黒い雲など知らん顔



一六三八年朔日、明け七つに総攻撃があった。会話を聞いたわけではなかったものの、巳弦はそれが指揮官交代が迫っての焦りだったと結論を出した。『お告げ』にてそのことを知った巳弦は他の指導者たちと相談し、一揆軍に支持を出してこれを防ぐ。……そんな日からひと月が過ぎた頃だった。

本丸の奥に位置する一室。総大将である四郎の私室であり仕事部屋でもあった。その部屋には文机に向かう四郎と、隣に腰を下ろしている巳弦。彼女の私室兼仕事部屋はここよりも少し手前にあり、本人が使うよりかも平時から子供たちのために開放されている。

家族でこの戦いに参加する者は多くはないが、少なくもない。母親が参加すればどうしても子供も着いてきてしまう。他にも二の丸や天草丸などあるが、一番安全なのは本丸である。しかし、本丸に空き部屋はないに等しく、私室に長く居ることのない巳弦が自由にさせた次第だ。

「……これならば、一先ずどうにかなりそうですね。」
「はい。提案した通り、失火を防ぐために本丸以外の厨で火を使わないよう徹底しています。」
「念には念を入れませんとね。皆様の様子はどうですか?」
「……そうですね、悪くないとは思います。中には不安になられる方も居ますが、今の所は士気に影響はしないでしょう。日毎お話を聞いたり、相談に乗っていますので和らいでいますよ。」
「それは重畳。この状況では、不安になっても仕方ありません。女性たちや子供たちは?」
「厨を手伝っていただいたり、解れた着物の修繕や掃除など積極的です。男性方の背を押す姿も見られますね。女性強しでしょうか。」
「ふふ、是非ともその姿は見てみたいです。」
「子供たちも特別変わった所はありません。部屋を限定していますが、元気ですよ。」
「迂闊に廊下に出しては危ないですからね……。心苦しいですが、特定の部屋だけのほうが良いでしょう。鉄砲が置かれている部屋もありますしね。」

困ったように笑った四郎は、今しがた書き終えた書を再度確認して筆を置く。文机から巳弦に身体の正面を移動させた四郎は太腿で組まれた手を取った。
何を言うでもなく、ただ目を瞑って。この原城に立て篭ってから一段と酷くなった指先の黒ずみ。考え事をしているのか、撫でる動きは止まらない。

「……あれから、変わりはありましたか。」

苦しそうな声で漏らした言葉に、巳弦もまた思わず眉根を寄せた。

「………いえ、お告げは変わっておりません。」
「そう、ですか……。」

四郎が持ち出した話題は、この一揆に際して二人が気にしていたことだ。巳弦のお告げを除いても、敗北は決定していた。特に巳弦が指導者を頼まれた時、勝ち目がないことは火を見るよりも明らかで。それでも受け入れたのは、農民たちの強い思いと、戦う意思を示すことが重要であると考えたからだ。同時に、勝ってはいけない戦いでもある、と。

勝つことは、どちらにとっても救いにはならない。また違う苦しみに別の人を落とすことになる。今のこの国にはどうしても合わない。勝利の末どこまでを手に入れるにしろ、日本という国の崩壊の一手にもなりかねないのだ。
政を任されたとして、それが誰に出来よう。宗教を禁止することは巳弦とて許せる話ではない。では宗教を押し付けるのは?それもまた駄目だ。勝利はそこに繋がっている可能性が大いにある。

これぞまさに、戦争に負けて勝負に勝つ。巳弦たちの目的は年貢の軽減と禁教令の解除。それさえ果たされれば勝ったも同然のなのだから。

四郎もそれは同じであり、だからこそこの場にいる。負けるだろう、死んでしまうだろう。それでも自分たちは主と共にあり、死は苦しみでなく安らぎなのだ。不要な死は避けたい。だけれど、巳弦は今の彼らにそれが不要な死かどうかは判断できなかった。

不要な死かどうかを考えるのではなく、彼らに訪れる死を無駄に、不要にさせない方法を考えるべきだと。なるべく多くの人が生きていられるようにと。そう思って巳弦はこの原城に籠城する作戦を提案した。戦う姿勢を見せることが、その姿勢で動くかも知れない未来が、彼らにとって価値ある死だと誇れるように。

