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「おばあちゃんただいま!!」
「何だい、騒々しいね…」

 普段と何一つ変わらぬ様子で祖母は台所に立っていた。

「あんた、その傷は」
「あ、今日体育で転んじゃって…」
「ったく、鈍臭い子だね」

 悪態をつくいつもの祖母に夏樹はホッと胸をなでおろす。

 −よかった、大丈夫…

「ところでアンタ昨日外泊するって言って、代わりに釣り名人が押しかけてきたけど何だったんだい」

―じゃなかったーーー!!!何釣り名人って!?浦原さん全然大丈夫じゃないんですけど!!

 夏樹は意味の分からない祖母の記憶に頭を抱える。
 何と答えたものか迷っていると祖母はため息をついて、早く手を洗ってこいと告げる。

「今日はあんたの好きなかぼちゃの煮物だよ」
「やった!おばあちゃん大好き!!」
「年寄りのかぼちゃなんかで喜んで安い子だね…」

 夏樹はかぼちゃを二回もおかわりをして、夕食を全て綺麗に平らげた。
 食器を洗う手を動かしながら、夏樹は浦原商店を出てからもずっと感じている違和感に気を取られていた。感覚は時間が経つほど顕著になっていく。

「うーん…おばあちゃん、ちょっと出かけてきていい?」
「もう9時回ってるよ」
「分かってる分かってる、ちょっとコンビニにおやつ買ってくるだけだから」
「…大福、粒あんだよ」
「はーい」

 夏樹は纏わりつく夜の熱気を無視して、深く呼吸して目を閉じる。
 町のあちこちから人の気配を感じる、不思議な感覚が身体を満たす。浦原曰く、これは霊圧というものらしい。一人一人の指紋が異なるように、霊圧も同じものを持つ者などいない。
 注意深く辺りを探り、弱々しいけれどルキアだと確信できる存在を捕らえる。

「結構近い、かな…」

 自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げると、夏樹はルキアのいる方向へと走り出した。
 20分もしないうちに、夏樹は目的の人影を見つける。

「ルキアちゃーん!」
「うわっ」
「見つけた見つけた、霊圧辿るのって便利だねぇ」
「相模、何故ここに…いや、今なんと」

 突然の来訪にルキアは頭上に疑問符を浮かべる。

「うーん、ルキアちゃんがお腹空かせてるような気がして?」
「何を言うのだ愚か者」
「ルキアちゃん、ご飯は?」
「…まだだ」
「じゃ、そこのファミレス行こ。今ハンバーグフェアやってる」

 ほらほらと怪訝そうな顔をしたルキアの手を無理矢理引いて店の中に押し込む。

「このハンバーグと季節のパフェひとつずつお願いします」

 夏樹は手早く祖母にも遅くなる連絡を入れる。ルキアはしかめ面で夏樹を睨んでいた。

「一体何が…」
「いや別に、ルキアちゃんとちょっと話したいなと思って」
「別に話すことなど」
「昨日たくさん虚が出た時に、私も襲われた」

 ぴたりとルキアの動きが止まる。腕の包帯を見たルキアは眉間の皺をより深くさせた。

「それから変なの。いろんな人の霊圧が分かるようになって。全然まだぼやけてるのに、ルキアちゃんの霊圧だけがくっきり見える」

 死神の話はまだ正直自分も良く理解できておらず上手く話せる気がしなかった。そうして敢えて伏せる選択を取った。
 死神のほかに、自分に備わった新しい力。神経を研ぎ澄ませれば町の至るで、霊力のある人間の存在が手に取るように分かるようになった。
 まだ覚束ない探知能力だが、その中でもルキアの存在だけは嫌にクリアに夏樹の手の中にある。まるで見えない糸に繋がれたように。
 ルキアは姿勢をそっと正すと、悲し気に眉を下げた夏樹を見つめる。

