13

 バイトが終わった帰り道、街灯が照らす白線の上を歩きながらぼんやりと考え込む。片手には廃棄でもらったパンがパンパンに詰められた袋がある。今日は大収穫な日だった。
 そんな気分の上がる状態でも、夏樹の心はどんよりと曇っていた。
 ここ最近、何かにつけ狙われるような感覚があった。ストーカーかと思ったけれど、思い当たる節はないし、そもそも起きるのは『事故』ばかり。
 とても人が作為的に為せるものではなかった。
 神社にお祓いでも行こうかとため息をつく。肩に乗った荷でも降りないかと夏樹はひとつ伸びをする。
 が、突如、ドサリと夏樹の手からパンの入った袋が落ちた。
 何が起きたのか全く分からないまま、気が付けば夏樹は地面に突っ伏していた。目の前にパンが転がっているのが見える。一呼吸置いて、背中から焼けるような痛みが走った。
 何かに切られたのだと漸く頭が理解する。理解したものの、やはり何が起きたのか分からない。

「な、に…」

 耳を劈くような雄たけびが頭に響く。それに引き摺られるように霞んでいたはずの視界が何故か妙にクリアになっていく。
―――目の前に、化け物がいた。

「はっ、はっ…」
「クヒヒ、ようやく!アァ!!」

―何?なんで?目の前に、化け物…

 白い仮面と骨ばった骨格、まるで白熊のような、けれどもそんなものよりもっと禍々しく悪意の放たれた其れは容赦なく、夏樹を見て嘲るように笑う。どこか既視感を覚えるが、化け物の雄叫びによって意識は現実に引き戻される。
 どうにか身体を起き上がらせると、その場から走り出した。

―逃げ、なきゃ…!

 一歩動く度に背中に鋭い痛みが走る。血が足りないのか頭もガンガンと殴られたような衝撃が続く。
 背中からは嘲笑が響き、まるでわざと自分を逃しているようだった。

―どうしよう…!怖い、こわい…!!

 よたよたと覚束ない足取りでいると、曲がり角から現れた何かにぶつかる。

「きゃあっ」
「!!」

 居たのは小さな女の子。夏樹の血に塗れた姿を見て、怯えた表情でその場に立ち竦む。

「っ、逃げて!!!」

 咄嗟にそう叫べば、後ろから化け物の嬉しそうな雄叫びが響く。

「2匹目カ!クハハ!!」

こんな夜更けに子供がどうして、胸に鎖まで付けて。普段であれば気付く細かいことにまで頭が回るはずもなく、化け物の笑い声に意識は強制的にそちらへと引きつけられる。
 化け物はや小さな標的を睨んで舌なめずりをする。悪寒の走る表情に思わず少女の腕を掴むとその場から走り出した。
 守らなくてはという想いだけで夏樹は今も震える足を無理矢理動かす。
 ちょうど目に付いた公園の草陰に、震えて泣きそうになっている少女を押し込んだ。

「いい?ここに隠れてて。絶対出てきちゃダメ」

 少女がこくこくと頷くのを見て、夏樹は努めて笑顔で大丈夫だから!と震える手を隠して言い切る。

―できるだけここから離れなきゃ…!

 ここから少し行けば河川敷の空き地に出るはず、と夏樹は痛みを無視して我武者羅に走った。

「健気じゃねーノ!」
「っ、先回りされた…!?」

 ようやく空き地が見えたと思えば、ど真ん中に陣取るのはニタニタと笑う化け物だった。

「オレは逃げ回る人間を追いかケ回すのが大好きデよぉ!安心しな、さっきのガキもお前の後に食ってやるカラ」

 一瞬で目の前まで距離を詰められ、夏樹の中でポキリと折れる音がした。

―こんなの、無理に決まってんじゃん…

 視界が薄暗くなり、化け物が大きな手をこちらにかざしたのだと気付く。力が抜けてへたりこむと、虚は耳をつんざくような声で嘲笑う。
 本能的に逃げなくてはと思うものの、無理に走ったからか、心が挫けたからか、もう脚は動かなかった。無様に全身がカタカタと震える。背中から容赦なく流れる血がますます逃走を阻む。

―悔しい…なんで…

「じゃあな!!」

―やだ、いやだなぁ…死にたく、ない…!

 目の前に差し迫る死に頭が真っ白になる。きつく目を閉じて衝撃に耐えようと試みる、が。

「させるかよ!!!」

 自分に来るはずの痛みの代わりに、この世のものと思えない雄叫びが夏樹の身体に響く。
 化け物はすでに真っ二つに切り裂かれてさらさらと空に消えていく。それを夏樹は呆然と眺めていた。視界の端で揺れるオレンジがやけに眩しく見えた。

「いち、ご…?」
「っ夏樹!?大丈夫か!!?ルキア!」
「分かってる、少し落ち着け!」

 意識を手放してしまいたい程の痛みに視界が歪むが、間違いなくあのオレンジ頭は一護だと夏樹は霞む意識の中で認識する。
 思い出したかのように背中の傷が疼きだし、経験したことのない痛みに夏樹は顔を顰める。
 少女に手をかざされてから痛みが引くような温かい感覚があった。

「あの…ね!」
「無理に話すでない!」
「女の、子…っ、公園にっ」
「!!一護!」
「分かった!」

 一護が公園の方角へ飛び去るのを見て夏樹は気を緩ませる。
 意識を手放せば死んでしまうような気がして、なんとか死ぬまいと努力したがそれももう限界だった。夏樹の視界は徐々に狭まり、緩やかに声が遠くなっていく。
 意識を失う直前に聞こえたのは、カランコロンと間延びしたアスファルトを打つ木の音だった。
 そして、誰も知ることがない。事件の起きていた上空で、上下逆さまに立つ男がハッチング帽を深く被り直していたことなど。


 = = = = =


「あれ、生きてる…」

 夏樹はまずそれを口にした。目の前に広がる天井はやけに古ぼけた雨漏り後の見える焦げ茶色の板。

―死んだような気がしたんだけど、夢…?

