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 今日は演奏会直後で部活は休み。折角だから汐里の家で打ち上げでもしようとジャズ部6人揃って歩いていた。スーパーで大量に買い込んだお菓子の入ったビニール袋がゆらゆらと揺れる。

「そういえば最近平子くん見ないね」

 今までなら月に1度や2度は見かけていたのに、5月頃からトンと姿を見なくなっていた。

「あー、なんか忙しいんだって」
「…汐里、平子くんと何かあった?」

 無理に作った汐里の笑顔に夏樹は思わず眉を顰める。

「いやいや、なんでさ」
「む、これでも作り笑いくらい分かるよぉ」
「そっかぁ…うん、ちょっと喧嘩しちゃった…」

 たははーと乾いた笑いを作る汐里に夏樹はどうしていいか分からず、中途半端に持ち上げた腕をおろした。

「ね、それよりさ。最近夏樹の方こそ、変なこと起きたりしてない?」
「あぁ、うん。大丈夫。最近怪我するのも減ったし」
「何か、隠してない?いつも大事なことは言わないの、悪い癖よ」

 見透かしてくるような視線に夏樹は少しどきりとする。確かに自分の悪い癖だった。
 流石に幽霊が見えるようになりました、なんて言えないしなぁ、ごめんねと心の内で秘密を作ったことに対して謝罪する。
 結局のところ、他人に深いところを踏み込まれるのが怖いだけの話だと自分で気付きながらも、表にはおくびも出さなかった。

「怪我減ったのはいいことだけど、ちょっとぼーっとしすぎじゃない?」
「うっ、それは否定できない…」

 日常生活で幽霊につい目を取られて結局のところ、痣や擦り傷は絶えていなかったのだ。

「!!」

 突然ぞわりとした悪寒が背中を走る。まるで胃を直接掴まれてひっくり返されたような不快感に、思わず口元に手をやる。

「夏樹?」

 全身が粟立つような感覚に思わず後ろを振り向くが、何も変わった様子はない。

「え、と。何?夏樹?」

 突然険しい顔をして振り向いた夏樹に後ろを歩いていた部員たちは首を傾げる。

「この感じ…」

 首を絞められるような圧迫感、背筋に走る恐怖、この感覚を夏樹は知っていた。緊迫した空気に口の中が急に乾いていく。

「虚…?」

 虚は己の心の穴を埋めるために、霊力のある人間を襲うのだ。ルキアの言葉が頭の中を走る。

―だとしたら、私だ、標的は

「は?ほろ?なんて?」

 部員の男子が不思議そうに首を傾げる。
 夏樹が空に目を凝らすが特段変わった様子はない。が、空から突如出てきた空虚な穴と目が合う。

「ごめん、先に行ってて!うまい棒買い忘れた!!」

 夏樹は虚と目が合ってしまった瞬間にその場から走り出した。

「えっ、ちょっと!?」

 間違いなく自分を標的にした、と夏樹は刺さる殺気に身震いする。咄嗟に脚が動いただけ、自分を褒めてやりたかった。

―えっと、虚、虚だから…一護かルキアちゃん!あぁもう、2人の連絡先なんて知らない!!そうだ、浦原商店っ、駄目だ遠すぎる!学校に戻るべき!?

 夏樹は足を止めることなく必死に行く先を思案する。

「どこへ行く」

 突如空から降ってきて目の前に現れた蛇のような虚に夏樹は前につんのめりそうになる。

「逃がす訳がなかロウに」

 ククと響く低い笑い声に背筋が凍る。逃げろ、逃げろ、と頭の中で警鐘が鳴り響く。

「儂が見える霊感の強い人間は久しぶりだ。サテ、どこから喰ろうテやろうか」

 虚の長い白い舌がべろりと地面に垂れ下がり、夏樹の頭から足先までを嘗め回すように見つめる。仮面の後ろに生える触手が気味悪く蠢く。

「何ボーっとしてんのよ!!」

 突如目の前で響く轟音に夏樹は目を見張る。汐里の投げた何かが虚の仮面の前で勢いよく爆発し、虚から苦悶の雄叫びが漏れる。

「逃げるよ!」

 汐里は夏樹の手首を掴むと勢いよく引いて走り出す。

「汐里、なんで!?」
「説明は後!!」

 状況が全く理解できないまま夏樹は引かれるがままに脚を動かす。
 どうして虚が見えるの、今投げたのは何。聞きたいことは山のようにあるのに、必死で走る夏樹の口から出るのは乾いた呼吸音だけだった。

