12

 あぁこれは夢だ。暗くうねる様な空間の中で、私は誰かに呼ばれている。深く、深く沈んでいく感覚だけが私のすべて。
誰だろう、私を呼ぶのは。誰だろう、私を引き留めようとするのは。あぁ、だとしても。

「…うるっさい!!」

 やけにガヤつく夢に思わず夏樹は怒声を上げる。

「ほー、あたしの授業がうるさいたぁいい度胸だね」
「……げ」

 目を上げると眉をぴくぴくとさせて、口の端を引きつり上げた先生が教本を丸めて立っている。

「放課後、課題けってーい」
「……あぁぁぁ」

 がっくりと項垂れる夏樹の周りをくすくすと笑いが満ちる。
 高校2年に上がって気が付けば、いつからかこの悪夢に近い何かに悩まされる日々が続いていた。恐怖はないが、どうにも後味が悪く起きた時は倦怠感に包まれる。5月の半ば、早くも梅雨のじっとりとした空気が嫌に肌にまとわりつく。
 たかだが10分程度うたた寝してこれか、と夏樹はため息をついた。目の前の黒板には読む気の起きない文字がスラスラと綴られていく。
 授業に飽きて校庭に視線をやれば、何かがぼやりと見えた。目をこするとそれはすぐに消えてしまった。

「何だ今の…」

 もう一度校庭に目をやってもやはり何もいない。ついに幻覚を見るほどになってしまったのかと自分の正気を疑う他なかった。
 昼休み、飲み物でも買いに行こうと汐里と連れたって食堂方面へ足を運ぶ。

「アンタ最近調子悪くない?」
「あはは、うん…最近変な夢見ること多くて」
「疲れてんの?」
「どうだろ」

 心配されるようじゃいかんなと、夏樹はまたひとつ、気付かれないようにため息をつく。曇天の空を見上げて、今日の放課後の天気を心配していると、突然チリと焦げ付くような痛みが首筋に走る。

「!?」

 ―今、何かに呼ばれた

「あ、ちょっと夏樹!?」

 夏樹は突然その場で踵を返すと、汐里を置いて走り出した。不思議と足先は行きたい方角が決まっていて、強い引力に導かれるがまま夏樹は足を動かした。
 チリチリと痛む指先に導かれ、行き場のない手はその正体を掴む。
 パシリと乾いた音がして、夏樹はようやく掴んだのは誰かの腕だということに気付く。

「あ、あの…」
「もーーー!夏樹ってば!置いてかないでよ!!って…」

 呼吸を乱したまま夏樹はその掴んだ腕の主を凝視する。艶やかな黒髪に深い紫の瞳を持った、やけに華奢な少女だった。

「…何してんだ?お前ら」

 沈黙を破るように声をかけたのは、目立つオレンジ頭の少年。

「「一護」」

 夏樹はそこでようやく我に返って、少女を掴んでいた手を離す。目立つオレンジ色の髪は高校に入ったって健在らしい。入学して以来久しぶりに見る友人は不思議そうに首を捻った。

「ご、ごめんね突然…」
「あぁ、いや…」
「夏樹どうしたの?アンタ変よ?本当に」

ー引き付けられるような感覚があったのに、消えてる…?

 先ほどまで感じていた焦げ付くような痛みは何だったのだろうと、手を凝視しても何も分からない。

「何かあったのか?」
「あぁ、いやうん。つい?」

 なんと返答してよいか分からずごもごもと話す夏樹に周りは皆首を傾げた。その視線に耐えかねて違う話題を懸命に振る。

「一護、あんた入学して早々あちこちで喧嘩してんの噂になってるよ」
「向こうが売ってくんだから仕方ねーだろ」

 相変わらずだなぁと笑えば一護はブスっと不機嫌そうに視線を逸らした。

「そろそろ戻らねーと昼休み終わんな。行くぞルキア」
「それでは皆さん、ご機嫌麗しゅう」

 ルキアと呼ばれた少女はご丁寧にスカートの端をつまみ上げてお辞儀をする。それを後ろから見ている一護はゲテモノでも見るような顔をしていた。

「変な子だね…」
「うん…」

 夏樹は行き場のない手の平を繰り返し握っては開く。痛みは消えたが、頭の中に残る嫌な予感と僅かな吐き気がぬぐい切れない。

「てかさっきの男の子、知り合い?あれ、噂の黒崎一護じゃないの?」
「あー、小中の時空手やってた時道場一緒だった」
「あぁ、そういえばそんなことしてたねぇ」

 汐里が懐かしむような表情で夏樹を見やる。その一方で夏樹はルキアと呼ばれていた少女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。どうしてか、あの紫色の瞳が嫌に脳裏に焼き付いていた。


 = = = = =


 あの日以来、突然ひり付くような痛みに襲われることはなかった。数日が経って、特に変わったことはないのだが、時々目が霞むようになった。
 また気を抜くと視界の端でぼやけた何かが動く。
 視力が落ちているのであれば、病院に行かなくてはいけないなど考えていたら、急に足を何かに引っ張られる。

「どわっ」

 派手に転んで頬が地面に擦れる。口に鉄臭い匂いが広がる。どうやら少し唇を噛んだらしかった。

「いっつつ…」

 ひりひりする頬を押さえながら、何に躓いたのかと辺りを見回すがそれらしいものは何もない。

「えぇ…?」

 それ以来、1週間で理由のない怪我が増えた。この前はすれ違いざまにぶつかった出前途中のうどん屋の出来立てほやほやのうどんで焼けど。歩けば上から何故か植木鉢が降ってきて、その破片で足を切った。体育で飛んできたサッカーボールが直撃した。

「ちょっと怪我の原因並べるのやめよ、悲しくなる…」
「夏樹、あんたマジでやばいよ。その怪我、尋常じゃないって」
「うー…だよねぇ」

 あちこち絆創膏や包帯だらけの夏樹を見て汐里は曇った表情を見せる。

「呪われてんのかなぁ〜、あはは」
「ごめん、力になれなくて…」
「え、なんで汐里が謝るのさ」
「私じゃ夏樹に何もしてあげれない」

 妙に深刻そうに謝る汐里を見て、夏樹は笑いながら手刀を落とす。

「死にゃしないさ、大丈夫ダイジョーブ。そんな顔しないで」
「…うん」
「さて、今日はバイトだし行くね」

 気を付けてよ、と心配そうな表情の汐里に夏樹は気丈に笑って見せた。
 ちょっと自分が鈍臭いだけだろうと高を括っていたのが間違いだったと気付くまであと、ほんの数時間だとは知らずに。