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「コレ、知っとるんとちゃうのん」

 飛び上がるように起き上がって布団を跳ねのけた。朝日が気持ちよく窓から差し込むが、夏樹の心情と正反対で思わず目を細める。
 全身が汗まみれでパジャマがじっとりと纏わりついて不快感が酷かった。思わず胸元に手をやって乱れた呼吸を整えようと息を深く吸い込む。

―今の、何。夢…?平子くんが、どうして…あれは、虚の、

 夢にしては嫌に鮮明な声が頭に木霊する。身体に纏わりつく倦怠感に誘われるまま、布団へもう一度身体を沈めた。
 ぼんやりとしていた意識が徐々にはっきりとしてきて、今見た夢が妄想の産物ではなく過去にあったことだと理解し始める。脳裏に浮かび上がる秋の夕暮れの公園と、日本刀、白い仮面。

「どうして…」

 枕に頭を擦り付けても、心中の疑念の濁流は勢いを止めることがない。

―忘れてた、違う。忘れさせられてた。あの人、浦原さん…前も、会ったことがある。あの公園で、平子くんと、

「気持ち、悪い…」

 頭がぐわんぐわんと回る感覚がして、もしかしなくてもこれは熱があるのではと疑い始める。自分の額に手をやるが、いまいち分からない。今日はもう学校を休んだ方がいいかもしれない、なんてため息をつく。
 纏まらない思考を眠気が手助けするように散らしていく。徐々に意識は微睡始め、瞼は重力に逆らうことなくゆっくりと閉じて行った。

―こういう不安な時、そうだ、いつも…あの人が、隣にいてくれた。お母さんがいなくなってから、

『大丈夫、大丈夫―――』

 耳の奥で響くノイズの入ったラジオのような、ぶちぶちと途切れた音声はどこか懐かしい響きを醸していた。彼女の声はまるで、木陰で休んでいるときに聞こえてくる鳥の囀りのような安心感をもたらしてくれる。
 遠くで、安心してお眠りと声がした気がした。


 = = = = =


「もう逃がさないんだから…!」

 夏樹が学校を休んだ日の夕暮れ、汐里は凄んだ顔つきで男の腕を掴む。
 公園には子供が先ほどまで遊んでいたブランコがゆらゆらと名残惜しそうに揺れるだけで、ほかに誰もいなかった。
 平子は長いため息をつくと、やんわりと汐里の手を腕からほどく。

「しゃーから、話すことはない言うてるやろ」
「夏樹の身に何が起きてるの、虚の数も最近おかしい。この町にも、何が起きてるのっ…!」

 夏樹が怪我ばかりするようになって、平子は自分の生活圏に姿を現す回数が異様に減った。普段はほとんど見かけない虚も何故だかよく町を徘徊している。
 汐里は身の回りが明らかに異常な速度で変化しているのを肌で感じていた。

「オマエが怪我するような事態にはならんから」
「私じゃなくて!」

 汐里は絞り出すように声を上げる。

「どうして、何も教えてくれないの」
「…教えたところで、オマエに何ができんねん。危ないことに自分から頭突っ込んでくだけしか出来へんやろ」

 見透かしたように平子は言い捨てた。普段よりもワントーン低い声に思わず尻込みしそうになるのを、拳を作って耐える。

「相模チャンに、渡そうと思ってるやろ。あかんで」
「!」
「ソレは喜助がお前の霊圧に合うように作っとる、渡したところで無意味や」

 汐里はそれすら見透かすのかと、平子の無表情な瞳を睨みつける。
 浦原喜助作の虚を避けるお守り。それを夏樹に渡せば少しは事態がマシになるのではないかと、平子が当てにならなければそうしようと考えていた。
 あかんと制する平子に、自分の無力さに、汐里はどうしようもない怒りを覚える。

「お願い、夏樹を守って」

 汐里の強く握られた拳が震える。目に溜まった涙が今にも零れ落ちそうだった。
 私の大事な友達を守れるだけの力があるんでしょう?と瞳に込められた切な願いに平子は思わず目を逸らす。

「…100年前、オレらが現世にきた理由が、今動き始めてんねん」

 平子は淡々と静かに、諭すように口を開く。

「その中心に、相模チャンは巻き込まれとる。みすみす死ぬような事態にならんようにオレも喜助もおる。けど、まだ今はその時やないんや。せやから、汐里はいつも通りにしとったらええ。相模チャンのいつも通りを守るんは、お前の役目や」

 平子の言う内容が理解できず、理解したくもなく、汐里はぼろぼろと涙が零れるのを止めることができない。

「そんなの、夏樹の命よりも、大切なことなの…!?」
「すまんな」

 一体何度聞いたことだろう、平子の謝罪を。

「謝るくらいならっ」
「やらなあかんことが、あんのや…分かれとは言わん、けどここで投げ出す訳にもいかん」

 汐里はぐずぐずと鼻を啜ることしかできず、より一層自分の非力さを憎むほかなかった。

「すまん」

「バカ、バカ真子!」

 パンッと乾いた音が響く。平子の頬には赤い汐里の手形がくっきりと付いていた。
 平子は何も答えず、その場を静かに去って行く。
 汐里はジンジンと赤らむ手のひらを睨む。八つ当たりだと思った。何もできない非力な自分が悔しくて。そうして、自分が好きになった人に失望したどうしようもないやるせなさが鬱積していく。

 汐里は涙を乱暴に拭うと、大きく深呼吸した。
 一つの決意を秘めて、しっかりとした足取りで向かう先は浦原商店。

―もう真子に頼っても仕方がないのなら、私にできる事を

 ほんの僅かでもいいから、自分の大切な人を守れる力が欲しいと思った。
 すぐに隠し事ばかりするけれど、不器用で、人見知りで。それでいて心根の優しい大好きな親友のために。平凡な少女は強く手のひらを握りしめた。