18

 夢を見た。
 母の温かい手と父の柔らかい笑顔。
 代わる代わる浮かんでは流れる幼い頃の情景を、夏樹は映画を見るようにぼんやりと眺めていた。
 そして最後に見たのは、白い仮面と視界一杯に広がる赤。
 目を覚ませば見知らぬ天井で。
 どうしてこんなに大事にしていたものを忘れていたんだろうと、目に溜まった涙を乱暴に拭った。

「お目覚めですかな」

 障子が開く音がして、振り返れば以前も見かけたメガネの大男が皿を持って立っていた。

「えっと、」
「店長!」
「はいはい、おはようございます。相模サン。汐里サンは外傷もなかったので、今日は学校に行ってますよ。あと2時間もしたらこちらに来るでしょう」

 夏樹が聞こうとしたことを全て聞く前に答えられ、開きかけた口がそのまま塞がらなかった。こちらが何を聞こうとしていたのかも忘れてしまう。

「お腹も空いたでしょう、リンゴでもどうぞ」

 テッサイの皿に乗っていたウサギさんのリンゴを受け取ろうと手を伸ばす。利き腕を動かそうとして、走る痛みに顔をしかめる。

「出血が多かったのと、お腹の傷を塞ぐのに時間がかかりましてね。腕の方はまだ途中なんスよ。少し落ち着いたら続きをしましょ」
「あ、ありがとうございます」
「相模サンの霊力が多くて良かったっス」
「私、多いんですか…?」
「ええ、そりゃもう。滅茶苦茶に。霊力の多さは生命力の強さ強さですから」

 言われて摩ってみた腹部は少し違和感が残るものの、痛みはない。
 リンゴを全部食べ終わると、テッサイは夏樹の腕の包帯を外して治療に取り掛かった。
 治療されている傍ら、夏樹はちらりと浦原を盗み見る。浦原もリンゴを食べているが、表情は帽子に隠れてよく見えない。解けぬ警戒心を押し殺して、夏樹はそっと目を閉じた。

―お母さんは、虚に、殺された


 = = = = =


 そうして本当に2時間が経った頃、慌ただしい足音が夏樹の耳に届く。夏樹は読んでいた本を閉じた。
 スパン!と勢いよく開かれる障子から、息を切らした汐里の姿が姿を見せる。夏樹がへらりと笑って汐里を迎えた。あまりにも勢いよく障子が開くものだから、壊れるんじゃないかと頭の片隅で考えてしまう。

「夏樹っ!」
「ぐぅえ!」

 勢いよく汐里は夏樹に飛びつく。そのまま勢い余って二人は布団に倒れ込んだ。

「よかった…!」
「いでて…大袈裟だなぁ」
「あぁもう、ほんと!バカ!!」

 汐里は暴言を吐くと口を一文字にして、目を赤く潤ませていた。夏樹は汐里の元気そうな姿を見て、あぁ、守れてよかったと心の底から思うのだった。

「傷の具合は?」
「ん、テッサイさんが殆ど治してくれたから大丈夫。一応包帯巻いてるけど」
「いやぁ、若い女の子が仲睦まじいのはいいですねぇ」

 浦原が扇子を仰ぎながら、へらりと笑みを浮かべて汐里と夏樹の前に座る。

「浦原さん!」
「お元気そうで何よりですよ、汐里サン」
「さて、お二人とも揃ったことですし。昨日の説明、始めましょうか」

 帽子で隠れた隙間から、射貫くような真剣な眼差しが2人を貫く。
 思わず夏樹は生唾を飲み込む。自分の身に何が起きたのか。それを知る時が来たのだと。

「まずは…あなたが死神化したことについて、話しましょうか」

 浦原は淡々としているようで、どこか芝居がかった口調で語りだす。
 夏樹の死神化は、以前に黒い死覇装の死神姿をした”黒崎一護”と接触したことによって、魂の底から引きずり出された本来の能力なのだと。
 汐里もまた、虚に狙われるより質の高い魂魄を持つ人間であること知る。夏樹はやはりそうなのかと、薄く描いた仮説に丸をつけた。
 浦原は続けて、この力を以てして踏み入れるべき世界か否かも決めなくてはならないと告げた。今までの世界が根底から崩壊するような感覚に目眩がする。

