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 昨日の世界がどんな景色だったのか。それを思い出すのは存外難しいものだと、夏樹は身をもって知ることとなる。

「なる、ほどな…?」

 電柱脇には頭から血を流した幼い女の子が佇んでいて、塀の上にはいかにも幽霊な足のない太った中年のおじさんがふよふよ浮いている。

−ある朝目が覚めたら突然幽霊が見えるようになっちゃった、みたいな…?

 どこの主人公なんだか、と呑気なことを頭の片隅で考える。現状見える世界は昨日からトンと景色を変えてしまったらしい事実に頭を抱える。最近目が霞むと思ってた原因もどうやら幽霊が見えかかっていたのが原因のようだ。今はすっきり影を潜めている。
 幽霊が見えるようになって、何故だか朧気だった両親が殺害された事件前の記憶が、僅かに戻ってきている。何かが動き始めているような嫌な予感が体の芯に纏わり付いている気がした。
 ため息をついて、周りをウロチョロする禿げたサラリーマン幽霊を手で払って空を見上げる。心中を笑うかのような晴天が広がっていた。


 = = = = =


―今日一日、授業どころか日常生活何一つ集中できなかった…

 何度目か数えるのすら億劫になった深いため息をついて、パックのいちごオレを一気に飲み干す。これが日常になるのかと思うと気が重くて仕方がない。
 生きてるのか死んでるのか判断のつかない状態で話しかけてみれば、もうそれは壁に向かって話しかける怪しい人間の出来上がりだ。
 一護はどうやって対処していたのか、夏樹にはさっぱりだった。
 放課後の人気のない食堂前で夏樹はぼんやりとストローを噛む。
 なんとなく知ってる気配が近付いてきて、夏樹は首だけをそちらに向ける。

「体調に問題はないか」
「えーっと…ルキア、ちゃん?」
「朽木ルキアだ」

 話しかけてきたのは昨日の黒髪の少女。凛とした佇まいがなんとも現代の制服とマッチしていないように思える。

「うん、霊が見えること以外はね」
「そうか、それは良かった。いや、良くはないか」

 ルキアはふぅむと顎に手を当てて眉間に皺を寄せる。

「昨日の虚っていうの、ルキアちゃんがいつも退治してるの?」
「そうだ、今は力を失って一護に手伝わせているがな」
「そっか…昨日、えっと、助けてくれてありがとう」

 お礼を伝えるとルキアは目を見開いたあと、視線を逸らすことなく夏樹の目を見た。

「あの?」
「…いや、責められるものだと思っていたから」
「…責める?なんで?」
「貴様の昨日の傷も霊媒体質への変化も…すべては我々が防がねばならないことだったのだぞ」

 ルキアは目を伏せるように声を振り絞る。

「…すまない、謝って許されることではないと分かっているのだが」

 ルキアの拳が強く握られるのが夏樹の視界に入る。強い後悔と自責の念が夏樹の中に満たされていく気がして、夏樹は何故だか胸が痛くなる。

「えーっと、ルキアちゃんは昨日のんびり私を助けに来たの?」
「そんな訳っ」
「ないなら別に責めるにしても私、あのままだったら死んでたし…」
「しかし」
「あー、保留にしよ、保留!私さ、その苦手なんだよね…恨み言とか、そういうの。だから適当に勘弁してくんない?」

 困ったように頬掻く夏樹にルキアは面食らったような顔をする。

「そう言われても、えーっと…上手く言えないや。今は昨日助けてくれてありがとう、だけで許してよ」

 夏樹は飲み終わったいちごオレをくしゃりと潰すと乱雑にゴミ箱に放り投げた。ルキアが辛そうな顔をすると、何故だか自分も辛くて堪らない気分になる。

「…すまない」

 ルキアは小さく謝る。

「そんなことよりさ」

 夏樹は深刻そうなルキアを他所に、そんなことと軽く口から言い放つ。
 もたれかかっていた壁から身体を離すと一歩ルキアに詰め寄る。

「霊と人間を見分ける方法とか、知りたいことたくさんあって。…虚って、霊感強い人を襲うって本当?」

 出来る限りこちらの意図を悟られぬよう軽い口調で、ルキアにぱんと手を合わせてお願いのポーズを取る。
 ルキアは考える仕草を取ると、それであれば力になれることがあると口を開く。
 そうして、ルキアによる霊の講義がどうにも気の抜けるテロップ付きで始まった。