「小娘ドもがァ…!」

 ずりずりと巨躯が這いずる音が徐々に近づいてくる。
 走れども走れども距離は詰められていくばかりで、夏樹は酸素の足りない頭をフルに回転させていた。どうすれば逃げ切れるのかと。

「きゃあっ」

 隣を走っていた筈の汐里の姿が悲鳴と共に突然消える。
 後ろを慌てて振り向けば、虚から伸びる触手に汐里の脚が掴まれていた。

「手間をかケさせよって…」
「汐里!!」

 思わず伸ばした手は空を掻いた。ぶらりと逆さまに宙に浮く汐里に夏樹は血の気が引いていく。

「喚くナ小娘、一人ずツ喰ろうてやる」

 虚はにたりと意地底の悪い笑みを浮かべて長い舌で汐里を嘗め回す。

 ―どうしよう、どうしようどうしよう…!何か、何か!!

「っけんじゃないわよ!」

 暴れる汐里に虚は容赦ない衝撃を腹に叩き込む。咽る声と一緒に嘔吐物が勢いよく噴出した。

「汐里!」
「やかマシい食事は嫌いなんじゃ」

 少し黙っておれ、と触手を夏樹めがけて伸ばすと勢いよく締め上げる。
 肺の中の空気が一度に押しつぶされるような圧迫感と浮遊感。
 首元を絞め上げる触手に爪を立てたところで虚は痛みすら感じる様子はない。

―ここで、死ぬの?

 夏樹の身体を死の恐怖が染め上げた瞬間、再び爆発音が響く。

「逃げ、て…」

 どさりと夏樹の身体は地面に倒れ込む。新しい空気を慌てて肺に入れ、振り返れば汐里が震える手で何かを触手に投げつけたことだけが分かった。
 耳を劈くような怒号が虚の口から響く。

「よくも、よクモ!!人間ノ分際で二度も!!!」
「汐里!!」

 虚は怒りに任せて汐里を締め付け、苦痛の声が汐里の身体から漏れる。

「あぁぁぁ、っあ…」
「やめて、やめて!!!」
「やかましい!」

 怒りに任せた虚の触手から出た刃が夏樹の腕を切り裂き、腹を貫いた。その勢いのまま壁に打ち付けられる。衝動で肺の空気は全て抜け、霞む視界で汐里がぐったりしとしているのが見える。

−死ぬの?こんなところで?

―また、大事な人が、殺されるの?

―また…?

 心臓の音がやけに大きく頭に響く。拭え切れぬ絶望感よりも熱く夏樹の頭を支配するのは怒り。痛みが辛うじて意識と現実を繋いでいた。

 −あんたは生きなさい

 突如フラッシュバックするのは、雨の音と母の笑顔。それから今もこびり付いて離れない血の匂い。

「汐里を離して」

 身体はふらつくが、それでもしっかりと脚は身体を支えている。拳を強く握りしめ、忘れかけていた空手の構えを取る。
 夏樹は目の前の虚を見据えながら、頭の奥で鳴りやまない雨の音を聞いていた。思考だけが妙に冴えて、指先に血が巡るのを感じ取る。

―きっといつか、大事なものを守らなきゃいけなくなる

「たカダか小娘が…」
「…君臨者よ」

―その時は、あいつが力を貸してくれるさ

「何を」

 夏樹は迷うことなく口を開く。中指と人差し指を立てると、身体の奥底から力が湧き上がってくるのを感じる。

―お母さん。私、ずっと忘れてた。

「血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ。焦熱と争乱、海隔て逆巻き南へと歩を進めよ」

 何故だか知っている言葉と目の前の虚を倒せるという確信。夏樹の口は昔からよく知る単語のように、不可思議な言葉をすらすらと綴る。
 身体の奥が燃えるように熱い。覚えのない確かな力が震える手を支えている気がした。

