成した救いで笑顔が見れるなら



お松の先導で案内された庄之助の家に上がり込み、襖を開けた先には桶の隣で心配そうな表情の庄之助の奥方が座っている。

「お色さん。」
「ああ、よかった!巳弦様!」
「変わりましょう。庄之助さんは?」
「お松ちゃんとは別に巳弦様探しに出られたの。」
「そうですか。……桐彦さん、私の声が聞こえますか?」

立ち上がったお色の場所に座り込み、傷口をよく観察する。肩から脇腹にかけての裂傷と右脚側面の広い擦過傷が目立つ。傷を負っていない手を握れば、桐彦からの反応が返ってきた。

「………え、えぇ……。」
「……破傷風は大丈夫そうですね。傷口から菌が入って発熱で済んでいるのは幸運ですよ。今から治しますから、庄之助さんが帰られたらお礼を言いましょう。その場での処置が功を奏しています。」
「そ………ですか……。」
「主は貴方を見捨てませんでした。ですから庄之助さんを導き、私が導かれたのです。……さぁ、目を瞑って心を落ち着けて、委ねて下さい。」

桐彦の手を離し左手を肩に、右手を右脚に向けて巳弦もまた目を閉じる。……部屋を照らす太陽の光とはまた別の、神秘的な青い光が両の手に灯った。巳弦が成せる、僅かな奇跡。その力が宿っていると知り、四郎から教わった癒やしの力。
両手から桐彦の傷口を覆うように広がる光は、みるみるうちに塞がっていく。時間が逆戻りするかのような治り具合にお松もお色も目を丸める。
ふっ、と巳弦が息をつく頃には傷口は薄い痕だけを残して消え去り、桐彦の表情も穏やかになっていた。落ち着いたのか眠りについたようで静かな寝息が鼓膜を揺らした。

「………お、どろいたぁ。間近で見るの初めて……。」
「薄くなった痕も時間経過と共に消えていくはずですから、桐彦さんが起きられたらお伝えください。汗だけは拭きませんと風引かれますから……。」
「はい、分かりました。」
「なら、あたしは桐彦さんの奥さん呼んでくるよ。もう日が高いから起きてるだろう?」
「お千さんは深夜お仕事されてますからね……。桐彦さんもご自宅に帰られたほうが宜しいでしょう。お願いできますか?」
「勿論さ、巳弦さん。見つかって良かったよ、酷い傷だったからねぇ。」
「―――お色!」
「庄之助さん!」

少し荒く開いた襖はがたっと音を立てたがその向こうからはお松と同じく巳弦を探しに出た庄之助の姿が。

「よかった、巳弦様いらしてたのかい。一足遅かったな。」
「もう心配ありませんよ。庄之助さんの処置が良かったので明日には元気になられてます。二里先の落石で軽い発熱だったのは間違いなく、庄之助さんのお陰です。」
「そうかい、それは良かった!俺達が年貢を運ぶ役目を負うことが多いからって巳弦様や四郎様が手当を教えてくれたお陰さ!」
「役に立てたなら幸いです。……暫くゆっくり休まれてくださいね。後日、四郎様を交えて道を変更するか検討しましょう。あそこの落石で怪我される方は少なくありませんからね……。」
「あぁ、怪我して帰るより、健康体で少し疲れる方がいいさ。是非そうしてくれ。……それと、桐彦はどうする?」
「今からお松ちゃんがお千ちゃんの所に行ってくれるって。」
「なら俺が運ぼう。」
「じゃあ、あたしは先に出てお千に話してくるよ。急に行ったんじゃ吃驚するでしょ?庄之助は焦らず来てね。」
「おうよ!」

庄之助が開けっ放しにしていた襖を軽やかに抜けていったお松に、庄之助は力強い返事を返した。これなら大丈夫であろうと巳弦もまた立ち上がる。

「―――お話は纏まったようですね。半日ですが、お二人に、桐彦さんに、お松さんに良き導きがありますよう祈っております。」
「ありがとうございました、巳弦様。貴方の奇跡を間近で見れて良かったです。」
「貴方がいてくれて助かったよ、巳弦様。これから子供たちの勉強を見るんだろう?忙しいのに悪かったね、四郎様にもよろしく伝えておいてくれ。」
「お気になさらず、これもまた主のお導きですから。忙しくても呼んでくださって構いませんからね。四郎様にもお伝えしておきます。」

