になりますよう、お導き下さい。また、お鶴ちゃんのお家の畑が良い実を結ぶようお助け下さい。」
「あ、えっと……。昨日具合が悪くなっていた奈々ちゃんから苦しみを取り除いて下さい。それから……巳弦様が今日も元気に過ごされるよう、お導き下さい。」
「はい、ではイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
「アーメン。…………大丈夫だったかなぁ?」
「ええ、主はちゃんと聞き届けてくださいましたよ。お祈りに決まりはありませんから、お鶴ちゃんがお伝えしたいように言葉を発して良いのです。ほんの小さなことでも、悩みでも、お鶴ちゃんが信じて祈れば必ず届きますよ。」
「はぁい!」
「所で奈々ちゃん具合が悪いのですか?」
「……うん。昨日顔色悪くしてたの。あ!でも大丈夫だって奈々ちゃんのお母さん言ってたよ!四郎様来てくださるんだって!」
「そうなのですか?それは安心ですね。四郎様でしたら主のお導きを以てして苦しみを取り除いて下さいますよ。明日はゆっくり休んで、明後日には一緒に遊んであげて下さいね。」
「あ、そっか……。翌日ぐらいはゆっくりしたいよね。」
「大事を取って、ですよ。具合悪くなって疲れてるでしょうから、養生しませんと。」
「うん!ありがとうございました、巳弦様!ばいばい!」
「足元にも前にも気を付けるのですよ。」

元気良く手を振るお鶴に巳弦も振り返し、再び農具を取って畑仕事に励んだ。


一先ず手伝いが終わり、仕事が捗ったと笑顔の農民たちに別れを告げ巳弦は次の勤めに取り掛かる。籠を背負い込み、自分の食べる食事を減らす様母に伝えて取っておいた食料を配り歩く。見るからに細い女性、目が虚ろになりつつある幼子、よれよれと歩く老人。相手に合わせて食料を配るものの、巳弦の数日分などたかが知れており、それもすぐに終えてしまった。

「(他に何かやることはあったでしょうか………。今の所、誰から助けを求められることもなく、主からのお告げもないようですし……。お昼過ぎには子供たちに少し授業をするくらいですかね。)」
「ああ、巳弦様!」
「どうかされましたか、お松さん。」
「実は桐彦さんが落石で怪我したみたいなのよ。……お願いできますか?四郎様も入れ違いで遠くに足を伸ばされてて……。」

桐彦、と言う名を聞いてふと村の人から聞いていた話を思い出す。お松の言葉のように四郎は少し離れた村へ様子を見に行くと数人を連れて発っていた。

「そう言えば先程出て行かれましたね。桐彦さん達は郷蔵から年貢を収めに出られて、本日帰村される予定と聞いていましたが……。昨日の雨の影響かもしれませんね。地盤が泥濘んで落石……。どの辺りで落石に遭ったか聞かれましたか?」
「二里程先だって聞いたわ。ここまで庄之助が運んできたみたい。」
「二里……。あの辺りは少し落石が心配される場所でしたし、今後少し道を考えることも必要ですね。ともあれ、破傷風が心配されます。今桐彦さんはどちらに?」
「庄之助のとこよ。」
「ではすぐ向かいましょう。」

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