「でね、ルキアちゃんが泣いてるような感覚がずっと、あるの…だから、来ちゃった」

 ごめんね、と力なく笑う夏樹にルキアは何故だかルキアも心が痛くなる。

「美味しいご飯食べよ。嫌なこと少しなら、忘れられる」

 運ばれてきたハンバーグの美味しそうな匂いが食欲を刺激し、ルキアの腹が鳴る。
 可笑しそうに笑う夏樹に釣られてルキアも顔を赤くしながら笑う。

「ほら、食べようよ。今日は私の奢り!」

 ルキアは受け取った箸をハンバーグにつけることなく、そっと机に置く。顔には困惑が浮かんでいた。

「相模…その、すまない」
 
 ルキアが戸惑いを隠せないのは無理もない。夏樹がルキアの寂寥感を拾ってしまったのとと同じように、ルキアもまた夏樹の慮る心を無視できずにいた。

「早く食べないとハンバーグ、冷めちゃうよ」
「…あぁ、そうだな」

 ルキアは珍しく素直に目の前の好意を受け取った。自身の行動に驚きながらも、彼女の前では自分を繕うのも無意味な気がしたのだ。
 夏樹はルキアの手が動き始めたのを見ると、漸く自分の前にあるオレンジのパフェにスプーンを挿す。

「…美味い」
「よかった」

 ルキアはハンバーグをどんどん口に運ぶ。無言で必死に、食べる。そうしてあっという間に2人の皿は空になった。

「ご馳走様でした」
「…何か困りごとがあれば浦原に頼るといい。彼奴は…胡散臭いが霊法外のことも対応できる上に実力は間違いなく、強い。頼りにはなるだろう」

 ルキアが口元を紙ナプキンで拭う様も何処か優雅に夏樹の目に映った。

「余計な事故に巻き込まれぬように、生きてくれ」

 暗に、自分や死神稼業に関わるなと言っているのだと気付く。危険を伴う事に無闇矢鱈と首を突っ込むなと言う事だろうか。

「私は…元いた場所に帰ろうと思う。別の死神がまたこの町に派遣されるだろう」
「帰るの?」
「あぁ」
「それは、後悔しない?」
「する訳ないだろう」

 ルキアは崩しそうになった表情を悟られぬよう取り繕った。見栄を張っていると見透かされているのを理解しながらも、フンと呆れた顔をすれば夏樹は困ったように笑う。夏樹も追求することなく、そっか。とだけ答える事にした。

「相模こそ、死神になろうなぞ考えるなよ」

 ルキアの発言に今度は夏樹がどきりと肩を揺らす。

「貴様にも事情はあろうが、これは本来死神の仕事であり、貴様は守られるべき存在だ」

 ルキアの視線は自分の心臓の、そのさらに奥を覗いているような気がした。

「私が泣いているなど腑抜けたことを言うが、逆は思いつかなかったのか」
「!」
「…言わんとしている事は、分かる。原理は分からないが。だからこそ敢えて口にしておこう」

 ルキアは正面から夏樹の瞳を捉える。

「死神とは、関わらないでくれ」

 夏樹は居たたまれなくなり目線を逸らす。関わらないまま生きていけるとは到底思っていなかった。両親の事も考慮すれば猶更だ。

「…考えとく」

 無理くり絞り出した答えは、ルキアを納得させはしなかった。けれどこれ以上の交渉の余地はできぬだろうとため息をついた。

「ねぇ…また会える?」

 恐る恐る、伺うように夏樹は口を開く。ぱちぱちと瞬きをした後、ルキアは柔らかい笑みを浮かべた。

「どうだろうな」
「次は私の好きなケーキ屋さんに行こうよ」
「…悪くないな」

 ルキアは是非を答えず、ただ小さく返事をした。もしそんな未来があり得たらとなどと想像した自分を叱咤しながら、それでも、それは思いもよらぬ程素敵な事なのだろうと思うのだった。
 ファミレスを出れば夏が近付く独特な湿った匂いが全身を包んだ。ルキアは夏樹にもう一度礼を言うと、その場で別れる。
 できれば、私のことなど忘れてくれ、と小さく呟いた声は、夏樹に届くことなく風に流れて溶けた。