「巳弦には、聞いてもらいましょうか。」
「はい?」
「彼らに罪があるとすれば、私を信じたことでしょう。私についてきたことでしょう。」
「、」
「その為なら、喜んで命を捧げます。少しでも救われてくれるのなら、それだけで私には幸せなのです。」

ふるり、と睫毛が揺れて暗い部屋でも光を放つ金色の瞳がそっと巳弦を見つめた。二人とて、この決断が正しいか今でも悩んでいる。自分たちの奇跡に着いてくる彼らの未来は決まっているも同然で、どうあっても優しいものではない。けれど彼らに罪はないのだ。信じさせた自分たちにこそ罪がある。

「………同じ気持ち、ですけれど……。いざ四郎様のお口から聞くと、言い表せない複雑な気持ちになりますね……。」
「私も、貴方がそう思っていると思うと、心が痛いです。私達の、この手が必要のなかった希望を見せたのではと、思わずにはいられません。」
「それでも私は誓いましょう。彼らに最大の優しい未来に導くと。禁教令を下す幕府に理解ある未来を導くと。死を、無駄なものにしないと。……一人でも多くを救います。」
「……えぇ、そうしましょう。彼らの幸福を、救いを祈ります。そして、貴方の導きが良いものになるよう祈りましょう。」

きゅっと手を祈るように握れば、四郎がその上から同じように手を握る。奇跡の代償は自分たちで払う。だから彼等には良き未来を。そう祈って。


・・・


何時もより長く祈りを捧げていた巳弦と四郎の間に広がる沈黙は、四郎の瞬きによって終わりを告げる。指先を優しく撫ぜた後、少し悲しげに笑った四郎に背を押されるように本丸の厨に向かった。

昼餉の準備は共に籠城戦をしている、一揆軍に参加した夫を持つ女性たちが交代で受け持っている。巳弦と熟年の女性の二人が指揮を取る厨には十を過ぎた頃だと思われる子供の手伝いも姿を見せることがある。
人手は多いが、その分この城にいる人も多い。本丸の厨だけで全ての人の食事を賄うため、昼餉前にはその忙しなさから男性が引き攣った笑みを浮かべるほどだ。

「巳弦様、ここは後あたしがやるから、男共に声を掛けてきて貰えるかい?」
「はい、任されました。私の分を取っておく必要はありませんので、皆さんで分けて下さい。」
「……食べなきゃ倒れちゃうよ、巳弦様。四郎様も心配するだろう?握り飯だけは必ず残しておくから、絶対腹に入れるんだよ。」
「………いえ、その必要は………。」
「貴方に倒れて欲しくないんだっていう老いぼれのお願いを聞いてくれないかい?あたしが言うには烏滸がましいかもしれないけど、きっと貴方が倒れたら皆悲しむさ。少ない食事を分け与えられて喜ぶ奴もいるよ。けど、それで貴方が倒れれば罪悪感が生まれる。本意じゃないだろう?」
「……………そうですね。お願いします、登米さん。」
「はいよ。」

巳弦の返事に満足したのか、厨を指揮する女性、登米は皺が目立つ顔でにっこり笑う。四郎の次に巳弦の食事事情に口を酸っぱくして忠告するのが登米だ。彼女は譲歩してくれるが、食べない選択肢を絶対に与えない。四郎とは違う視点から詰め寄られるので、どうにも弱いのだ。
厨を後にして城内に知らせて回る。どこに行っても人々の色は不安や恐怖に染まっていた。武器を手に持って籠城など、経験した人などいるわけもなく。元々農具を振るってばかりだった彼らには全てが不安で、恐怖なのは当然の事だった。毎日祈りの時間に個別で聞いてはいるが、解決には程遠い。と、その時。前から歩いてくる男性の表情がとても強張っているのが見えた。思わず立ち止まった巳弦に気がついたのか、小さく頭を下げた男性に近づく。何事かと目を白黒させる男性に笑いかけ、優しき声音で言葉を渡す。

「緊迫した状況が続いていますが、笑顔を忘れてはいけませんよ。強張ったお顔よりも、笑顔のほうが何倍も素敵で、何倍も人を幸せにします。他に強張ったお顔の方がいれば、貴方が解して導いてあげて下さい。」
「は、はい!」

巳弦の笑顔につられるように、男性は少し歪ながら同じように笑ってみせる。ありがとうございます!と、幾分か元気になったようでもう一度勢い良く頭を下げて通り過ぎていった。

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