黒ずむ指先に染み込む温度



布団を敷き寝間着に着替えた巳弦は十字架を握ってお祈りをする。巳弦の部屋は彼女の奉仕の都合上、家の中でも庭に面した部屋だ。部屋の壁に取り付けられた鈴は庭にある木の棒に巻き付けられた糸を引くことで鳴らす。それを聞いて起きた巳弦がすぐに来訪者と会えるように、この部屋となっている。
巳弦は会う人会う人に深夜でも早朝でも入用があれば何時でも起こして構わないと伝えていた。意外にもこの時間に助けを必要とすると人は多い。お陰で巳弦は鈴の音一つで目が覚めるようになっていた。

―――チリンッ

……今日は用事があったようだ。底に眠っていたはずの意識はすぐに覚醒し、布団から出て身なりを整え、障子を開けた。

「何かあったのですか、宗助さん。」
「娘が流行り病に罹ったみてぇでよ!助けてやってくんねぇか!?」
「宗助さんは医学を嗜んでいらっしゃいましたね。治癒と体力回復も合わせて三日ぐらいゆっくりすれば、完全に治るはずですので。」
「じゃあ……。」
「はい、精一杯勤めます。……着替えは、まだるっこしいのでみっともないですがこのままで失礼します。」

縁側に置いてあった緊急時の草履を履いて焦った表情の宗助の後を追った。流行り病に村の一人でも罹患すると忽ち広がってしまう。広がれば広がるほど、巳弦や四郎の手では回りきらなくなる。そうなった瞬間に、打つ手立てがなくなってしまうのだ。だからこそ、一人目から誰かに感染る前に治しておきたい。

家の中には廊下から部屋の中を覗き込む奥方の姿が。奥方は巳弦を見て安心しきったように涙を浮かべ、襖の前から下がった。

「お願いしますっ、巳弦様。」
「はい、大丈夫ですよ。宗助さん、一度奥さんを休ませてあげてください。元気になったのに母君が疲れていると逆に心配されてしまいます。」
「ああ!ほら、行くぞ。」
「えぇ……。」

不安と緊張は立ち上がった奥方の全身に表れていた。足元がおぼつかず、手先も震えている。宗助もそれを見て、巳弦に目礼して奥の部屋に入っていった。
「入りますよ。」と同時に襖を開けば、熱に浮かされてうめき声を上げて身体を捩っている子供。額に置かれていたはずの手拭いが落ちるほど、堪え難い熱で関節痛であることが伺える。こんこん、と空咳は順調に彼女の体力を奪っているようだった。

「返事をさせるのは酷でしょうね……。」

少女の枕元に膝をついた巳弦は、汗が滲み細い眉がぐっと寄っている額に指先が黒ずんだ自らの右手を載せた。左手で十字架を握り、昼間に桐彦を治した時のような淡い青の光が宿る。気遣って灯りの灯っていない部屋に、優しく広がる光はこの世のものとは思えないような光景を生み出す。

捩る回数が減るたびに、巳弦の全身に違和感が走り抜ける。指先を侵食されるような感覚と、ぱちぱちと皮膚の下が弾けるような感覚。どちらも経験済みだが、慣れぬものだ。しかし、この感覚が四郎が言うには黒ずんだ指先の原因だという。

「大丈夫ですよ。大丈夫です。すぐ楽になりますからね。」

十字架から放した左手が今度は少女の肩を一定の間隔で優しく叩く。そうして暫く、続けれていると眉間の皺は取れ、苦しそうな呼吸も、酸素を奪う空咳も治まっていた。

「………よく頑張りました。数日はゆっくりして、精のつくものを食べましょう。残しておいた食料を明日には届けに来ますね。」

乱れた髪を優しく撫でて、立ち上がり襖の向こうで待っていた宗助に状況を説明した。心得のある彼はそれに数度言葉を漏らして頷き、巳弦に頭を下げた。

「ありがとうごさいました、巳弦様。こんな深夜に起こしちまって……。」
「良いのです。まだ罹患してすぐでしたから、誰にも感染ること無く、娘さんも無事だったのですよ。奥さんと一緒に数日は少し注意深く体調を観察していて下さい。何かあれば、深夜でも早朝でもいらして下さって構いませんから。」
「……あぁ、じゃあそうさせてもらうよ。巳弦様もお身体気をつけてな。」
「ご心配ありがとうございます。明日また様子を見がてら、何かあった時のために残していた五葷をお持ちしますね。」
「なんの、そこまでして頂かなくても……。」
「治ったすぐ後も大事なのです。遠慮されて別の病を罹ったら大変ですよ。宗助さんなら免疫力の話をせずともお分かりになるでしょう?」
「…………ご迷惑おかけします。」
「迷惑ではありませんよ。これもまた私の役目ですから。……では、宗助さんもご自愛下さい。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。巳弦様。」