「お目覚めですか」

 声がした方を見ると、ストライプの帽子を深く被った作務衣の男がこちらをのぞき込んでいた。

「えっと…ったぁ!?」
「あー、動いちゃダメですよォ。大怪我したんだから」

 身体を起こそうとした瞬間、激痛が背中を走り身悶えする。

「起き上がるのなら、ゆっくりですよ。少し話しましょうか」
「あの、あなたは、あとここは…」
「こりゃ失礼。アタシは浦原喜助。そしてここは浦原商店、アタシの店です」

 パンと開いた扇子には”浦原商店”と書かれている。

「天国、とかじゃなく?」
「死んでないですよ、相模夏樹サン」

 どうして名前を、と夏樹が口を開きかけた瞬間障子が勢いよく開く。

「目ぇ覚めたか!?」
「い、一護!?っつーーー!!」
「黒崎サン、駄目スよ。急に話しかけちゃぁ」
「わ、ワリ…」

 音の方向に身体を向けようとして、再び激痛が走る。
 一護の後ろから黒髪の少女がぴょこりと顔を出す。確か前に会ったことのある子だ、彼女に惹き付けられたのだと夏樹は記憶を呼び起こす。

―あれ、今は何も感じない…

 目の前でギャーギャーと騒ぐ二人は、大と小、オレンジと黒、なんとも凸凹したコンビだと頭の隅で呑気なことを思う。黒髪の少女からは、以前のような儚げな印象は微塵も感じられなかった。
 それから、浦原は朽木ルキアと名乗った少女作の謎テロップを用いて説明を始める。

「…つまり、私は虚?に襲われていて、そこを2人に助けられた。虚は悪霊みたいなやつで、私は美味しそうだから襲われたのだと」
「ま、だいたいそんなとこですね」
「はぁ…」

 なんとも信じがたい心霊体験内容にため息をつくしかない。変なうさぎとくまのテロップさえなければもう少し理解できたような気がした。が、テロップにケチを付ける一護が横で絞められているのを見て黙ることに決めた。

「痛む感覚はあるでしょうが傷自体はもうほとんど消えてますよ、一晩寝れば治りますからここで安静にしてくといいスよ」
「あ、おばあちゃんに連絡入れないと…」
「そこは抜かりなく手配しておくのでご心配なく。今はお休みなさい」

 信用していいのかイマイチ分からない軽いノリに歯切れの悪い返事をするしかない。
 まだ体が上手く言うことを聞かないのか、気を抜いた途端瞼が重くなる。夏樹はまだ聞きたいことがあると口を開く前に、それは叶わず深い意識の世界へと落ちていった。


 = = = = =


「なぁあのゲタ帽子に任せて大丈夫なのか」

 浦原商店を出た一護は隣を歩くルキアに尋ねる。

「奴もこちら側の人間だ、そう無暗なことはしないだろう」

 適当に言いきるルキアに一護は大丈夫かよと一抹の不安を覚える。

「だろうって…そういやアレしとかなくて良かったのか」
「アレ?」
「ボンってするやつ」
「あぁ、記憶置換か」

 一護は自分の知り合いにルキアがふざけた見た目のおもちゃを堂々と爆発させていたのを思い出していた。

「アレは…奴が必要ないと言うのでな…」
「だから虚の説明したのか?」
「あぁ」

 ルキアは適当に一護に返事をしながら、思案を巡らせる。

 ―あの人間、確かに虚に襲われたときは霊体だったが…因果の鎖がなかったというのはどういうことだ。

 そう、すべての人間は魂魄が身体から抜ける時、因果の鎖と呼ばれるもので身体と魂を結ばれた状態になる。
 だのにあの人間は間違いなく因果の鎖などなく、まるで”死神のように”その場に霊体でいたのだ。正確には、半分ほど霊体化していた。
 おかげで回道が使えたのだが、そんな部分的に霊体化する人間など見たことも聞いたこともなかった。
 上に報告すべきか迷う心を見透かしたように胡散臭い店主はナイショですよと言ってきた。徒に不確定な情報を送って事態の混乱を招くわけにもいかず、あの店主に従うのが一番理に適うように思える。
 ああ見えて様々な情報に精通しているのは間違いない。素性は知れないが店員に人間の子供もいるのだから、危害を加えることもないだろう。
 念のため明日、様子を確認しに行こうとルキアは思うのだった。


 = = = = =


「調子はどうや」
「おや、平子サン。いらしてたんですか」
「そーいうの、ええから」

 平子は心底面倒臭そうに、驚いたフリをする浦原にため息をつく。いつものような軽口を叩く気には到底なれないらしい。

「封印が…解けてきているようっスよ」
「………そうか」
「『最悪の事態』が起きたら」
「分かっとる」
「ボクは黒崎サンたちを見るので、そちらをお願いします」
「…わーっとる」

 平子は気怠そうに伏せ目がちな視線を上げた。その瞳には表情が写っておらず、ただぼんやりと天井を見上げている。
 すやすやと気持ちよさそうに眠る夏樹の顔を見て、平子は小さく安心したようなため息をついた。
 いっそのこと情を全て捨ててしまえばいいのに、一度関わればもうそれができない性分であることくらい浦原も平子も理解していた。
 ナンギやなぁと独り言ちる平子に、浦原はそうっスねぇとこれまた弱弱しい返事を返すのだった。