玄関まで見送り来たお色と庄之助にお辞儀をしながらそう言い、笑った。すぐに家の中に戻っていった庄之助はこれから桐彦の自宅に運ぶために背負うのだろう。休むよう言ったものの、人一人を抱えるのは重いだろうに、代わってやれないのが心苦しい。女、しかもまだ子供となれば元服した男性を運ぶのは無茶というもの。余計な怪我を負わせてしまう。

………さて、と空を見上げ気持ちを切り替える。巳弦とて人、出来ないことなど数え切れぬほどあるのだ。後遺症もなく桐彦が助かったのだから、それで十分。巳弦の出来る施しは、今回はそこまでだっただけのこと。

家の居間を開けて子供たちを迎え入れよう。何について教えるかは決めていた。巳弦の家は決して裕福ではなく、とてもじゃないが学問を習える程余裕はない。生まれた頃から周りは重い年貢に苦しみ、そこに生まれた希望だと、両親は海を超えて届いたある女性の名を洗礼名とした、貧乏な家の子だ。幸運にも幼子の頃の巳弦の評判によって四郎に出会え、様々なことを学べたから今の巳弦がある。

両親から聞いた所、座りもせぬ頃から浮かべていた笑みが大層農民たちを癒やしたそうだ。それから巳弦は自発的に、誰も教えてないはずの奉仕を始め、キリシタンであった両親も酷く驚いたと聞く。……どうしてそのような行動を取ったのかは、巳弦と四郎の秘密であるが。

帰宅した頃には、既に数名の子供たちが待ち構え、巳弦の姿を見てわっと寄ってくる。彼らを居間に通し、じゃれ合うのを程々に止めながら集まって来る子供たちの人数を数えて授業を始めた。一先ず十人が集まれば開始し、途中参加も抜けるのもありの自由なものだ。そもそも無償の授業なので、そういった縛りをつけないようにし、誰でも学べるようにと教鞭を執っている。
巳弦が教えるよりも四郎か教えた方が良いのだろうが、何分彼の方が忙しい。時折顔を出してくるものの、ずっと教えることは難しいのだ。
子供たちは偶に訪れる四郎に会えるのを楽しみにしているので、それがまた微笑ましくあった。

巳弦は授業ではあまり専門的なことを教えない。過去の偉人や日ノ本という国の話、土地の形や応急手当といった簡単なものだ。信仰の押しつけこそやってはならない事。そのため子供たちにも農民にも、巳弦は相手によって言葉を選ぶようにしている。禁教令が出されている最中でもあるので尚、注意して。求められれば教えるし導くが、このような場では適当ではない。それ故巳弦が教えられることは多くないのだが。

授業が終わり家の手伝いなどで子供たちは元気よく手を振って帰っていく。「帰り道に気を付けてくださいね。」と告げながら、なるべく暗くなる前に授業を終わらせた。家の遠い子もいるが、門の先には親の姿も見えるので安心だ。必ず授業前には家が遠くて迎えが来ない子は巳弦に言うよう伝えている。必要とあらば、時には家まで送るのもまた役目なのだから。

そうして、巳弦はまた畑仕事を手伝い、料理が苦手な奥方と共に厨に立ち、日が暮れても奉仕活動を続けた。夕食を抜いていた、そう思う頃には日は沈み、夜の帳が下りて空に星が煌めいていた。

家に帰れば、母が今から食べるか聞いてきたが、巳弦はそれに首を振る。いい加減巳弦の性格が分かったのか、言い出さない限り母は料理を作らないようになった。大抵は自分でなるべく削って料理を作るし、抜いてしまうことも珍しくない。心配していない訳ではないのは分かっている。ただ、それが何十年と続けば納得せざるを得ない。

そもそも巳弦には空腹というものが分からない。農民たちは疲れてないか、としきりに巳弦を気遣ってくれるが、それもまた分からない。何も感じてないかと聞かれれば、それもまた違うのだろう。
どのような状況に於いて空腹なのか。どのような状況に於いて疲れるのか。けれど、それは巳弦にとって幸運だった。無視して動けるのだから。

元々、自分の感情が限りなく存在しないことを自覚している。巳弦の瞳が映す世界は少し変わっていた。心臓の近くに色のついた珠がある。その時々に珠の色は変わり、いつしかそれが感情の形であると察した。……察した時に、透明の自分の珠にある意味納得もした。原因は四郎が知っているようだが、巳弦が何度聞いても笑って流してしまって答えなかったのだ。

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