・・・


朝の爽やかや空気、髪を遊ぶ風。柔らかい日の光。眩しそうに太陽を見上げる巳弦の手の中には湯呑みが収まっている。白湯が緩く湯気を昇らせ、湯呑み越しの温度がじんわりと巳弦の指先を温めた。茶を一度飲ませて貰ったことがあったが、本来茶は武家から上の人達以外手に入らない。そもそも贅沢など必要ない巳弦には無縁であるが。

「巳弦。」
「四郎様、お帰りなさい。」

隣村から帰ってきた四郎は自宅に戻って一度着替え、こうして巳弦の家の門から顔を見せた。門を開け、四郎の足元に跪いて十字を切り奇跡を起こす右手を取って口付け、心臓へとあてがった。見上げれば少し困った顔で笑う四郎を家へ通す。

「また貴方は……。」
「私の信仰の形は四郎様に他なりませんから。」

今は空っぽのもう一つの湯呑みに白湯を注ぎ手渡せば、お礼を言って受け取った。神の恩寵を受けた奇跡の少年への崇敬。神への崇拝とは全く別物で、一部の信徒はその形を巳弦にも当て嵌めている。

「先程村の者に聞きました。昨日は二度も治癒を?」
「はい。年貢を納めに行かれていた桐彦さんが二里先で落石に遭い大怪我を負ってましたが、今は薄い痕が残っているくらいですのでその内消えると思います。それから、深夜に宗助さんの娘さんが流行り病に。一先ずは娘さんだけで留まったようです。」
「……そうですか。広がる前に抑えられたようですね。」
「宗助さんも奥さんも気を付けるよう伝えていますので、大丈夫だと思います。庄之助さんにも話しましたが、年貢を納めに行く道を少し変更したほうが良さそうです。」
「雨が降ったのでしたか。天候が崩れると危ない道ですからね。次の納め時までに相談しに行きましょう。」
「はい。」

少し考え込んだ四郎だったが、優しい笑みを湛えるかんばせを巳弦に向けた。ああ、この笑みは心に溶けていくような暖かさがある。指先だけでなく、心までもじんわりと広がった。
………自身の心の内に目を向けていると、湯呑みを持っていた巳弦の手に独特な人の体温が触れる。ぱちり、瞬きすれば何やら心配そうに静謐な顔を歪めていた。#名の手を覆うのは一回りほど大きな男性の手。するりと湯呑みを取り上げて壊れ物を触るかの様な手つきで四郎はその指先を見つめる。

「………また酷くなっていますね。痛みなどは――愚問でした。違和感はありませんか?」
「宗助さんの娘さんを治す際に少し感じたぐらいですから、大丈夫ですよ。」
「巳弦の大丈夫は信頼なりません。必要な分はちゃんと食事を摂るよう言っても聞きませんし、睡眠も疎かにしています。だから貴方は自分で調節できなくて、許容限界を知らず抱え込んで倒れてしまうのですよ。幾ら巳弦でも、その身は人でしょう?彼らと作りは変わらないのですから、同じくらい気遣いなさい。主は貴方が施し、愛し、導くことを肯定していますが、それは無理をするのとは別なのだと心得て下さいね。」
「……はい。」

口元だけに笑みを乗せ、瞳は真剣に、眉は寄ったまま。そんな四郎を見れば巳弦は否定の言葉を頭文字でも言えない。

「それから。」
「はい?」
「四郎様、ではないでしょう?」
「ですけど……。」
「俺がそう呼んで欲しいんだ。今のような二人だけの時は。」
「……………。」
「呼んで、くれますよね?」
「……………はい。」

にこり、なんて笑みで迫られて思わず頷いた。彼はこういったことに於いて押しが強く、納得する答えが得られるまで引かない節がある。

「貴方に指先の感覚が、とか言っても曖昧な答えしか返ってこないでしょうけど。……上手く使えているのは良いのですが、加減を……。………あぁ、貴方に表現するには難しいですね。ともあれ、巳弦の手で救われる方が沢山いらっしゃいます。これからも多くの方を救えるよう、少しでも治しておきましょう。」

ぽっと二人の手を包むように灯った淡い光をかき消さんと輝きを増す寝起きの太陽の下、穏やかな朝の光景を起き出した村人たちに目撃されたそうな。

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