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「バレンタイン、平子くんにチョコあげるの?」
「ひょあ!?」

 登校すると、バレンタインの特集が組まれた雑誌をぱらぱらと捲る汐里が見える。声をかけたら汐里は素っ頓狂な悲鳴を上げた。

「な、な、急に何を!?」
「あれ?違った?てっきりそうなんだと思ってたんだけど」
「え、え…気付いてた…?」
「うん」

 汐里の雰囲気が平子といる時だけ違うことくらい知っていた。昔馴染み、と言っていたけど、汐里の顔は恋する少女のそれだった。汐里は耳まで真っ赤にさせて顔を覆う。

「チョコはあげないよ?」
「えっ、てっきり毎年渡してるのかと」
「うーん…真子のことはその、好きだけど、それ以上は望めないしなぁ」
「ふぅん?じゃああげたことないの?」
「小学生くらいの時はあげてたかなぁ…」
「あげたらいいのに、義理とかでも」

 そんな勇気もないんだよねぇと苦笑いする汐里はどこか切なそうだ。私の知らない二人の距離感、というのがあるんだろう。平子自体良く分からないし、何か事情でもあるのかもしれない。

「今さら恥ずかしくてできないよぉ」
「…本当は?」

 顔を覗き込むように態勢を低くして、汐里の答えを待つ。小さな声で、あげたいと返事がきた。

「じゃ、私と一緒にあげよう。それなら流れであげられるよね」
「夏樹、ちょっと楽しんでない…?」
「バレた?」

 もー!と顔を真っ赤にして怒る汐里は可愛い。

「や、でもホラ。渡せる時に渡した方がいいよ」

 毎日大切な人が生きているとは限らないんだから、という言葉は飲み込んだ。

「そうかなぁ、そうだよね…」
「私、今年はクッキーにでもしようかなぁ、たくさん作れるし。汐里、フォンダンショコラとかどう?」
「…あの、折り入って相談が…」

 おずおずと片手を挙げて申し出る汐里の顔は真っ青だ。先ほどまでとは真逆の表情に夏樹は小首をかしげる。

「私…お菓子作り壊滅的なんだよね」
「え」
「ホットケーキは焦がすしクッキー焼けば瓦せんべいみたいになるし…夏樹大先生ご教示ください〜〜〜!!!」

 そういえば彼女からもらうバレンタインの友チョコはいつも市販品だったことを思い出す。汐里はこのとーり!パンッと勢いよく頭を下げる。

「ふふ、いいよ。一緒に作ろっか」
「やった〜〜〜!!」

 料理の方が得意ではあるけど、一応お菓子も難しくないものであれば作れる。フォンダンショコラよりカップケーキとかの方が簡単でいいかもなぁ、なんて汐里が何を作れるか思案を巡らせる。

「夏樹の本命チョコないの?」
「ん?ないよぉ」
「えー、本当に?」
「うん、好きな人もうずっとできてないな」
「華の女子高生がそれでいいの!?」
「できないんだもん、しょうがないじゃん〜」
「さては理想が高いタイプだな!?」
「あはは、かもね」

 チャイムが鳴って数学の授業が始まる。ひとつあくびをして窓の外を見ると、天気は少しどんよりとしていた。
 好きな人はいないかと汐里に尋ねられ、自分は好きな人がいないのではなく誰かを好きになりたくないのだと気付く。
 目を閉じれば、あの日の雨の音が耳の奥から聞こえてくるような気がする。
 まだ7年前の事件のことを引き摺っている。人は思いもよらぬところで二度と会えなくなる。それが怖くてたまらなかった。


 = = = = =


「さ、本屋に行こうか」

 バレンタイン直前に差し掛かる日、部活もない休日の昼。汐里に声をかけると、きょとんとした顔をした。そのまま現状を理解していない汐里が慌てているうちに本屋へ到着する。
 ネットのレシピもいいけれど、初心者には一冊本がある方が何かと安心感があるだろう。ジャズ部の部員には汐里が超美味しいの作るからご期待あれ!と既に宣伝してある。逃げ道を塞いでしまう背水の陣作戦だ。
 手ごろな本を購入した後、作る前に本を熟読してくることを約束させた。お菓子作りは基本的に手順通りに手を抜かなければ、ちゃんとしたものが作れるはずなのだから。
 そうして週末のキッチンで、感嘆の声と疲労に満ちた声が飛び交っていた。

「で、できたぁ…!」
「いや…ほんとよかった…」

 両手を挙げて喜ぶ汐里とは対照的に、夏樹はげっそりとした顔でそう呟いた。散乱したクリームや小麦粉が視界の端に映り、後片付けを思うとげんなりとしてしまう。

「こんなに上手くできたの初めてだよ!夏樹!」
「うん、でしょうね…」

 汐里のお菓子作りスキルはそれはもう壊滅的だった。分量をきちんと測ろうとしない、泡立てが甘いまま次の工程へ進もうとする。
 汐里の手綱を握るのはそれはそれは大変な重労働だった。
 二人でクラスの友人や部活のメンバーに配る分として、ついでにクッキーも焼いた。失敗したカップケーキは二人のおやつ行きだ。
 汐里は渡すときに、恥ずかしいから絶対一緒にいてほしいと言った。でないと受け取ってもらえない、と。変わったお願いだと思ったけれど、元からそのつもりだった夏樹は二つ返事でオーケーを出した。
 疲労が浮かぶ夏樹の顔とは対照的に、汐里の顔はほくほくと嬉しそうにカップケーキを眺めている。あぁ、私も頑張った甲斐があったものだと夏樹は頬を緩ませた。

「ねぇ、夏樹もさぁ」
「ん?」

 汐里は真剣な顔でカップケーキの良しあしを確認している。

「好きな人、できたら教えてよ。応援したい」
「ふふ、できたら、かぁ。想像つかないや」
「むっ、案外そうやってのんびりしてられるのも今のうちだけだったりして」
「えーそうかなぁ」
「ねっ、いいでしょ?あげたい人、できたら!」
「分かった分かった、できたらね」

 私はどんな人を好きになるんだろうか。好きになれる人は現れるのだろうか。好きになるのなら、どんな人がいいんだろう。
 それを考えると少しだけわくわくした。汐里みたいに夢中になれるのなら、それは悪いものではないのかもしれない、と。
 
―平子くんも、大切な人からもらってたのかな

 ふとそう思ってから、思考の不自然さに瞬きを数度する。 

ー私、汐里の応援をしているはずなのに…大切な人がいるって、どうして思ったの?

 そう思うきっかけがあったのか、思考を巡らせるがはっきりと思い当たる節はない。それでも、確かに数度見た平子の愁いを帯びた表情が、その仮説を裏付けるような気がした。