20

 懐かしい声がして、夏樹はゆっくりと目を開ける。

「久しぶりやね」

 咲き誇るのは小さな白い花。一面を埋め尽くすように、白の絨毯がどこまでも広がっている。時折同じ花の薄い桃色が混じっていて、淡く美しい光景に何故だか泣きたくなった。
 昔聞いたはずの花の名が思い出せず、就寝していたはずの頭は茫と覚醒しようとしない。
 世界を真っ二つに割るように厚い雲が空に半分だけ掛かる。激しくはないが止みそうもない雨を凌ぐ場所はどこにもありそうにない。所々にぶつ切りの電線がぶら下がっている。
 一方で晴れた空の下ではあるがまま、全てを受け入れて全てを受け流すように風が穏やかに吹く。

「えらいおっきなって」

 目の前に立つ女は狐の面を被っていてその表情を読み取ることはできない。久しく聞けていなかった馴染みのある声が耳に届くと、蛇口を捻ったかのように記憶が蘇ってくる。

「久しぶり。お姉ちゃん」

 夏樹はゆっくりと口を開く。臆する様子もなく、当たり前のように夏樹は彼女の傍に寄った。

―ここに来るのは何年振りなんだろう

「忘れたまんまでよかったのに」
「思い出しちゃった」

 バツの悪そうに笑う夏樹に、お姉ちゃんと呼ばれた長い栗色の髪をした狐面の女はため息をつく。

「また土砂降りやないの、折角小雨になっとったんに」
「ごめんね」

 夏樹はここが夢の中だと、昔はよく来た場所だと思い出す。
 母が死んでからこの夢の場所へ来るようになった。あの頃は確かもっと嵐のような豪雨で、けれども天候を気にするような余裕なぞ夏樹にはなかった。

『お母さん、死んでしもたん』
『うん』
『…そうか、ほんならうちと一緒にここにおり』
『いいの…?』
『ここはな、アンタが泣いとるとな、雨ザーザーなるんよ。…うちはここで暇やから、泣きたいだけ泣けばいい』

『ええ子や、アンタはええ子、優しい子』

 穏やかな手つきで夏樹の頭を撫でる彼女は、いつも声色が寂しそうだった。母がいない寂しさを寂しい者同士で一緒に居て埋めようと、話し相手になってくれていた。母のような、友人のような、姉のような。
 夏樹は彼女を心の拠り所に、起きている間は元気な姿を振る舞えた。少しずつ嵐が豪雨に、ただの雨に変わっていく。
 けれど、そんな日々は何年も続かなかった。

『夏樹ちゃん、もっと一緒におったりたいけど、ごめんな』

『うちのことも、全部忘れ。できればもう二度と、会うことがないのを祈るわ』

 あれは何年前のことか、突然そう告げられた。合点が何もいかない中、夏樹は怒りを覚えたのは覚えている。どうして、どうしてと泣き喚いたが取り付く島もなかった。
 曇天の空を見上げる彼女は、面で隠れているにも関わらず何故か泣いているように見えた。
 そうしてこの平原のことも、彼女のことも、何もかも忘れた日、母の死の辛さも事件当時の恐怖も靄がかかったように思い出しづらくなっていった。

「夏樹ちゃん。アンタが死神の力をこじ開けてしもたから、もう止められん。きっともう、始まってしまうんや」
「何を言って…」
「巻き込まずにできれば良かったんやけど」

 夏樹の言葉を遮るように、ごめんな、と彼女はそっと夏樹の頬に手を添える。

「大きなったなぁ、ほんまに。よう似てる、香澄ちゃんに」

 どこか懐かしむように夏樹を愛しむ。その手つきは昔母がよくしてくれたものに似ている気がした。

「聞いて。きっとこれから、アンタは目も耳も塞ぎたくなるような事に巻き込まれる」

 肩をそっと両手で掴まれ、真剣な声色で諭すように語りかける。

「よく考えて、何が一番大切なんか」

 肩を掴む手が小さく震える。雨が全てを包み込むように、容赦なく全てを濡らしていく。

「夏樹ちゃんが、進みたいと思うのなら、正しいと思うのなら、うちはいつだって力貸したげる」
「おねえ、ちゃん…」
「やけど、これだけは守って。生きて。何があっても」

 振り絞るように、震える声で小さく呟く。彼女が泣いているような気がして夏樹は面に手を伸ばす。けれど、手が面に触れようとした瞬間、視界に広がるのはいつもの部屋の白い天井だった。頬には自分のものか、彼女のものか、どちらともつかない涙があった。
 雨の中で彼女と笑い合った日々を思い出す。廃退的な世界で二人きり。不安定な心を優しく包んでくれた不思議な女性は、あの絶望に塗られた世界を確かに照らしてくれて。
 お姉ちゃん、死神、虚、母の死。共通点のなかったはずの記憶が少しずつ線になっていく。ほんの少し前まで当たり前だった日常は、もはや思い出す気にもならないほどに夏樹の頭の中は不安と胸騒ぎでいっぱいだった。

 ぼんやりと天井を眺めていたら、突如ぞくりと背筋が粟立ち弾ける様に飛び起きた。
 
―っ!?今…!