 そんな馬鹿な。馬鹿ではない、事実だ。2人の会話は徐々に弾んでいく。夏樹は必死に笑いこらえ、ルキアは怒ってテロップをバンバン叩く。気が付けば、まるで旧来の友人が出会ったかのように、2人は楽しそうに話をしていた。

「ふぅん、なるほどねぇ。頑張れば見分け、つくかなぁ…ん〜、幽霊に、虚かぁ」
「正直慣れてもらう他ない。案ずるな、虚が貴様に襲いかかる日はもうないぞ!一護がすべて倒すからな」
「あはは、そこは一護なんだ」
「私も力さえ戻れば実力は一護以上なのだぞ!」

 突如、数年前に流行った曲がピロリロと夏樹のスカートから流れる。開けば汐里からのお怒りのメールが届いていた。思わず口を一文字に閉じる、これはまずい事態だ。

「やばい。部活忘れてた」

 ありがとうね、と夏樹はルキアに軽く手を振る。ルキアは緩く口元に弧を描いたまま手を振り返す。

―不思議な、掴みどころのない奴だ

 そんなことを考えながら、ルキアは内に燻る違和感に眉根を寄せた。彼女自身の存在が理解できていないことを差し引いても、それだけでは済まない違和感。
 まるで、彼女のことが"自分自身のようだった"など。


 = = = = =


「ね、あんたが休憩するって言ったの何時」
「えーっと、4時半…?」
「今の時間は」
「5時半回ってるねぇ」
「回ってるねぇ、じゃないのよ!何かあったのかと思って滅茶苦茶心配したじゃない!!」

 予想外に本気で怒っている汐里を見て、夏樹は目をぱちくりさせる。

「ご、ごめん…?」
「アンタが今週に入って怪我した回数は?喧嘩に巻き込まれた回数は?車に轢かれかけた回数は!?」

 矢継ぎ早に捲し立てる汐里に、夏樹は小さくなる。

「ごめんなさい…」
「分かればよろしい。で、遅かった理由は?」
「友達と話してた…」
「はいはい、そういう嘘はいいから」
「いや嘘じゃないし」

 汐里だけでなく、他の部員もイヤイヤと首を横に振る。

「お前友達いたのか?」
「いやいるけど!?」
「必要最低限しか話さないお前が?」
「先輩、まだ私とあんまり喋ってくれませんよね…」

 部員の皆が口をそろえるように夏樹の友好関係に疑問を呈する。

「もう、そうやっていつもからかわないでよ…」
「ふふ、ごめんごめん」

 項垂れる夏樹の肩を冗談めかしてポンと叩くと、練習の再開始めるよと汐里は声を張る。
 夏樹もいつものようにサックスを首から下げ、楽譜を持って廊下へ出ようとドアに手をかける。ふと汐里に目線を向けると、楽器を持ったまま外を見つめていた。
 その横顔が何処か辛そうに見えて夏樹は口を開くが、音が発せられる前に汐里がこちらを向いた。

「どした?」
「いや、なんでもない」

 気のせいだろうかと僅かな違和感を抱えたまま、夏樹は普段通りの汐里を見て口をつぐむ。
 窓の外でカラスが夕暮れを告げる。夏樹はどうしても胸騒ぎを鎮めることができなかった。
 何かが少しずつ壊れ始めているような、嫌な胸騒ぎがした。