「…浦原、さん」
「はい」

 夏樹は混乱しきった頭で、一呼吸分の深呼吸をする。元には戻れないと絶望しているにも関わらず、どこか冷静に俯瞰して事態を把握できている自分自身に驚いていた。現実味のない話が何故かすべてしっくりと自分の中で納まるのだから。
 あの日の悪夢の一端が、ようやく理解できた気がした。

「わたし、昔…虚を見たことがあるんです」

 夏樹の視線は浦原を見ているようで、どこか遠くを眺めていた。
 目覚める前に見た記憶をなぞる。

「お母さんは、虚に殺された。だけど、あの日にあったことはそれだけじゃない。私、もっと何か大事なことを…確かめなくちゃいけない気がするんです」

 虚に初めて襲われたあの日からずっと感じている違和感。自分の中に、何か別の存在が潜んでいると。
 その何かが必死に訴えてきている。もう隠すことなどできない。

「私、知りたいです。過去のことも、自分のことも…だから」

 夏樹はスッと居住まいを正して、浦原を見つめる

「力の使い方、教えてください」

 静かにそう言い切る夏樹の顔には、覚悟と隠しきれていない動揺が現れていた。

「死にかけたのに、こちらに来ますか。勇気があるのか、浅はかなのか」

 浦原はほんの少しだけ目を見開いた後、ため息交じりに呟いた。

「…ま、気概は十分そうですが今は療養が先ですねン。もう一晩も寝れば傷も完治するでしょう。そうしたらば、もう一度話をしましょう。それまでに自分の心を整理しておくといいっス」

 パンと広げた扇子で浦原は顔を隠すようにして言う。今日はもう着替えて帰れと、真新しい制服を渡される。

「浦原さんっ」
「何でしょう?」
「…前に、公園でお会いしてますよね?」

 夏樹は相手の出方を伺うように浦原の顔を見つめる。

「アララ…まぁそうですよねェ。その話、アタシが今はお話しできることはありません」

 有無を言わさぬ圧に夏樹は手を握りしめる。もうひと押ししようとしたが、浦原の鋭い視線にそれ以上の追求を諦める。

「その、もう一つだけ。ルキアちゃん知りませんか?」

 余りに的外れな問いに浦原はぽかんとした表情を浮かべる。
 何故だか彼女のことが頭に浮かんだ。時折学校ですれ違えば大事はないかと尋ねてくれた。彼女がクラスメイトと昼食を共にしているのも見たことがあった。その度に何故か胸がちくりと痛んだ。それは嫉妬なんてものではなくて、どちらかと言うと後悔に近かった。
 そして今は、言語化しにくいが、確かに沈み込むような感情が確かに遠くから感じるのだ。以前よりもはっきりと。

「朽木サンですか?」
「なんか、ざわつくと言うか…うーん…」

 夏樹は首を傾げながら、その正体を探ろうとするが良く分からずにいた。

「いえ、知りませんが。…なる、ほど…朽木サンに…ふむ、これは…」

 ぶつぶつと独り言ちる浦原を他所に、夏樹はとんでもない事実に気付き声を上げる。

「ハッ、やばい…おばあちゃんにまた無断で外泊…!?こ、殺される…」
「適当に記憶をねつ造したので大丈夫なはずですよン」
「全然大丈夫そうに聞こえませんけど!?汐里!帰ろ!!」
「あ、うん!」

 汐里に手伝ってもらいながらも、バタバタと慌てた様子で荷物をまとめ始める。

「お世話になりましたー!」

 夏樹は元気に手を振ると慌てた様子で走り去った。

「汐里も霊が見えてたって…いつから私が見えるの気付いてたの?」
「割と最初じゃないの、挙動不審すぎてすごい怪しかったから」
「うっ」
「私に隠し事など100年早いのさ!」
「うるさいなぁ!もう!急いで帰るもん!じゃーねっ!!」

 夏樹はベッと舌を出しながら手を振る。
 汐里はそれに笑いながら手を振り返す。夏樹は見えなくなる手前でくるりと振り返ると、ありがとう!と叫んだ。