 夏樹は以前学校でルキアの元に走った時を思い出す。しかし事態はそれよりも明らかに性急だった。
 逃げろ、隠れろと警鐘を鳴らす。懺悔と後悔と、世界が愛おしいと想う心。
 この感情の持ち主は朽木ルキアだと夏樹は直感する。

―だめ、行かなきゃ。行かなきゃ…!

 身体の奥から湧き上がる何かに突き動かされて、衝動のままに家を飛び出た。深夜の住宅街を走っていた筈が気が付けば宙を駆けていて、自分が死神になっていたことを漸く悟る。
 どうしてまた死神になっているのか、なんてことはどうでもよかった。

―早く、早く行かないと、

「成程この子供は―――奴によく似ている」
「な、にこれ…」

 夏樹が漸く到着した現場には血濡れになった一護と見知らぬ少年。同じような死神の服装をした男が2人。そのうちの1人にルキアは首を掴まれている。
 全く状況が分からぬ中、夏樹は咄嗟にルキアの方に手を伸ばす。
が、身体は突然遥か後ろへと何かに引っ張られた。視界に映るオレンジ色が勢い良く遠ざかる。

「ふー…危ない危ない。ダメっスよォ、相模サン」

急に視界が暗くなって、何か布を被せられたのだと気付く。腰のあたりで両腕が何かに縛られて上手く身動きが取れない。

「なっ、に!浦原さん!!」
「シーっ。静かに出来ないなら口も塞ぎますよ」

威圧的な殺気に思わず閉口する。一護達の会話も聞こえない。
 一瞬此方の方へ、黒髪の死神が視線を投げたが一護が彼の足首を掴んだ事で意識は逸れた。後ろから小さく安堵のような息を吐く音が聞こえたが、それを気にする余裕は夏樹にはなかった。

ーなんで、なんで今…!行かなきゃ、行かなきゃ、

 がしりと男の足を掴んだ一護に、ルキアが一護!と大声を出す。夏樹は酷く痛む胸を押さえることもできず、目じりに涙が溜まっていくのを拭うこともできないでいた。

―お願い、やめて、そんな風に、

 ルキアが一護の手を蹴り飛ばしたのと同じタイミングで、夏樹の身体が飛び出ようと力む。

「ダメって言ってるでショ。死にたいんですか?」

 首筋に当てられた冷たい指先から伝わる殺気に思わず動きが止まる。一歩でも、これ以上動けば死ぬ。明確な死のイメージは夏樹の脚を止めるのに十分だった。

「…っ!」
「貴方が行って出来ることは何もありません」
「ここで、見てろって言うんですか」
「ええ」

ルキアがくるりと一護に背を向けて歩き出す。内側にで身を焦がす感情は、酷い自責の念ばかり。

ー行っちゃ、駄目…!ルキアちゃん…!!

擦り切れそうな祈りは乾いた喉を上手く通らず、握りしめる指先が掌に深く食い込む。変わらず浦原の指先は首筋に当たっていて、後ろ手に拘束された腕ごと反対の手で押さえつけられていた。

ーやめて、やめて…!そんな風に、

 今にも涙が溢れそうな悲痛な瞳から零れ溢れる彼女の感情は。
 上手く感情を表現する言葉が見つからず、ただただ胸の痛みに耐えるしかない現状に、涙が一粒零れた。

ーあぁ、手が届かない

 霞む視界で夏樹が最後に見たのは円状の白い光に3人が進んでいく後ろ姿だった。
 一護の悲痛な叫び声が身体に響く。彼から流れる血は止まらない。

 この喪失感は何だろう。私は何をまた失ったのだろう。
 何を、何を。
光が消えるのと同時に拘束が解かれて、へたりと力が抜ける。

「手荒なマネですみません。ですが、貴方にここで出て行かれると少々話が拗れるので」
「どうして、」
「貴方に今ここで死んでもらっては困るんですよ」

呆然としたまま顔を上げると、浦原が帽子を深く被り直して居た。無情に打ち付ける雨がやけに冷たく感じた。
我武者羅に駆けたからか、全てが終わってしまったからか、死神化が解けると同時に目の前が真っ暗になった。