―もう、訳の分からないまま大事なものを失うなんて…たくさんだ。

「破道の三十一!赤火砲!!!」

 構えた指から巨大な炎が解き放たれ、虚を爆破する。虚はよろめくと共に汐里を勢いよく手放す。

「汐里!!」

 夏樹は汐里の身体を慌てて受け止めに走る。

「げほっ、夏樹…っ?」

 夏樹は強張っていた表情を一瞬緩ませると、そっと地面に汐里を降ろす。

―どうか、お願い。私に守るだけの力を。もう二度と、誰も失くさずに済むように。

 再び虚を見据えると、いつの間にか腰にあった刀に手を伸ばす。
 汐里は目の前の出来事が全く理解できないまま、見ていることしかできなかった。
 夏樹の服が黒い和服に代わっていること、いつか平子が持っていたのを彷彿させる日本刀。

「もう二度と…」

 刀を引き抜く金属音に叫び声を上げていた虚が慌てて態勢を整える。

「何故人間ガ死神の…!」
「あぁぁぁぁっ!!!」

 夏樹は力任せに虚の仮面にめがけて刀を振り下ろした。
 虚は雄たけびを上げながら割れた仮面と共にバラバラと空気中に霧散していく。

「はっ、はっ…よか、った…汐里」

 ふらつく足取りで汐里の方を振り向くと、夏樹はホッとした笑顔を見せる。しかし、身体はそのまま地面に倒れ込み、黒い衣装が風に乗って溶けて行った。

「夏樹!?夏樹!!」

 慌てて汐里は夏樹に駆け寄るが、 返事はない。

「気ィ失ってるだけや、安心せえ」
「し、真子!?」

 突然現れた平子は夏樹の腕を掴むとそのまま身体を背に乗せる。
 状況が理解できないまま、汐里は平子がすることをただ見つめた。

「すまんな、遅くなって」

 平子は強引に汐里を俵担ぎすると、その場を一瞬で立ち去った。
 汐里は目で追えない程の移動速度の衝撃でようやく我に返る。

「バカ!!危険な目に合わないんじゃなかったの!?夏樹が怪我した!」
「すまん」
「来るの遅すぎでしょ!!!」
「すまん」
「夏樹がっ、死んじゃうかと、思ったじゃんか…!!」
「…すまん」

 捲し立てるように責めながら泣く汐里に平子はただひたすらに謝罪を送る。

「許ざないっ…!」

 平子は浦原商店と書かれた古ぼけた看板の家の前でようやく足を止める。
 ズカズカと勝手を知るように中を進み、障子を開けると、2人を畳の上に下した。

「傷の治療は喜助にしてもらい」
「待って!」
「怖い思いさせてすまんかったな」

 平子は振り返ることなく、制止を無視して店の外へと出て行った。
 汐里は慌てて夏樹の方を見ると、腹部からも腕からも血がべったりと張り付いていた。

「っ、誰か!!」
「あれ、汐里サン早かったですねぇ」

 間の抜けた声が慌てて立ち上がろうとした汐里の背中から降りかかる。

「浦原さん!助けてっ!!」

 汐里は飛びつくように浦原の羽織を掴んだ。

「大丈夫、落ち着いて。必ず助けますから」

 浦原はちらりと夏樹を見ると、あやすような声で笑う。後ろに控えていたテッサイは抱えていた褐色の少年と長い茶髪の少女をそっと畳の上に降ろした。

「その2人は…」
「詳しい話は相模サンが起きてからにしましょ、汐里サン。貴方も怪我の治療をした方がいい。服も汚れて不快でしょう」

 汐里は不安な顔のまま小さく頷くと、前髪の長い少女に促されるまま別室へ移動した。