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 春が来る。桜のつぼみが膨らみつつある。道端のタンポポがぽつぽつと黄色く彩を見せ始めた。卒業式がもう間近だ。夏樹も2年生へと進級すれば彼女たちが後輩が入ってくるのだと気付く。

「たのもー」

 ふざけた調子でとある建物の扉を開ければ、バスンと打ち付ける音が中から返事の代わりに聞こえてくる。同時に鼻につくのは汗のにおい。

「え、夏樹!?」

 汗をぬぐいながらこちらに走ってきたのは空手着を来た短髪黒髪の少女。

「や、久しぶり。たっちゃん」
「その呼び方やめろっつってんでしょ。て言うか、アンタここに顔出すなんて珍しいわね」

 有沢竜貴、ひとつ年下の少女はこの空手道場の門下生で、数少ない昔からの夏樹の友人だった。

「おばあちゃんからのお使いでさ、師範いる?」
「あー、今日は小学校で子供会の指導してるからいないわ。あと1時間くらいで戻ってくると思うけど…」
「そっか、じゃあこれ渡しておいてくれる?」
「なにこれ」
「次の鳴木市のイベントのお知らせだって。師範にまた瓦割のステージやってほしいって言ってた」
「ふぅん、ま、渡しておくわ」

 興味なさげに書類を受け取ると、それよりも!と夏樹にずいと近寄った。

「もう空手やらないの?高校でもやってないんでしょ?今何してんだっけ」
「私はたつきみたいに才能ないもん。ジャズ部でサックスしてる」
「ジャズ部なんてあった?」
「うちの部長が作ったの」

 汗のしみ込んだ道場の臭いが、この地域に越してきたばかりの時期を懐古させる。
 両親がいなくなってから塞ぎ込む夏樹にしびれを切らした祖母は、半ば強制的に師範が知り合いであるここの空手道場に夏樹を入れた。それから中学卒業まで、自分の身は自分で守れと無理やり習わされていた空手。
 確かに最初は嫌いだったけれど、途中からは結構楽しんでこの道場に通っていた。バイトの予定がなければ続けていたのかもしれない。
 結局のところ、バイトと部活の両立をしていることを思い出して夏樹は少し笑ってしまう。人生どうなるか分かったもんじゃない。

「じゃあ新歓の勧誘もやる訳だね」
「うっ、ヤなこと思い出させないでよ…」
「あんた、苦労しそうねー。昔から人前とか苦手だもんね」

 道場に通い始めた時も、新しい生徒が入ってきた時も、馴染むのに時間の要した夏樹を思い出してたつきは笑う。

「あたし、実はもう部活の方にはちょっとずつ顔出してんのよ」
「そうなの?」
「だって相手になる人いなくてさー」
「い、一護に相手してもらいなよ」

 ちらりと期待の眼差しをこちらに向けてくるので、思わず顔を引きつらせながら同じ道場の生徒の名を口に出す。目立つオレンジ色を頭で、そういえばいつも眉間に皺を作っていたなと思い出す。あの子も後輩になるのかと思うと少し感慨深い。

「それがさー、アイツ最近サボり気味なのよね…他の女子じゃ相手にもならないし…もっと気軽にぶっ飛ばしていい相手がほしいわー」
「はは…それは無理じゃない?」

 ため息をつくたつきには苦笑いしか返せない。やはりアンタが空手家に戻るしか、などと言い出す前に退散することにしようと夏樹は持っていたカバンをかけ直す。

「ま、私は帰るね。そうだ、たつき高校合格おめでとう。春から楽しみにしてる」
「見てなよ、全国制覇するからさ」
「全国大会出たら応援行くね」

 まるでもう優勝は私の物だと言いたげな顔で、たつきは握った拳を掲げた。中学の全国大会も常連だった彼女のことだ、有言実行とするのだろう。
 吹き抜ける風はまだ少し冷たいが、真冬の厳しさを抜けて春の兆しを運ぶようになった。
 
 帰り道、家にまっすぐ帰ろうとしていたら聞き慣れた関西弁が聞こえてくる。

「しゃーからアカン言うてるやろ!会うんはナシや!!」
「ケチケチすんなや!」
「ケチってアカン言うとるちゃうわ、ボケッ!!」

 背が高いのと小さいのと、目立つお揃いの金髪に関西弁。高い方は間違いなく平子なのだけれど、もう片方は誰だろうか。上下赤いジャージの小学生くらいの、ツインテールの女の子が平子とそれはもう今にも殴り合いが始まりそうな勢いでにらみ合っていた。

「なんでオマエは…」
「平子くん、やっほー。なんか賑やか、だね?」

 流石に目の前をすれ違うのに挨拶をしないわけにもいかず、ケンカ中の空気を割るようで申し訳ないと思いつつ声を掛ける。

「あれ?」

 声を掛けた瞬間、二人は面白いくらいにカチンと固まってしまった。そんな驚かなくてもいいのになと思う。何か変なこと言ったかな、と夏樹は苦笑いをするしかない。

「コイツが…!」
「あっ!」

 ツインテールの少女がずいと前に出てきたかと思えば、ものすごいしかめっ面で夏樹を睨みつける。

「フゥン…」

 ジロジロとまったく憚る様子もなく不躾に夏樹を上から下まで品定めするかのように見やる。

「えっ、と」

 夏樹はどうしたらいいのかと助けを求める視線を平子に投げる。平子は諦めたように大きくため息をついていた。何か声を掛けようかと悩んでいたら突然大きな声が耳を割く。

「猿柿ひよ里や!」
「え?」
「え?やない!え?や。こっちが名乗ってんからそっちも名乗らんかい!!」

 ズビシと指をさされて、早くしろと圧をかけてくる少女は猿柿ひよ里という名らしい。

「えっと、相模夏樹、です?」
「なんやその疑問形!シャキッとせんかい!」
「えええ」
「初対面でいきなり何かましとんねん、アホ!」

 今にも飛び掛かりそうなひよ里の襟首を平子がぐいと掴んで引き離す。

「すまんな、相模チャン。初対面のやつにすぐ威嚇すんねん」
「え、あ、うん」
「何すんねんハゲ!」
「何すんねんはこっちのセリフやぞ」
「チッ…」
「ほなまた」

 平子はいまだ不思議そうな顔をしている夏樹に別れを告げ、ひよ里をずるずると引き摺っていく。

「何だったんだろう…」

 嵐がひとつ過ぎ去ったような静けさに夏樹はぽつりと呟く。猪みたいな子だったと言ったら失礼だろうが、何と言うか猪突猛進な子だったなと思わざるをえなかった。
 この出会いが、これきりでないような予感がした。きっとまた彼女に出会うような。その時はもう少しちゃんと話せるといいなと、初対面では緊張しがちな自分を励ました。